この男がノエルになにをしでかしたのかわからないけど、ノエルは相当怒ってこの男に魔術をかけたようだ。だってこの男、悪夢を見せられているようで、ずっと魘されているんだもの。

 これはたぶん、呪詛返しだ。

 ノエルは、この男がかけた魔法をそっくりそのまま返したみたい。この学園の中ではノエルが魔術を発動させた痕跡は感じとれないから。
 そうとわかった以上、このまま彼を助けてもいいのか疑問ね。だけど体は勝手に動いてしまう。

 額に浮かぶ汗を拭いてあげていると、ふいに手を掴まれた。
 見た目はひょろっこいのに意外にも力強くて、まったく身動きがとれない。男は掌に頬をすり寄せてきて。

 縋ろうとしている姿を見せつけられるとなおさら放っておけないと思ってしまう。

 すると、男の口が小さく動いているのに気づいた。微かに聞こえるような声で、誰かを呼んでいるようだ。

 耳を澄ませてみると聞き取れた。

 母上、と何度も呼ぶ声が。

「母上、」
「いやね。せめて恋人に間違えて欲しいものだわ」

 こんなときにまっさきに母親を呼ぶ奴は、きっと拗らせているに違いないわ。それとも、この男には一度も恋人ができたことないのかもしれない。なんたって、陰湿そうだもの。
 
「さっさと起きなさいよ。これ以上恥ずかしい寝言を聞かせるつもりなの?」

 軽く頭を小突くと、男の瞼が震えて、うっすらと開いていく。
 星のような色の瞳が現れて、私を見た。

「え?」

 男はそれだけ言って、黙りこくってしまった。驚きのあまり言葉が出てこないらしい。
 まるで幽霊を見たかのような反応をされるのは好きじゃない。
 私は精霊だ。
 それなのに時々、幽霊を見た時のように怯えて逃げ出す人間がいるのだ。失礼しちゃうわ。

 男は顔に私の手を押しつけたまま、目と口を大きく開けた間抜け面を見せつけてくる。
 無防備とも言うのかしら。
 どちらで表現するべきか迷うところね。

「あんたが倒れていたから看病してあげたの。感謝してよね」
「感謝はご自分で求めるものじゃないですよね?」

 やっと話したかと思えば、これだ。えらそうな奴ね。お礼の言い方も知らないのかしら?
 しかも、急に仮面を貼りつけたかのように無表情になるのも気にくわない。けれど、男は私の手を握っていたのに気づいて慌てて離した。かすかに顔が赤くなっていて、意外とかわいいところもあるようだ。

 意識はすっかり戻ったようだし、さっそく暇つぶしの相手をしてもらおうかしら。

「私は美しく慈悲深い水の精霊、ウンディーネ。あんたの名前は?」
「その前置きはご自分で言うものではないですよね?」
「あんたってあげ足ばかりとるのね。淑女に名乗らせておいて答えないつもり? それでも紳士なの?」

 すると、男の眉間に皺が寄った。

「……ローラン・ダルシアクです」
「ふ~ん? 湖にいた時とは別人みたいに陰気ね」

 爽やかな笑顔も快活な口調も夢の中に置いてきてしまったのかと思うくらい違うわ。だけど、こっちが本来の彼のようね。前に見かけた時とは違ってちぐはぐな感じがしないんですもの。

 観察していると、彼は立ち上がった。

「それでは、失礼します」
「え、待ってよ。あんたには私の暇つぶしの相手をしてもらうんだから」
「同意はしていませんが」

 心の底から嫌そうな顔をされた。
 こいつ、本当に性格が悪いわね。裏表が激しすぎるわ。

「つべこべ言わないで話し相手になりなさい。精霊の怒りを買いたくないならね」
「はぁ、これだから精霊とは関わりたくないんです」

 さもうんざりしたような顔で溜息を吐いたくせに、立ち上がると近くにある透彫の椅子に座って、そのまま、私が話すのを待ってくれている。

 なんだ、実はいい奴なのかも、と思ってしまった。

   ◇

 私たちは陽が沈むまで一緒にいた。

 ローランはずっと話を聞いてくれていたけど、表情が変わらないしなにも言わないから、ちゃんと聞いてくれていたのかは全然わからない。

 けれど、話が一息つくとようやく、口を開いた。

「そこまでされていてなぜ利用されていると気づかないんですか? 何百年も生きているんですからそろそろ学んでください」

 なにを話すかと思えばこんなことで。
 バカにされているわね。

 本当に失礼な人間だわ。

「好きになった相手は全力で信じたいし全力で尽くしたいの! あんたはそんな経験なかったの?」
「生憎ですが暇ではなかったので」
「ほぉ〜? 私は暇だと言いたいのね? 人間の分際で喧嘩売ってるのかしら? あんたの口って本当に憎たらしいわね」
「被害妄想が強すぎますよ。そういうつもりで言ったわけではありません」
「じゃあ、どう言いたかったのよ?」
「祖国を追われたから生きるのに必死だったんです。私の力は、脅威になると思われていたので」

 一瞬だけ、ローランの表情に苦痛が滲んだ。

「……ごめん。言いにくいことを聞いちゃったようね」
「いえ、そのようなことはありません」

 嘘よ。
 苦しそうな顔していたくせに。

 けれど、目の前のローランの顔は無表情に戻っていた。まるで仮面がぺったりと顔にくっついているかのようで、声には抑揚がなくて。

 ねえ、あんたいま、なにを考えているの?

 ふと、そんなことを考えてしまったけど、観察してみたところでやっぱりわからない。何の感情もこもっていない目を向けられると余計に、上から目線で見られているような気がして癪だ。

 どうにかその憎たらしい顔を崩してみたくなって脇腹をくすぐってみた。

「っなにをするんですか?!」
「あんたの辛気臭い顔見てたらイライラしたのよ」
「横暴が過ぎますよ」
「うるさいわね。そんな顔してるあんたが悪いわ」

 偉そうにしているくせにいきなり傷ついた顔をするんだもの、振り回されているようでさらにムカつくわ。
 
 ローランが逃げようとしているからがっちりしがみついたら、居心地が悪そうに身じろぎされる。そんなことしたって逃がしてやるもんか。

「ねえ、あんた、ノエルになにやったの? 喧嘩はよくないわ。謝らないと、いざという時ノエルは助けてくれないわよ?」

 ちくりと言ってやると、ローランの動きは止まった。

「私とあのお方はそのような関係ではありません。あのお方は崇拝するべき偉大なる存在なのです」
「あら、かわいそうに。あなたって友だちがまったくいなさそうね」
「必要ありませんので」
「しかたがないから私が友だちになってあげるわ」
「お断りします」
「拒否権はないわよ。さっき寝言で母親を呼んでいたのをノエルに言ってもいいの?」
「くっ、」

 ローランの眦が吊り上がった。明らかに悔しそうな顔をしているとしてやったりと思う。

「もしも、なにかの間違いで偶然あなたを見かけたら話し相手にはなりますけど、そんなに会うことはないと思いますよ」

 あろうことか、頼んでもないのに話し相手になると申し出てくれた。
 言質はとったわよ。

「やったー! ローラン大好き!」

 つい、レティシアと話している時のように口走って抱きしめてしまった。
 またバカにされると思ったのに、ローランは黙ったまま、何も言ってこない。

 見上げると、彼は顔を真っ赤にしていた。
 そりゃあもう、彼の髪の色と同じくらいに。