魂喰らいの魔導書騒動があった翌日、私とノエルはかねてからの予定通り、ロアエク先生の元に行くことになった。
 朝一番にグリフォンの馬車に乗り込むと、馬車は旅行日和の晴れ渡った大空へと飛び立ち、王都の空を駆け抜けてゆく。

 隣に座るノエルはいつもより寛いだ服を着ていて、上着を肩に掛けてリラックスした装いだ。けれど、シャツの袖口から見える包帯が痛々しい。

「ノエル、怪我は大丈夫?」
「ああ、レティシアがくれた薬のおかげでだいぶん良くなったよ」

 魂喰らいの魔導書との戦いでノエルは傷だらけだった。
 ただのかすり傷だけだとノエルは言っていたけど、全身にあるととても痛いはずだ。

「ノエル、もう少し私に寄りかかったらいいわ」
「えっ?!」

 先ほどまで悠長に外を眺めていたノエルが、拳一つ分くらい飛び上がった。
 なによう、そんなに驚く必要ないでしょ。私がやましいことを考えていると思っているわけ?

 じとっと睨むと、ノエルは慌てて口をぱくぱくさせる。

「っどうして?」
「その怪我じゃ馬車が地上に降りる時に揺れたら体が痛むでしょう? だから私が支えようと思ったけど、その必要はなさそうね」
「……いや、お言葉に甘える」

 そう言って肩に頭を預けた。
 温かくずっしりとした重みがかかると、膝に顎を乗せていたナタリスを思い出してしまう。

 ナタリス、元気かな?
 冬星の祝祭日から全く姿を見ていないし、ノエルやブドゥー先生に聞いてみてもドラゴンの子どもの目撃情報はなかった。

「レティシア」

 窓の外を見ていると、ノエルに名前を呼ばれた。

「ああ、ごめん。ぼんやりしていたわ」
「……」
「ノエル?」
「……」

 呼んできたというのに、ノエルはなにも話そうとしない。そっと顔を覗き込むと、目を閉じてすやすやと眠っていた。

「うわあ、寝てる」
「当り前だ! ご主人様だって疲れたら休息をとるんだからな!」

 ぷんすこと怒ってくるジルはちゃっかりノエルの膝の上で丸くなっている。休んでいる人の上で眠ろうとするなんて、やっぱり猫と同じね。
 そんなことを言ったら怒るだろうから、言わないけど。

 それにしても、眠っているノエルの顔は思わずどきりとするほど綺麗だ。
 長い睫毛は頬に影を落としていて、形の良い唇が微かに開きそうな具合で閉じられている様は、見ているといけないことをしているような気持ちになる。

 毎日顔を合わせていて見慣れてしまっていたけど、改めてこの人の顔、綺麗だなと思う。

「ノエル、いつもお疲れ様」

 見張るためとは言え、毎日仕事終わりに会いに来る律義な黒幕予備軍。
 私のことを警戒しているのに、ピンチの時は助けてくれるし、心配もしてくれる忙しい人。

 あなたの未来が幸せでありますように。
 私がそうさせてみせるから。

 だから、一人で苦しんで闇堕ちなんて、しないで。

「レティシア」

 ノエルはまた寝言で名前を呼んでくる。

「ここにいるわよ。何回呼ぶの?」

 冗談めかして返事をしても答えてはくれなくて。
 ノエルはそのまま、馬車が地上に降りるまで、全く起きなかった。

   ◇

 私たちを乗せた馬車は予定通りの時間にラングラン侯爵領に着いた。

 馬車から降りると若土の香りがして、心が躍る。
 こんな良質な土があるなら良い薬草を採れるかもしれないと見回していると、ふと、エスコートしてくれているノエルの顔が真っ赤になっているのに気づいた。

「……ごめん、すっかり眠っていた」
「気にしないで。休めたのならそれでいいわ」
「変な寝言を言ってなかったか?」
「大丈夫よ、私の名前を呼んでいたくらいだわ」
「っ忘れてくれ」 

 ノエルはさらに顔を赤くする。
 そんな彼にエスコートしてもらって森の前まで辿り着くと、大きな木が歩いて来た。

「トレント! 久しぶりね」
「お前、変わらない」
「木の姿だとやっぱり、その話し方になるのね」
「チッ」

 あらあら、まあ、舌打ちだけは人間の時と同じようにできるようで。
 久しぶりに会ったのにその態度、ひどくない?

「来い」

 トレントはそう言って森の中を案内してくれた。

 ロアエク先生とトレントが住んでいるのは、ラングラン侯爵が持つ森の中の別荘。
 アロイスが護衛騎士で剣の師でもあるラングラン侯爵に頼んでくれて、ロアエク先生を住まわせてくれているんだとか。

 トレントは解呪した後もロアエク先生のそばにいて、フィニスの森にはたまに帰って様子を見ているらしい。
 人間は嫌いだけどロアエク先生は好きと妖精たちから言われている通り、ロアエク先生への並々ならぬ愛を感じる。

 案内されて別荘に着くと、銀色の髪を綺麗に結った女性が走ってきた。
 ロアエク先生だ。
 先生は外で待ってくれていたみたい。

「ロアエク先生、元気そうでなによりです」
「二人とも、久しぶりね。あなたたちがこうやって来てくれる日を楽しみにしていたわ」

 先生は学園にいた頃と変わらない姿だ。呪いのせいでまだやつれているけど、立って歩けるようになるまで回復していて安心した。

 私とノエルを抱きしめてくれる先生からは爽やかな花の香りがして、その匂いも懐かしくて嬉しい。

「私もトレントも、ずっとあなたたちを待っていたのよ」
「エディット、言うな」
「ふふ、待ちきれなくて迎えに行ったくせに、素直じゃないわね」

 ええ、トレントのツンデレ具合は存じておりますとも。

 にこにこと話すロアエク先生の隣に並ぶトレントは、木の姿だから表情まではわからないけど、前に会った時よりも穏やかで、幸せそうだ。

 ニヤついて見ているとまた、トレントから舌打ちが飛んできた。