「――っ、黒霧の魔女か」

 ジラルドはロゼッタに駆け寄り、黒い霧から庇うように彼女の前に立つ。

「またロランディが邪魔してくるのね。空間魔法を歪めてまで来るなんて目障りだわ。ああ、とっても残念。この身体は使い勝手が良かったのに、バレたから捨てなきゃいけないわね」

 アンドレイニ侯爵夫人はそう言い残すと床に倒れた。彼女の身体から出てきた黒い霧は宙を動き回る。

 黒霧の魔女のことは母親のエルヴィーラから聞かされていて知っていた。彼女がロゼッタを狙っていることもまた、知っている。
 彼にとって黒霧の魔女は憎むべき悲劇の根源。
 母親を含めた多くの人々を悲しませてきたその災いに一矢報いようと剣を構えて呪文を唱える。
 すると銀色に輝く刃は微かに水色の光を纏った。

「あらあら、小さいのに立ち向かおうとするなんて立派な騎士様だこと。ロゼッタ嬢、あなた次第でこの可愛らしい騎士様も命を落とすんですからね? 罪を重ねる前にさっさと殺されに来るといいわ。ちゃんと招待状を送ってあげるから楽しみに待っていて」

 黒い霧からは女の声が聞こえてくる。その気だるげで妖艶な声が、ロゼッタに呪詛をかけるように残酷な言葉を紡いでゆく。

「ふざけるな! これ以上お前の思い通りにはさせない!」

 ジラルドは剣を振って氷でできた刃を黒い霧に向けて放つが、刃は黒い霧の前で粉々に砕けた。他の騎士たちの繰り出す攻撃も全て当たる前に崩されてしまう。
 彼らを嘲笑う声を辺りにこだまさせながら、黒い霧は消えてゆく。

(全く歯が立たなかった……)

 実力差を思い知らされたジラルドは悔しさのあまり奥歯を噛んだ。
 魔法はロランディ家の騎士たちと鍛錬してきたが、実戦で使ったのは今日が初めてだ。
 今の自分では守るための力が足りないと、まざまざと思い知らされてしまった。
 剣を鞘にしまうと、ロゼッタに手を差し出した。
 珊瑚色の瞳は翳っており、すっかり弱りきっている。

「……ジラルド様、どうしてここにいるのがわかりましたの?」
「あなたがひとりでミケランジェリ広場を横切っているのを見かけて、気になって追いかけてきたんです」

 しかし追いかけた先の路地でロゼッタの姿が急に消えてしまった。忽然と消えてしまった彼女は透明なカーテンに隠されてしまったかのようだっという。
 不審に思ったジラルドは騎士の1人にダンテとエルヴィーラを呼んでくるように指示し、残りの騎士たちとロゼッタを探すことにした。

「空間の歪みを対処するのに時間がかかったんです。遅くなって申し訳ありません」

 空間の歪みを魔法で解除してゆき、偵察のために召喚した黒い鳥にロゼッタがいるところまで案内してもらってたどり着いたのだ。

「ロゼッタ嬢、いったい何があったんですか?」

 ジラルドは手を取るのを躊躇っているロゼッタを見て、彼女の手を両手で包んだ。
 氷のように冷たくなった手は震えていて、黒霧の魔女と対峙していた時も懸命に恐怖を隠していたのが窺える。それと同時に、そんな健気な彼女を愛おしく思った。

 ロゼッタはこれまでのことをジラルドに話した。
 お屋敷でいきなり誰もいなくなったこと、誘われるように知らない場所に移動してしまったことを。

 話し終わると、ジラルドと一緒に話を聞いていた年かさの騎士が重々しく口を開いた。

「おそらくですが、お屋敷に少しずつ呪術を敷かれていたんでしょう。すぐに司祭に頼んで結界を張ってもらった方が良いです。私から奥様たちに説明します」

 この騎士はブルーノと一緒にロランディ家で不届き者を始末した男で名前はジャンという。
 一族代々ロランディ家を守る騎士として仕えているためそういった類の呪術に詳しいのだ。

「奥様とバルバート男爵はもうじき来るはずです。ご安心ください」
「……ブルーノも来るかしら? きっと心配しているわ。無事だって言ってあげないと……」

 あの銀色の髪の護衛の名前を聞いて、ジラルドはムスッとした表情を見せた。
 ロゼッタを見つけ出したのは自分だというのに、彼女はあの護衛のことを考えているのが面白くない。

「ロゼッタ嬢、失礼します」

 ジラルドはロゼッタを抱き寄せてよしよしと背中を撫でた。小さなの身体は冷えきっており、それに強張っていてぎこちなく動く。

「よく耐えましたね。剣を前にしても毅然と向き合うあなたは美しかったです」

 ブルーノのように彼女に寄り添いたくて、ドキドキする気持ちを抑えて手を動かす。

 ひとりが心細かったロゼッタは、先日の彼との言い合いも忘れてホッとしてしまった。強張ってしまっていた身体が解れていき、彼に助け起こしてもらって立ち上がる。

「ジラルド様、助けてくださってありがとうございました。ぜひこのお礼をさせてくださいませ」
「気にしないでください……当然のことをしたまでです。あ、あの……」

 相変わらずしょんぼりとしているが気丈に振舞うロゼッタを見て、ジラルドの目が伏せられた。
 ジラルドはこれを機に先日の非礼を詫びたかったが、いざ目が合うとなぜだか言葉が出てこない。

 好きな女の子を前にしていつもの大人顔負けの余裕を失っている次期当主の姿に、ロランディ家の騎士たちは甘酸っぱい気持ちになった。

「ロゼッタ嬢、先日は……」
「先日?」
「あ、いえ、先ほどのことは……」
「どっちなんですの?」

 そうこうしているうちに、2人の前に彼女の番犬が登場してしまったので、ジャンたちは心の中でジラルドに同情した。
 ブルーノが路地から姿を現したのだ。

「お嬢様っ……!」
「ブルーノ!」

 ロゼッタの前に跪いた彼はがっくりと頭を垂れた。まるで彼女から断罪されるのを待っているかのようだ。

「お護りできなかった私を罰してください」
「そんなことできませんわ。だって急に魔法を仕掛けられたんですもの。ブルーノは悪くありませんわ」

 そう言ってブルーノを抱きしめると、責任感に苛まれている彼はさらに俯いてしまう。

 走ってここまで来てくれたブルーノの息は上がっており、俯いたまま肩で息をしている姿を見たロゼッタは、彼を不安にさせたことを心の底から申し訳なく思った。

「だから、自分を責めないで欲しいですわ」
「……しかし、護衛は主人を護るべき存在です。それなのに私はあなたを護れなかった」

 ロゼッタはブルーノの顔にかかった髪を梳き流してあげた。いつも綺麗に纏めている髪はすっかり乱れてしまっていたのだ。

「わたくしを護れなかったと落ち込んでいる人をいじめる趣味はなくってよ。勘違いされてしまうからこれ以上わたくしに罰を求めるのは止めてくださらない?」
「……っ」

 怒ったように言っているが、彼を見つめる瞳には彼を想う気持ちで満ちている。
 ブルーノも空色の瞳でじっと見つめ返すと、ロゼッタの背中に手を回した。

 少女と護衛の美しい絆を目にしたロランディ家の騎士たちの中には感激して、涙を流す者もいた。
 そんな中、複雑な表情で見守っているジラルドの肩を、ジャンはそっと叩いて励ました。

「坊ちゃんは十分ご活躍されましたよ。きっとロゼッタ嬢を想う気持ちが伝わるはずです。気を落とさないでください」
「ち、違う。そういうことじゃないんだ」

 微かに頬を赤くした次期当主を見て、「このお方も人の子なんだなぁ」と微笑ましく思ったのだった。


 ◇


 ダンテとエルヴィーラはブルーノの登場からやや遅れて姿を現した。
 途中までは一緒に来ていたのだが、ロゼッタが目の前で消えてしまったのを見たブルーノは逸る気持ちを抑えられなくて知らせに来た騎士に場所を聞き出して先に駆けつけたのだった。

「ロゼッタ!」

 ダンテはロゼッタの姿を見るなり抱きついてきたので、ロゼッタはあっという間に彼の腕の中にすっぽりと収まった。

「よかった……最悪の事態ばっかり考えちまって、頭の中がめちゃくちゃだった」

 彼が泣きそうな顔で自分を見ているのに気づき、つられてしまう。じんじんと目の奥が痛くなって、顔をそむけた。
 泣いているところは見られたくなかった。そんな顔をすれば、きっと彼は優しい言葉をかけてきて、自分の決心を揺るがしてくるに決まっているから。

 そんな彼女の気持ちを知らないダンテは、両手で彼女の頬を優しく包み込む。
 その手は温かくて安心させてくれるが、それと同時に彼女の胸の痛みは増していくばかり。

「……生きた心地がしなかった」
「ごめんなさい……」
「もうこれっきりにしてくれ。心臓に悪い」

 頬に触れていた手は背中へとまわり、ロゼッタをまた抱きしめる。ぎゅうぎゅうと腕の力を強められてしまい、彼女は息苦しさを感じた。

「ありがとう、ジラルド。一緒にいてくれたおかげで怪我一つなく見つけられた」

 ダンテはジラルドに右手を差し出す。その手を握り返すジラルドの表情はいつもの大人ぶったものに戻っていた。
 エルヴィーラは息子の頭を撫でて彼の活躍を労う。

「アンドレイニ侯爵夫人の身柄は騎士団の方で神殿に引き渡す。司祭に闇の魔術を祓ってもらおう」
「ああ、頼んだ。何か進展があったら教えてくれ」

 ダンテは一向に自分の方を向こうとしないロゼッタの髪を撫でながらそう言った。
 しおらしくなって全く話そうとしないのが気にかかり、顔を覗き込む。

「傷が痛むか? 早く帰って手当てしてもらおう」
「……いいえ、大丈夫ですわ」

 その声は沈んでいて、ちっとも大丈夫そうではなかった。
 表情は苦痛にゆがめられており、彼女が必死で何かを堪えているようなのが伝わってくる。

「いろいろあって疲れただろ。もう帰ろうな」
「いいえ、ここでお別れしましょう」
「は?」

 ロゼッタは泣きそうな顔でダンテを見上げた。


「ダンテ、お願いだから私を捨てて」


 珊瑚色の瞳からは大粒の涙がとめどなく溢れてくる。
 ダンテが断ってくる隙を与えないように、震える声で訴え続けた。

「黒霧の魔女は、私が死ぬまで周りにいる人たちを殺すと言っていましたわ。もうダンテたちと一緒にいられませんの。ダンテが殺されるだなんて嫌ですわ!」

 それでも抱き上げようとするダンテの腕を押し返し、必死になって足を踏ん張らせる。

 これ以上、彼らの傍にいてはいけない。
 太刀打ちできない相手から大切な人たちを守る唯一の方法を実行するには、もうなりふり構っていられなかった。
 小さな身体で精一杯大きな声を出して、「置いて行って」や「ダンテの子どもをやめる」と叫ぶ。

 一方ダンテは傷ついた表情で彼女の言葉を全て受け止めているが、彼女を離そうとしない。やがてロゼッタの声が枯れてくると、彼女の耳元で何かを囁いた。途端にロゼッタは弾かれたように顔を上げて、パクパクと口を動かした。

 ジラルドはダンテが何を言ったのかわからなかったが、ロゼッタの青ざめた顔を見て訝しく思った。
 宥めるようなことを言えばあんな顔はしないだろうに、一体何を聞かせたらあんな顔をするんだと。
 同じくブルーノもその様子を見て心配したようで、抱き上げようとするダンテを制してロゼッタを抱っこした。ブルーノは彼女の頭に手を添えると自分の肩に顔を預けさせる。
 せめて泣いている顔を誰にも見られないようにしてあげようと、彼なりの配慮だった。

 ロゼッタは彼に縋りついて泣いた。
 ダンテとブルーノが立ち去ってもしばらくは、路地を吹く風が彼女の泣く声を運んできた。

 立ち尽くして彼らの後姿を見送るジラルドに、エルヴィーラは声をかける。

「ジラルド、この国は長らく蔓延っている闇のせいで悲劇が続いている。私はお前が騎士団に入る前にこの悲劇を断ち切るつもりだ」
「それなら僕は、悲劇が再び芽吹く前に摘み取るつもりです」

 彼は剣を引き抜いて掲げると目を閉じる。
 銀色に輝く剣にも、その誓いを立てた。