麗らかな午後、ロゼッタは書斎《ライブラリー》で歴史の授業を受けており、今しがた終わったところだ。

 朗らかに笑う優しいお爺さん先生が書斎《ライブラリー》から出ていくと、部屋にはロゼッタとブルーノとナナだけが残される。

(誘惑するなら、今ね)

 ロゼッタは機会を窺っていたのだ。

 抱き上げようとしてしゃがんだブルーノの首に腕を回す。

 彼の身体が一瞬固まった。
 突然のことで驚いてしまったのだ。

 瞳を潤ませたロゼッタは顔を上げて、じっと空色の瞳を見つめる。

「ブルーノ、私のお願い聞いてくれる?」
「……」
「ねえ」
「……」

 全く反応がない。

 それどころか、ゆっくりと優しく手を離されて、黙ったまま部屋を出てしまった。

(怒ったかしら? 何も言わないからわからないけど……)

 期待と不安が半分ずつ。
 観察してみるが、彼の気持ちは掴めなかった。

 ブルーノは扉を閉めると廊下の壁に寄りかかり、心臓の辺りを鷲掴みにしてよろけた。

「……っ」

 胸が苦しくて仕方がないのだ。

 隻眼の護衛、ブルーノ。

 かつて白銀の死神と恐れられ、何にも心を動かされない氷の心を持つと言われたこの男は――ロゼッタが可愛すぎて死にそうだった。
 
 息が止まるんじゃないかと思った。いや、一瞬止まってた。

「よく耐えたましたね、ブルーノさん。私なら陥落してます」

 部屋から出てきたナナが肩を叩いて労った。
 可愛いロゼッタを見られて嬉しかったらしく、口元がニヨニヨとしている。

 扉の外でそんなやり取りがされているのを知らないロゼッタは、首を傾げた。

(おかしいわね。嫌そうな顔をしてないわ)

 戻ってきたブルーノの顔を見てみるが、いつもと変わらない。

「……お願いとは何でしょう?」
「やっぱりなんでもないわ」
「……」

 ブルーノは眉尻を下げる。
 そんな顔を見せられるといたたまれない。

「思い出したわ。イチゴ水が飲みたかったの」
「……」

 例のごとく上目遣いで見つめられるが、ロゼッタは気づかないふりをした。

 折れたブルーノは彼女を抱き上げると、居間《パーラー》に連れていき、使用人にイチゴ水を頼んだ。

(ダンテなら嫌がるかしら?)

 ソファに腰かけ腕を組んだ小さな悪女は、次の獲物を狙うことにした。


 ◇
 

 夕食を済ませたロゼッタは、居間《パーラー》でダンテの帰りを待つことにした。
 
 時計がコチコチと規則的に打つ音を聞いてると眠くなる。
 船を漕ぎそうになった時、ダンテの帰りを出迎える使用人たちの声が聞こえてきた。

 居間《パーラー》から飛び出し、お出迎えする。

「おかえり、ダンテ!」

 精一杯背伸びして腰に抱きつく。戸惑うダンテを、潤んだ瞳で見上げた。

「あのね、お願いがあるの」
「フ……フン、なんだ頭を打ったのか?」

 憎まれ口を叩きながらも、さっと彼女を抱き上げた。もちろん、横抱きで。
 さながら、お姫様を抱っこする王子様のようだ。

 花の妖精のような少女と花の顔の男爵の微笑ましい様子に、メイドたちから「きゃあっ」と歓声が上がる。

(あ、あれ? なんだか嬉しそうよ?!)

 いつもの数倍も機嫌が良さそうな声なのだ。

 それどころか、エメラルドのような瞳がトロンと甘い視線を送ってきて、今度はロゼッタが困惑する番となった。

「で、何が欲しいんだ? いくらでも言ってみろ」

 別に欲しい物があるわけではない。
 強いて言うなら、嫌って欲しいわけで。

(な、なんで嫌がらないのっ?!)

 そこではたと気づいた。
 抱きつく力が弱すぎて嫌がらないのではないか、と。

 誘惑の本当の意味を知らない少女はそう勘違いした。

 腕力云々の問題ではないのだが、ナナの全年齢向けの説明だけではそう考えるしかなかった。

 何も言わずにダンテの首に腕を回して、ピトッとくっついてみる。

「なんだ、急に甘えるようになりやがって」

 ますます上機嫌になって、頬にキスされる。それも、右の頬と左の頬のどちらも1回ずつ。

 あまりにもの甘々っぷりにロゼッタは撃沈した。

 チラと周りに視線を走らせると、見ていた使用人たちは可愛い悪女の姿に悶絶していたのだった。

(なんで誰も嫌そうな顔をしないの?!)

 みんな笑顔なのである。 
 誘惑する悪女は嫌われて、みんな顔を顰めて見てくるはずなのにも関わらず。
 
 ラヴィに至っては、2人が実の親子のように歩み寄り始めていると思って、嬉しさのあまり涙ぐんでいた。

 この夜、バルバード邸は幸せな空気に包まれたのであった。

 ただ1人、ブルーノはダンテにロゼッタを盗られてしまい、モヤっとした気持ちになっていたのだが。

(おかしいわ。どうして嫌いになってくれないの?)

 ロゼッタはダンテの腕の中で遠い目になる。

(エルヴィーラはどうかしら?)

 試してみる価値はある。
 ヤケを起こした小さな悪女は、次の獲物を狙うことにした。


 ◇


 翌日、家に招いてくれたエルヴィーラに、会うなりすぐに抱きついてみた。

「ねぇ、エルヴィーラ、お願いがあるの」
「……くっ」

 潤ませた瞳で見上げたとたん、エルヴィーラは胸に手を当てて苦しそうにする。

「エ、エルヴィーラ、大丈夫?」
「ああ、気にするな」

 その時、自分が放った見えない矢が心臓を撃ち抜いていたことを、ロゼッタは知らない。

 戦いの女神と謳われるディルーナ王国第二騎士団の団長、エルヴィーラ・ロランディ。

 こちらも小さな可愛い悪女に悶絶している。
 しゃがんで目線を合わすと、ぎゅっと抱きしめてくる。

「どうしたんだ。なんでも言ってみなさい」

 そう言って、優しく頭を撫でてくれた。
 しかも、聖母のような慈悲深い微笑みを浮かべている。

 こんなはずじゃなかった。
 予想外の反応に返事が詰まる。

 ロゼッタはたじろいだ。

「え、えっと……もっとお話ししたい」
「そうか、ロゼッタとならいくらでも一緒にお話ししたいぞ」

(おかしいわ。なんで誰も嫌がってくれないの?!)

 ナナに聞いた通りにしてみたのに、誰も嫌がってくれない。
 何かが間違っていたのだろうか、それとも、ダンテたちは他の人たちとは違うのだろうか。

 ロゼッタは頭を抱えたくなった。

(何が間違っていたというの……?)

 エルヴィーラに頬ずりされながら遠い目になった。