ノエルは授業を終えた後に生徒と談笑していたらしく、手には教科書やら出席表やらを持っている。
 談笑していた時の笑顔を貼り付けたまま辺りの気温を下げていくものだから、ホラー映画のワンシーンのように見えてしまう。

 ついに窓には雪の結晶ができてしまった。

 寒さからなのか恐怖からなのか、体が勝手に震えてしまうけど、声をかけられたオルソンの方はというとちっとも動じていなくて、唇を尖らせて抗議し始めた。

「お話してるだけですよ~。嫉妬してるんですか~?」
「そうだ。できることなら君を生きたまま凍らしておきたいくらいだよ」

 さらっと恐ろしいことを言ってるわ。
 生徒相手でも容赦しないわね。

「ケチ。ちょっとくらいレティせんせをちょうだいよ~。ファビウスせんせはいっつも独り占めしてるじゃん」
「婚約者の特権だからね」

 ノエルはオルソンの襟首を掴むと、仔猫を運ぶ母猫のように引きずってオルソンを連れて行ってしまった。

 氷結オーラ発生源が消えた廊下は瞬く間に温かくなる。
 後に校内で局所的に雪が降っていたのが話題になり、先生方は女神様のお告げかもしれないと声を弾ませていたけれど、私はノエルが原因だと睨んでいる。

   ◇

 トラブルはあったが予定通り、ドナとセザールの進路希望を聞くことにした。

 ブツブツと文句を言っていたドナを宥めて進路希望調査書を修正させ、お次はセザールの番だ。

「さて、もうわかっているだろうとは思うけど、あなたが白紙で提出していたから呼び出したのよ」
「記入できていなかったんですね。うっかりしていました」

 お粗末な誤魔化しをして笑うセザールはらしくない。

「違っていたらごめんなさい。もしかしてクララックさんは、迷っているんじゃないの?」 
「私はクララック家の跡継ぎなんです。だから道はもう決まっているんです」

 セザールはあからさまに顔を顰めた。

「そう、しっかりしているわね」

 跡継ぎとされる子たちは、自分が求められている役割を知っている。求められる姿になるべく幼少期から苦労を重ねてきた。
 そんな彼らに、「好きな道を選びなさい」だなんて軽率には言えない。そんな発言は無責任なことだとわかっている。

 だけど、一生に一度の人生だから、選択した道に後悔をしたまま生きて欲しくない。

「もしも、よ。なりたい職業が別にあるなら聞かせて欲しいの」
「それが、全くないんです」

 セザールは苦笑した。

「だから兄とは違って、次期当主の道をすぐに受け入れられました」

 ”兄”と聞いて、どきりとする。

 セザールからお兄様のことを聞かされるとは思ってもいなかった。だって、ゲームの中の彼は、この後に起こるイベントでサラに助け出された時に話すんですもの。

「兄は幼い頃から魔術師になることを夢見て、叶えました」
「すごいわね。努力の賜物だと思うわ」
「ええ、私もそんな兄を尊敬しています」

 そう、セザールは兄を尊敬している。だけど周囲の大人たちは揃って彼に”勘当された愚息”のレッテルを貼った。
 大好きな兄を馬鹿にされたくなかったセザールは、周囲を押さえつけられるような強い力を欲した。

 誰も兄を愚弄できない圧倒的な力を。

 その想いが彼を鬼畜メガネへと昇華させてしまった。

「兄を見ていると、自分が情けなくなるんです。自分は、題名だけ書かれた中身のない物語だと、思ってしまって」
「卑下することはないわ。あなただって次期当主として頑張っているもの」
「その道は父や周りの大人たちが用意してくれたものです。自ら夢を見つけ出して自分の人生を描いている兄と違って、私は流されて生きているだけ」

 いまの自分のままでいいのか。
 進路希望調査書を前にして自分を見つめなおし、迷っていたのかもしれない。

「兄に倣って魔術を勉強してみても、やはり私は夢を見つけられませんでした。なににも心を動かせない自分が人間として不完全な物のように思えてしまいます」

 ゲームでは出てこなかった彼の気持ちに対して、なんと言ってあげるのが彼にとっての正解なのかわからないけど、人生の先輩として、彼の悩みを取り除いてあげたい。

「そうかしら? ただ手順が違うだけで、当主になる道を選んで努力しているあなたと、魔術師になる道を選んで努力しているお兄様は、二人ともそれぞれの物語をちゃんと生きているように見えるわ。物語が書かれている本が違うのに、比べることなんてできないわよ」

「自分で見つけた夢じゃなくても、いいでしょうか?」

 セザールは押し黙ってしまった。ややあって、メガネを外して目元を拭う。

「ええ、セザール・クララックは押しつけられたからイヤイヤ当主になろうとしているわけじゃないでしょう? あなたの選択に自信を持っていいのよ」

「ありがとう、ございます」

 セザールは羽ペンをインクに浸して、進路希望調査書に決意を書いた。

 ”クララック家次期当主と宰相補佐”。

 決意改めてその道を書き終えた彼は、ちょっぴりはにかんだ表情を見せた。

「先生に話すと心が軽くなるってアロイス殿下が言っていたんですけど、本当にそのようですね」

 あわわわわ、アロイスがそんな貴重なお言葉をかけてくれていたなんて……感激。今日が命日でもいいわ。

 セザールは教室を出ると、振り返って。

「白紙で提出してみて良かったです」
「え?」
 
 意味ありげな笑顔を浮かべると、疑問符に応えてくれることなく扉を閉めてしまった。

 さっきの言葉の意味って、私と話すためにわざとなにも書かずに提出したってことよね? 
 やることキザ過ぎる。さすがは乙女ゲームの世界の人間だ。

「みんな、エンディングの後にはそれぞれの道を歩いていくんだよね」

 ゲームでは見られなかったその後を想像すると、わくわくする。

 絶対に誰も犠牲にしない。無事に卒業させて、それぞれの未来を歩んでもらうんだ。

 決意を胸に教室を出ると、見知った人物が廊下にいた。

「ダルシアクさん、どうしてここに?」
「仕事です。魔術省の人間として、外国から来たドルイユさんの様子を見るのが務めですので」

 彼は不愛想に答えると、そのまま通り過ぎていった。
 長いながい影を、廊下に落として。