『ギャラリー・バルバート』にお仕事見学した翌日、ロゼッタはダンテに問い詰められていた。

「ロゼッタ、これは何だ?!」
「ダンテを描いてみましたの」

 ロゼッタはブルーノが目を離した隙にダンテの執務室に忍び込み、机の上にあった書類に落書きをした。
 見つかってしまったものの、開き直ってツンと澄ました顔でそっぽを向いている。
 彼に嫌われるために思いついた悪戯を実行したのだ。

 大切な仕事の書類だとわかりながらも落書きした彼女は、こっぴどく叱られるだろうと内心ドキドキとしているのだが、彼の反応はあまりにも予想外なもので。

「俺を描いたのか……」

 食い入るように絵を見つめているのだ。
 それに、心なしかエメラルドのような目はいつも以上に輝きを増している気がする。

「カスト、保存魔法の依頼をしたいからポルカーリ工房の魔導士を呼べ!」
「承知しました」

 彼は机の引き出しを開けると、落書きされた書類をそっとしまう。
 落書きされた書類だと言うのに、まるで宝物を扱うようで、ロゼッタは目の前で何が起こっているのかわからなかった。ついでに言えば、ダンテの意図もわからない。
 しかも、彼の横顔を見てみると、微かに口元が綻んでいて嬉しそうだ。

(なんでっ?!)

 怒られるどころか喜ばれてしまった。
 しかも後ろを振り向けばブルーノがおねだりするような瞳を向けてきている。
 護衛の彼を撒いて迷惑をかけたというのにちっとも咎めようとしないし、むしろそんなことなんて綺麗さっぱりなかったことになっているようだ。
 ブルーノはじいっとロゼッタを見つめて自分の絵も描いてくれるよう念を送ってきている。

「……」
「ブルーノは今度描きますわ」

 彼への負い目も相まって、無言の圧力に屈してしまった。

 その後、屋敷に来たポルカーリ工房の魔導士たちによって落書きが厳かに運ばれていった。その様子を見たロゼッタは言葉を失った。

 ポルカーリ工房は芸術作品の修復や保存魔法に長けており、その技術は王国屈指である。
 『ギャラリー・バルバート』とは仕事で繋がりがあるようで、ダンテは白い髭を蓄えたいかにも厳格そうな魔導士のおじいさんと世間話を交わしている。

(なんだか、とんでもないことになっちゃったわ)

 生まれて初めて見る魔導士たちに緊張するロゼッタ。
 少女の目には、夜空色のローブを纏った彼らがとてつもなく偉大な存在に映る。
 そんな魔導士たちが自分の絵を見て、「いやはや、支配人の娘さんは絵の才能がありますな」なんてダンテに言っているのを聞くといたたまれなくなった。

 適当に描いた絵を大勢に見せられて恥ずかしい。悪戯が失敗するどころか返り討ちに遭ってしまった。

(ダンテが嫌がる悪戯って何かしら?)

 小さな悪女は腕を組んで考え込む。相手は大抵のことじゃ動じないし、効き目がない。

(お仕事中に邪魔したら怒るかしら?)

 すでに落書きして彼の仕事を邪魔した後だ。さらに悪戯して邪魔をすれば「反省してないのか!」と怒ってくるかもしれない。今度こそ怒ってくれるはずだ。

 そう思い至ったロゼッタはブルーノと一緒に廊下の柱の影に隠れると、ダンテが執務室にいるのを見計らって、風魔法で扉をあけてみた。
 キイッと音を立てて扉が開くと、カストが閉めてしまう。するとまた魔法で扉を開ける。
 何度か繰り返すうちに、扉は開いたままになった。

(怒ったかしら?)

 耳をすませてみるが、話し声は聞こえてこない。足音を忍ばせて扉の前に近寄る。そろりと首を前に出して中の様子を窺うと。

「おやおや、小さな怪盗が罠に引っ掛かったようだ」

 ゾッとするほど甘い声が頭の上から降ってきた。見上げて声の主を確認する間もなく、抱き上げられてしまった。
 目線が合った声の主――ダンテは不敵に微笑んでいる。

「捕まえた」
「変態っ! 離しなさい!」

 睨んでも効き目はない。ソファに腰かけて、彼女を膝に乗せる。

「扉を開けて気を逸らせているうちに机の上のお菓子を盗みに来たんだろ?」
「盗みなんてしませんわ!」
「ちょうど休憩するところだ。一緒に茶でも飲もう」

 ダンテはカストに持って来させたケーキをロゼッタの口元まで持っていくが、彼女はそっぽを向いて食べようとしない。

「わたくしは子どもじゃありませんわ!」
「まだ紅茶も飲めないくせに生意気だな」

 ムキになっている彼女を見て喉の奥で笑うと、ホットミルクが入ったティーカップを渡す。
 悔しいけれど彼の言う通りで、まだ紅茶よりも蜂蜜が入ったホットミルクやイチゴ水の方が好きだ。
 ロゼッタは自分のためにダンテが購入してくれた薔薇の装飾が美しいティーカップを受け取る。
 蜂蜜の香りがするホットミルクは魅力的だが、ダンテにからかわれた後に飲むのは癪で、口をつけなかった。

「怪盗さんはこの後何をするんだ?」
「もうっ! 怪盗ではありませんわ!」

 ぷりぷりと怒りながらも、昨日リベリオから言われたことを思い出して我に返る。
 司祭がどんな未来を見たのかはわからない。ただ、彼が災いを見たのは確かで、それが自分たちに降りかかるのであれば防がねばならない。

『《《怪盗》》に気をつけるようにパパに言いなさい。そうすれば災いから逃れられるでしょう』

 ダンテはオークションハウスで仕事をしているから、なおさら怪盗と遭遇しそうだ。
 不安になったロゼッタは、眉尻を下げてダンテを見上げた。

「……ダンテ、シルヴェストリ司祭が怪盗に気をつけてって言っていましたわ」
「なんだ、ロゼッタにも言っていたのか」

 ダンテはロゼッタの珊瑚色の瞳を見つめる。「怪盗」と、何度も口の中で言葉を転がしながら。その表情はどこか虚げだ。
 まるで彼女を通して別の人間を見ているようで、そんな顔をするダンテは知らない男の人のように見えて不安になる。

 ダンテはそんな彼女の頬を優しく撫でた。

「そうだなぁ。怪盗には気をつけねぇと心を持っていかれちまうからな」

 その手はゆっくりと降りてきて、彼女の波打つ赤い髪をくるくると指に巻きつける。ダンテの紺色の上着の袖にかかると、髪の赤色はいっそう鮮やかになる。

 ダンテはその指を口元に寄せて髪にキスした。ゆっくりと唇を滑らせている彼を見て、ロゼッタは顔を顰める。

「わたくしの髪を食べてもおいしくないですわよ?」
「……お前は経営学よりもまずはロマンを学んだ方が良さそうだな」

 呆れた顔をされるのは気に入らないが、彼がいつもの調子に戻って胸を撫でおろした。


 ◇


 結局、2回目の悪戯も失敗してしまった。
 休憩後にまた悪戯する機会を窺っていたが、ダンテが構ってもらうのを待っているように見えなくもない。
 隠れて見ていてもチラッと視線が合い、嬉しそうに目元を綻ばせているのだ。

 嫌がられたいのに喜ばれるなんて不本意だ。
 ロゼッタは彼の前から一時退却する事にした。

(どうしよう。他に悪戯が思い浮かばないわ)

 考え事をしながら歩いていると、足に妙な感覚がした。足元を見ると、微かに黒い靄みたいなものが見える。それが当たるとひんやりと冷たいものが触れているような感覚がするのだ。
 ゾッとして、慌てて後ろを振り返ったが、ブルーノの姿がない。

 不安になって辺りを見回してみるが、全く見当たらない。それどころか人影が全くないのだ。
 歩けどもあるけども、誰もいない廊下が続いている。部屋の扉らしきものもなく、ただ廊下だけが続いている。
 人の声も全く聞こえない。

「なんで?」

 一人っきりになるのは生まれて初めてで、不安がどんどんと押し寄せてくる。

 すると、背後で扉が開く音がした。扉なんてさっきまで全く見えなかったはず。
 恐るおそる近づいてみると、開いた扉の隙間から庭園の植物が見える。

「裏口だわ」

 人がいるかもしれない。安心した彼女は扉に手をかけて、ふとダンテとの約束を思い出す。
 1人で屋敷の外に出てはいけない。口を酸っぱくして言われているが、今はそれどころじゃない。
 誰もいないのがとても心細くて、ダンテでもブルーノでもそのほかの使用人でもいいから、とにかく誰かの顔を見たかった。

(事情を説明したらダンテはわかってくれるわよね)

 少女は外に一歩踏み出す。
 裏口を出る彼女の後ろに伸びる影には、黒い霧が集まっていた。