――『月の槍と(サリーサ)闇夜の棍棒と(ペルティカ)星の剣(グラディウス)月の槍と(サリーサ)闇夜の棍棒と(ペルティカ)星の剣(グラディウス)

 ノエルが唱えた呪文は、幼い頃に毎日聞いていたものだった。眠る前にソフィーが唱えてくれたものと全く同じで。
 ただの気休めに過ぎないおまじないだと思っていたのに、ノエルが唱えると魔術のように力を持ち始めたから驚きだ。

 そうしておまじないは、だれかがディディエにかけていた魔術を断ち切ってくれた。

 一体、だれが魔術をかけたのかしら?
 ゲームの記憶だけではわからないわ。そんな描写は一つもなかったもの。

「このおまじないには、意識に介入してこようとする魔力を断ち切るための魔術が組み込まれているんだ。寝る前に唱えるといい」
「あ、ありがとうございます。あの、僕はだれかに魔術をかけられていたということですか?」
「恐らくはそういうことだろうね」

 ノエルは顎に手を当ててなにやら考え込んでいる。
 犯人を推測しているようだ。

「夢の中なら目を欺ける思っていたようだな。小癪なことを」

 なにやら悪役めいたことを言い始めたんだけど、大丈夫かしら?
 しかも企み顔になっているものだから、割増しで恐ろしい。ノエルの中に眠る黒幕としての気迫が存分に発揮されたような気がした。

 固唾を飲んで見守っていると、ノエルは魔法で宙に文字を書き始めた。彼が指をツイッと動かすと、文字はディディエを取り囲む。

「お礼はきっちりと返してあげることにしよう。モーリアにかけられた魔力を遡って犯人を特定する」

 魔術をかけた人物に反撃する魔術、つまり、呪詛返しだという。

 ノエルが呪文を唱えると文字から光が放たれて、馬車の進行方向とは反対側に向かって飛んで行ってしまった。あのまま進めば王都に行くんじゃないかしら。

 犯人、死んでしまうのでは?

 ほかでもない、ノエルがかけた魔術は強力そうだ。
 惨殺事件の噂が王都から流れてくることのないように、祈るしかないわね。
 
   ◇

 馬車で移動するうちに見慣れた薬草畑が眼下に広がり始めた。
 窓から入り込んでくる風の香りにはほのかに薬草の香りが入り混じっていて、吸い込むと懐かしくて嬉しくなる。

 どうやら馬車は、ベルクール領に差し掛かったようだ。

 そのままぐんぐんと進んでいくと、ついにお屋敷(マナーハウス)に辿り着いた。ノエルの手を取って馬車を降りると、お父様や使用人たちが出迎えてくれる。

「ただいま戻りました」

 お父様に挨拶しに行くと、見知った人物も隣に居て、顔を綻ばせて抱きしめてくれた。
 いまは子爵位をもらって跡を継ぐための準備をしている、私のお兄様だ。

「レティ! 待ってたよ!」
「お兄様!」

 以前ノエルと一緒に帰った時はお兄様は隣国ディエースに視察に行っていたから会えなくて、久しぶりに顔を見られてホッとした。なんせお兄様はすごくすごく体が弱いから、 お母様の言葉を借りて言えば、「どこかでところかまわず倒れてしまっているんじゃないか」と心配になってしまう。

「アルシェ子爵、実際にお会いするのは初めてですね。ノエル・ファビウスです。よろしくお願いいたします」

 ノエルが挨拶をすると、お兄様はノエルに手を差し出す。
 以前ノエルと領地に帰った時はお兄様は隣国の視察に行ってたから会えなかったから、二人ははじめましての状態だ。

「私はレティの兄のフィルマン・ベルクールだ。手紙をくれてありがとうね。君がレティの婚約者に……」

 最後まで言い終えないうちにお兄様の体から力が抜けて、倒れてしまった。
 執事たちが慌ててお兄様を支えていると、クスクスと笑う声が聞こえてきた。聞き覚えのある声に、いや、忘れるはずもない声に、耳を疑う。

「やれやれ、久しぶりにレティシアに会えて興奮しちゃったみたい」

 鳶色の髪を綺麗に纏めている、人懐っこく笑う男性がお父様の後ろから現れた。

 肩を竦ませてこちらに目配せしてくるこの人こそが、ジスラン様。
 私の、失恋した相手だ。

「ジ、スラン様?」

 どうして彼がここに?
 頭の上いっぱいにハテナマークが並ぶのが自分でもわかる。

「フィルマン様からディエース王国の薬や治癒師のことを聞きに来たのさ。お邪魔しているよ」
「え、えっと、久しぶりです」

 そっか、ジスラン様は騎士団の治癒師として働いているから、お兄様に情報を貰いに来たのね。

 もう吹っ切れたと思っていたのに、いざ会ってみると気まずい。

「いつの間にか婚約していて驚いたよ。おめでとう」 

 婚約の事、お父様から聞いたようね。

 お礼を言いたいのに気まずくて言葉が出てこない。私が片想いしていただけなんだからジスラン様はなんとも思っていないんだけどさ。
 告白すらしていない失恋だったものだから、気まずいのは私だけなんだけどさ。

 邪気のない笑みを浮かべるジスラン様を目の前にして勝手にまごついていると、ノエルが腰を引き寄せてきた。

「ありがとうございます。幼馴染みのビゼー卿からも祝福していただけて嬉しいです」

 そう言ってにっこり笑うノエルの顔が近い。あと、気のせいかもしれないけど、「幼馴染の」のあたりがやけに強調されているように聞こえた。

 挨拶が終わりお父様が生徒たちに声をかけているのを見守っていると、いきなり小さな影が弾丸のように飛んできてぶつかってきたものだから、よろめいてしまった。ノエルに支えてもらいながら受けとめた影を見ると、その小さな弾丸は私のドレスにぎゅうっと顔を埋めて抱きついていて。

 彼の柔らかな金灰色の髪を見ると愛おしさが込み上げてくる。

「エメ! 大きくなったわね」

 コアラの子どものようにくっついているこの少年は、お兄様の息子で甥っ子のエメだ。甘えん坊で、抱き上げるとちゅっと頬にキスしてくれるのが可愛らしい。
 デレデレとしてると、天使の顔をしていたエメが瞬時に眉間に皺を寄せた。視線の先にいるのはノエルだ。

「あっちいけ! お前なんか嫌いだ!」

 エメは威嚇する子犬のように歯を見せている。

「レティは僕と結婚するのにお前が横取りした! 卑怯者!」
「卑怯、者……」

 ものすごい剣幕でまくし立てられて、ノエルは絶句した。

 子どもってすごい。
 純粋な怒りをぶつけただけで黒幕(予備軍)を黙らせてしまった。

 小さい子にいきなり嫌われるのは、たしかにショックよね。