「おかしいわね。裏口を出たら庭があるはずよ」

 その予想に反して、目の前には水路が横たわっている。穏やかに波打つ水面には、艶やかに光る漆黒のゴンドラが停泊しており、彼女が乗り込むのを待っているように見える。

(ここは一体どこなのかしら?)

 確かに裏口をくぐったはずなのに、辿り着いたのは見慣れない場所で、とても狭い水路だ。
 どう見てもお屋敷の周りではない。
 中に戻ろうと振り返るが先ほど出るときに使った扉はそこに無く、見知らぬ家の扉に変わっている。
 まるで魔法で惑わされたみたいだ。
 恐るおそるドアノブに手を掛けるが、ガチッと固い音がするだけで開いてくれない。ロゼッタは溜息をついた。

「このゴンドラに乗って移動するしかないわね。魔法で動かせるかしら」

 ドレスの裾を持ち上げてそろりとゴンドラに乗り込む。以前はブルーノが抱っこして乗せてくれたから一人で乗るのは初めてだ。ゴンドラが揺れないか不安だったが、上手く乗り込むことができた。
 席に座ると同時にゴンドラは動き始め、するすると水面の上を滑ってゆく。揺れもせず進んでおり、何者かが操っているようで不気味だ。

(いったい、どこに行こうとしているのかしら?)

 早くお屋敷に戻らないとみんな探しているはずだ。停泊場に近づけようと風魔法を使ってみるが、ゴンドラはビクともせずにまっすぐ進む。
 建物同士の間が狭くて薄暗い水路には人気がなく、どの建物も窓が閉まっている。
幾つもの橋を潜り抜けて運河に出ると景色が大きく開けて、ロゼッタは胸を撫でおろした。

 ゴンドラはひとりでに停泊場に着くと動かなくなった。
 ロゼッタはまたドレスを持ち上げて用心深くゴンドラから降りる。近くにある階段を上って細い路地を抜けると、大広場に出た。

 並ぶ店の軒下では陽気な商人たちが客を呼んでいる。
 活気に満ち溢れた街並みは魅力的でじっくりと見てみたいが、気持ちを抑えて周りに視線を巡らせた。
 相変わらず自分がどこにいるのかわからないが、お屋敷の近くではなさそうだ。

(ここにいる人たちにお屋敷までの道を聞いたほうがいいわね)

 そう思って一歩踏み出したその時、きつい香水の香りが近づいてきた。
 彼女の視界に入ってきたのは、3人の令嬢。みんな彼女よりは遥かに年上で、大人の女性たちだ。
 道を聞こうと口を開いたその時、彼女たちは顔を寄せ合ってひそひそと話し始めた。

「ご覧になって、ダンテ様のところのみなしごよ」
「本当だわ。ひとりでいるだなんて、とうとう捨てられたんじゃなくって?」
「他人に見せられないくらい礼儀がなってないからずっと隠しているって噂ですわよ」

 声を潜めいているはずなのにロゼッタの耳にはしっかりと届く。
 ありありとした敵意と悪意が言葉からも表情からも伝わってきて気分が悪く、ロゼッタは彼女たちをチロンと一瞥した。

「あら、嫌ですわ。臭くて煩い犬たちが群れてうろついているだなんて、やっぱりダンテが言った通り外は危険ですのね」

「なによっ! 子どものくせに生意気ね!」
「あなたのような可愛げのない小娘なんてすぐに捨てられるんですわよ!」

 ツンとそっぽを向いて彼女たちの前を立ち去った。
 背中には心にもない言葉が次々と投げられているが、そんなのいちいち取り合ってられない。
 澄まして見せているものの、沸き上がってくる怒りとお屋敷に戻れない不安で泣きそうになり、足早に路地の中に入る。
 泣いているところは誰にも見られたくなかったし、そんな状態で道を聞けるはずがなかったのだ。

 路地裏は見るからに薄暗くて足を踏み入れるのは躊躇われたが、一歩前に進んだ。するとまた、足にヒヤリとした感覚がする。見ると足の周りを黒い靄が巻きついていて、飛びのいて逃げた。

(そうだわ、この靄に触ってしまってからおかしい事になってしまったのよ)

 お屋敷ではこの感覚がしてから誰もいなくなった。
 そう思い出した時にはすでに遅く、背の高い建物に囲まれた細い路地の真っ只中に移動してしまっていた。

 同じ日に何度もこんなことが起こると、さすがに何者かの仕業のように思える。

(黒霧の魔女……なのかしら)

 ダンテとブルーノ、そしてエルヴィーラが追っている魔女。
 かつて自分が連れていかれた闇オークションハウスの支配人で、競り落とされた少女が持つ女神の秘宝を狙っているとされている。

 冷や汗が背を伝った。
 彼女と出会ってしまったらどうしようかと、止めどない不安が襲いかかってくる。それでもじっとしていたってどうしようもない。ダンテたちはますます心配するだろうし、自分も気持ちが弱っていくばかりだ。
 ロゼッタは震える自分を律して、とにかく人通りが多い場所に戻ることにした。

 無我夢中でいくつもの角を曲がると時おり開けた場所に出るが、運河が行く手を塞いでいて引き返すしかない。
 対岸は多くの人が行き交っているというのに自分がいる場所はまったく人の気配がない。
 ロゼッタは恨めしげな目で対岸を見つめた。

 とぼとぼと来た道を戻っていると、路地を抜けて四方を建物に囲まれた広場に出る。
 さっきは通らなかった場所だ。
 明らかに自分は何者かに惑わされている。警戒したロゼッタは広場を見渡す。

(せめてなにか目印にできるものを用意できたらいいのに)

 急に外に出ることになったものだから何も持ち合わせていない。
 誰かに気づいてもらえるようにつむじ風を起こして空高くに土を巻き上げてみたが、待ってみても人の声はせず、頭上に黒くて大きな鳥が現れて旋回しただけ。その鳥も降り立つことなくどこかに飛んで行ってしまった。

 どうやら歩き続けて大広場に戻るしか方法はないようだ。
 そう思った彼女が踵を返そうとしたところ、後ろから女性の声が聞こえてきた。

「あらあら、ロゼッタが嬢ではありませんか」

 振り返った先にいるのはアンドレイニ侯爵夫人だ。
 心細くなっていたロゼッタは声を聞いてホッとしたが、それも束の間。なぜ彼女が1人でここにいるのか疑問が過った。
 彼女くらいの家柄の貴婦人であれば、誰か侍従を伴っているはずである。
 それに、ここは貴族が来るにしてはいささか寂れているしお店なんて全くなさそうだ。
 彼女の存在はあまりにも不自然で、ロゼッタは後ずさって距離をとった。

 アンドレイニ侯爵夫人は真っ黒なマーメイドドレスを身に纏っており、胸元は大きく開いている。初めて会った時の淑女のお手本のような印象とは違って妖艶な装いだ。

 微笑みを浮かべて近寄ってくるその姿は大きな影がゆらりと近づいているようで、ロゼッタがもう一歩下がった。

「怖がらないでくださいな。あなたにお話ししたいことがあるのよ」
「わたくしに、ですか?」

 この状況でいきなり持ち出されるなんてどんな話なんだろうか。
 知り合いの娘、それも、あまりお屋敷から出たことがない令嬢が1人で街を歩いていて、本来ならば何があったのか聞くべきだろうに、彼女はロゼッタがここに1人でいても全く驚いていない。

 ロゼッタは慎重に言葉を選んだ。

「ええ、アンドレイニ家の子どもにならない? ずっと女の子が欲しかったのよ。それに、あなたのことが可哀そうで仕方がなくって」
「わたくしはダンテに良くしてもらってますわ」

 虐待でもされていると思われているのかもしれない。
 ダンテの名誉のために、ロゼッタは咄嗟に反論した。
 たしかに冷たい態度をとられた時期もあったが、暴力を振るわれたりご飯を食べさせてもらえないことは全くない。
 ましてや、最近は加減を覚えて欲しいほど甘やかしてくるのだ。暇さえあれば抱き上げられるし、話してると優しく見つめてくるようになった。
 戸惑うほど大切にされているのに虐待されているだなんて思われて欲しくなかった。

 必死で否定するロゼッタを見て、アンドレイニ侯爵夫人はクスクスと笑う。
 上品で柔らかな微笑みのはずなのに見ていると背筋が凍るような心地がして落ち着かない。

「あなたはただの身代わりとして引き取られたんですよ」

 ロゼッタはあからさまに顔を顰めた。
 彼女からもきつい香水の香りの令嬢たちと同様に悪意を感じるのだ。

「男爵がかつて愛していた女性の生き写しのようなその姿だからこそ、あなたを大切にしているんです。あなたを愛しているわけではありません」
「……そんなこと、ダンテは言っていませんでしたわ」
「あなたに話せるわけがありません。あなたは本当にジルダ殿下によく似ているわ。その珊瑚色の瞳も本当にそっくり」

 アンドレイニ侯爵夫人はうっとりとした顔でロゼッタの目を見つめる。
 人に向ける視線ではなかった。宝石を見て感嘆の溜息をもらすときのような表情に、薄気味悪さを感じる。

「私の言葉を信じないのね。いずれ気づいてしまうのが可哀そうだから教えてあげたのよ? あなたを見てくれない男爵の傍にいるのはさぞ苦しいでしょうね」
「いいえ。それでもわたくしは、ダンテと一緒にいたいですの」

 反論で出てきたのは素直な気持ち。
 初めて口から出てきた本音に泣きそうになった。
 呪われている自分は願ってもいけないことなんだと、ずっと心の奥底に押し込んで蓋をしていた想いだ。

 頭の中に浮かんでくるのは、ダンテが自分を見つめるときの優しい瞳や、抱き上げてくれる大きな手や、膝に乗せてもらっている時に見える横顔。
 抱き上げられてもなんやかんやで彼の手を振り払わなかったのは、彼と過ごす日々はロゼッタが求めて止まないものだったから。

 彼はたった一人の家族で、自分の呪いを恐れずに迎え入れてくれた人。そんな彼が家族として接してくれていても応えられないのは悲しくて苦しい。
 ロゼッタは今まで我慢していた涙をポロポロとこぼした。

「男なんてあなたがいなくなってもすぐに代わりの子を見つけてくるわよ。さあ、私のところに来なさい」

 アンドレイニ侯爵夫人は慰めるどころか容赦なく追い打ちをかけてくる。せっつくようにそう言うと、真っ黒な手袋を嵌めた手を差し出してきた。

 こんな自分勝手な人の言葉で動揺してはいけない。
 自分はお屋敷に帰らなきゃいけないんだ。

 そう思ったロゼッタは涙をこぼしたままアンドレイニ侯爵夫人を睨みつけた。

「見苦しいですわよ。自分よりも若い令嬢をありもしない話で泣かせようとするなんて恥ずかしいと思わないのかしら?」

 蔑むような視線を送れば、アンドレイニ侯爵夫人の顔はさっと赤くなる。

「……若いからって何よ? 若いだけでしょう! 早く女神の秘宝を寄越しなさい!」

 急に凄むような声になり、短剣を取り出して彼女に向けた。
 短剣を目にして命の危機を感じたロゼッタは弾かれたように逃げ出したが、地面から黒い霧が沸き起こって彼女の足首を掴む。あえなく体勢を崩して転んでしまった。

「パパにさよならを言えなくて残念ね」

 近づいてくる声はちっとも憐れんでおらず、むしろ愉しそうだ。

「でも、良かったわね。次はどうやって殺そうか考えていたところだったの。あなたが死んで男爵は命拾いするわ」
「殺す……ダンテを……?」

 心臓が早鐘を打つ。
 聞き間違えかと思ったが、現に相手は自分に刃を向けてきている。やりかねないようにも思える。

「そうよ、あなたの2つ前の養父のように毒を少しずつ飲ませて殺してあげようか迷ってたんだけど、同じだと退屈だからどうしようか悩んでたのよねぇ。最近、男爵が仕事先で行く予定だった場所に盗賊が出たでしょ? あれは私が用意したのよ」

 頭の後ろを殴られたような衝撃のせいで何も言えなくなった。
 大きな目をさらに見開いて驚いている彼女を見て、アンドレイニ侯爵夫人は機嫌を取り戻して微笑んだ。

「そうねぇ、ロランディ侯爵家であなたの番犬がいなくなったでしょ? あれも私が送った暗殺者を始末しに行ったからよ。殺せなくて残念だったわ。まさか邪魔が入るだなんて思ってなかったんですもの」

 頬に手を当てて小さく溜息をつく仕草はまるで悪戯を失敗したかのようで、ちっとも悪びれた様子はない。

「まさか、ギルランダ家(前の家)が傾いたのも夫人の仕業ですの?」
「ふふ、殺さないで追い詰めるのもたまにするにはいいわね。あなたを売りに出すように助言したら本当にその通りにしてくれたわ」

 アンドレイニ侯爵夫人の足元から伸びる影がロゼッタの上に落ちてくる。
 逃げなければいけないと頭ではわかっているのに、彼女は動けなくなっていた。

(呪いじゃなかったの? どうしてアンドレイニ侯爵夫人がずっと私を狙っていたの?)

 これまで何度も自分の呪いを恨んだ。
 呪いさえなければ得られたであろう家族に憧れて、それでも自分には得られないのだと何度も絶望した。
 それなのに、目の前の人物は自分がしたと自白した。
 彼女に恨まれるようなことをした覚えなんてないのに。

「あなたが生きている限り、近くにいる人間は私が不幸にしてあげる。それが嫌なら大人しく今死になさい」
「どうしてそんなことをするの? 私は夫人に恨まれるようなことをしてないわ!」
「だって、そうしないと1人になってくれないから殺す機会がないじゃない? 女神の秘宝は身体の中に宿るから殺して身体を開くしか探す方法がないんですもの」

 ロゼッタは言葉を失った。
 自分がこれまで経験した悲劇は、それに巻き込まれた人たちは、あるかどうかもわからない蒐集品のためだけに犠牲になった。
 そんなつまらない理由のためだけに。

「最後に選ばせてあげるわ。首と心臓、どちらを先に刺して欲しい?」

 冷たく光る剣先を目の前に突きつけられる。
 相手はすぐ真上で自分を見降ろして来ていて、逃げられそうにない。

 最後の最後まで抵抗しようと睨みつけたその時、詠唱する声が広場に響いた。


「”氷結せよ”」


 呪文が聞こえてくると、アンドレイニ侯爵夫人の腕から剣先までがすっぽりと氷に覆われる。

王国の剣(ロランディ)の名において、王都の秩序を乱す貴殿の身柄を拘束します!」

 妙に大人びた少年の声が辺りに響き、アンドレイニ侯爵夫人は振り返る。
 彼女たちの前に現れたのは、ロランディ家の騎士たちとジラルドだ。
 ジラルドの薔薇のように真っ赤な瞳は怒りに燃えている。
 
 騎士たちが取り押さえようとすると、アンドレイニ侯爵夫人の身体から黒い霧が吹きだした。