早朝、エルヴィーラが急に訪ねてきたため、バルバート邸は騒然とした。彼女は騎士団である事件を聞いてすぐに駆けつけてきたのだ。

 昨日、バルバート家当主のダンテが出張で通る予定だった道に盗賊が現れ、通りかかった馬車はもれなく襲われた。乗っていた者は見境なく全員殺されたという。
 ダンテが出張に行っているものだと思っていたエルヴィーラはロゼッタを案じて顔面蒼白で門を叩いたのだった。

 応接室に主人と客人を通したカストは、いつの間にか自分の手が震えていることに気づいた。

「私とした事が、客人に情けない姿を見せてしまったな」
「仕方がありませんわ。私たちはまたもや大切な主人を失うところだったのですよ?」

 肩を落とすカストをラヴィが慰める。
 執事頭とメイド頭のこの2人は長い間バルバート家に仕えてきて、嬉しい事も悲しい事も共に経験してきた。
 先代の訃報を聞いた日もまた、経験している。

「旦那様もお嬢様も恐ろしい知らせを聞いて沈んでいらっしゃるでしょうし、私たち使用人が元気づけないといけませんね」

 そう話し合っていたのだが、当の本人たちはわりと元気だった。いつも通り、いや、いつも以上に当主と養女は言い合っている。

 老齢の執事頭は、げんなりとして主人たちを見守っていた。

「いい加減離して!」
「嫌なら自分でどうにかしろ」

 ロゼッタが怒って睨み上げても、ダンテは離そうとしない。ジタバタと暴れる彼女を落とさないように抱き直して連れ歩き、その後ろでは恨めし気な顔をしたブルーノがついて行っている。

 今朝からずっとこんな状態だ。

「やれやれ、旦那様の遊び癖が治ったのは良いが、ここまでお嬢様に執着されると先が心配だ」
「いい加減にしないとブルーノも我慢の限界のようね」

 カストとラヴィは深い深い溜息をついた。彼らは若くして就いた主人に手を焼いている。
 幼い頃は全く手のかからない子どもであったのに、青年になるにつれて困ったお人になってしまったのだ。
 特に彼の女性付き合いに悩まされた。毎週、ひどい時は3日と間を空けず違う女性と浮名を流していた時期は神殿に行って祈りを捧げたくらいだ。
 養女を迎えてからはパッタリと止んだが、今度はその少女への歪んだ溺愛を見せ始めたので手をこまねいている。

「それにしても、お嬢様が急に我儘を仰って驚いたよ。そんなお方ではなかったのに、何かあの事件のことを感じ取っていたもんなのかねぇ」
「子どもには不思議な力があると言いますものね」

 明るくて使用人には優しいが、主人には厳しい養女。
 花の妖精のように美しく、彼女の世話をしたがるメイドたちがこぞって配置を変えてくれと言いに来るほど人気者だ。

 これまで我儘の1つも言わなかった彼女が昨日、主人の出発前にいきなり大声で駄々をこね始めたものだから使用人たちは驚かされた。
 始めは微笑ましく見ていた使用人たちだが、彼女の姿を見ている内に先代が出先で亡くなった事故を思い出して暗い気持ちになっていたのだった。

 しかし、そのお陰で主人の命は救われた。

(お嬢様が引き止めなければ、旦那様はどうなっていたことやら……)

 想像するだけで血の気が引く。先代も外出先で帰らぬ人となった。まさか同じ悲劇が起きようとしていただなんて誰が想像できただろうか。

 カストが思い出すのは、悲劇の知らせを聞いた朝。執務室を訪ねると、黒い服に身を包んだダンテが呆然と窓辺に立ち尽くしていた時のこと。

「カスト、今日から俺が当主になってしまった」
「……坊ちゃん、いえ、旦那様。あなたなら立派に務められますよ。大旦那様は常々、お褒めになっていらっしゃったのですから」
「父上は俺に引け目があるから甘いんだ」

 生気のない目は窓の外を見ている。外の景色ではなく、過去に想いを馳せているような、遠い目だった。

「母上が俺を見なかったのは自分のせいだと思っていたんだ。だから母上の分まで俺を愛してくれた」

 先代は幼い頃のダンテをよく膝の上に乗せて、美術品の図録を見せていた。成長するにつれて仕事場に連れ出してもらい、コレクターや仕入れ先の美術商に会わせてもらっていた。そうやって、仕事で忙しい分、彼と一緒に居られるよう時間を作ってくれていた。

「いいえ、お客様が来ればいつも坊ちゃんの自慢をされていましたよ」

 嘘ではなかったが、そう話すカストは胸がズキズキと痛んで苦しかった。彼の母親はちっとも息子に興味がなかったのをその目で見てきたのだ。
 生まれてから一度も母親に微笑んでもらえないまま彼女を失った若き当主の事を想うと、それ以上の言葉をかけられなかった。

(女神様、どうか旦那様を心から愛し救ってくださるお方と巡り合わせてくださいませ)

 窓の外に広がる鈍色の雲を見つめる。その先にいるであろう女神に祈った。


 ◇


「カスト、大丈夫ですの?」

 廊下を歩いていると、鈴を転がしたような声が呼び止めてくる。ふりむけば、気遣わしげに彼を見ているロゼッタがいた。
 今日は沈んだ気分を明るくするようにと、ナナが黄色いドレスを選んで着せている。

「ありがとうございます。少し考え事をしておりました」
「それならいいけど、気分が優れない時に無理をしてはいけないわよ」

 花が咲いたような微笑みを見ると心が和む。カストもつられて微笑んだ。ふと、少女が手に薔薇の花を持っているのに気づく。

「そのお花はどうしたのですか?」
「お庭でアメデオにもらってきましたの。ダンテが好きな花と聞きましたわ」
「素敵なプレゼントですね」
「……昨日はダンテを困らせちゃったから、ダンテが好きなものをあげたいですの」

 薄紅色のバラの花は少女の瞳の色にも似ている。カストは目を細めた。

「お嬢様からの贈り物であれば旦那様はきっとお喜びになりますよ」

 彼女から花をもらった時の主人の顔が浮かび上がる。令嬢たちが色めき立つあの美貌の顔を綻ばせている様子は容易に想像できた。

 主人の心の拠り所である少女。その彼女が主人を想う気持ちに、ついつい涙腺が緩みそうになって堪えた。

(女神様はようやく私の願いを叶えてくださったのですね)

 この素敵な贈り物を早く主人に届けてあげようと思った執事頭は、少女とその護衛を執務室へと連れて行った。

 彼の想像通りダンテは大いに喜び、ロゼッタに浴びせるようなキスをしたので、ブルーノに羽交い締めで止められるのであった。


 ◇


 夜の帳が降りてロゼッタが夢を見ている頃、ダンテは居間《パーラー》でワインを飲んでいた。その後ろにはカストが控えている。
 テーブルには華奢な花瓶が置かれており、薄紅色の薔薇が一輪だけ飾られていた。

 実のところ、ダンテは今日もロゼッタと一緒に寝ようとしたがラヴィに叱られ寝室から追い出されてしまってここにいる。

「旦那様、どうしてお嬢様を養女にされたんですか?」
「闇オークションにかけられて怖い思いをしていたみなしごを放っておけなかった」
「それだけでしょうか?」

 今日に至るまでの彼の溺愛っぷりを目にしてきたカストは、それ以外の理由がある気がしてならなかった。
 彼は初めてロゼッタを見ていた時から心に抱いていた気持ちを主人に打ち明ける。

「お嬢様は旦那様に似ていらっしゃるように見受けられます」
「偶然にも髪の色が同じだな。それ以外は全くだぞ?」
「ふとした仕草に昔の旦那様を感じることがあるのです」

 ダンテは声を上げて笑う。顔を手で覆っており、表情はよく見えない。

「ロゼッタが俺の私生児かと聞きたいんだな?」
「ご無礼をお許しください……もしものことですよ。家柄などでご結婚を躊躇われている方との御子だから引き取ったのでしたら、相手の方を迎え入れてはと思うのです」

 幸か不幸か、今は身分違いの恋を反対する存在は、もうこの家の中にはいない。 

「そうならどれほど良かったことか。この世にいたらとっくの昔に連れて来ていたよ」

 カストはダンテの背を押そうと思って口にしたが、ぼんやりと薔薇を見つめる主人は寂しそうで、心を痛めた。

「俺はロゼッタを後継者にするから妻も嫡子もいらない。あいつだけいてくれたらいい」
「お嬢様はいずれ殿方と一緒になるのですよ」
「あの子は誰にもやらない。俺の手の中でずっと守ると決めたんだ」

 ダンテは花瓶を引き寄せて薔薇の花びらを撫でる。指先で優しく触れるその姿を、カストは複雑な気持ちで見つめた。