走り出した足は、止まることなく家路を急いだ。
 小石に躓く感覚も、疲労も、息切れすらも、全部意識の外へとおいやって、私はただ、家へと続く道を走り抜けた。

『お母さん、ちゃんと見ててね――これは、陽向との約束だから』

 枕元でそれだけ言い残して帰って来たけれど、大丈夫だろうか。
 いや。今はそんなことより、優先すべきことがある。
 焦り、もたつく手で、何とか取り出した鍵を差し込む。
 力を入れ過ぎて穴から逸れた所為で指先が痛くもなるけれど、そんなことすら今はどうだっていい。

 今はただ、それだけを求めていた。

 強く軋むくらいに開け放つ扉も。
 乱雑に投げ出した靴も。
 床に落としたままの鍵も。

「はぁ、はぁ…!」

 何にも目はくれないまま、私は廊下の奥に見つけたピアノのある部屋へと転がり込んだ。
 少しばかり肩で息をしていると、一気に疲労感が襲ってきて、嫌な汗も流れ始めたけれど。
 目的のものは、もうすぐ目の前にあった。

 私は『ショパン:練習曲作品十ー三』と書かれた本を手に取る。

 恐る恐る中身を確認するけれど、やっぱり何も分からなくて、気持ちが悪くなってしまった。
 私はつい閉じかけてしまう。
 けれども何とか我慢して、再び音符の羅列に目を通していく。
 震える指先も、次第に痛くなってゆく頭も、ぐちゃぐちゃと訳が分からなくなっていく感覚も、ただ我慢して、何とか読み切った。

 …………足りない。

 ただ一度読んだくらいでは、向こうで少しばかり練習が出来たとしても、納得のできるものに仕上げられるかどうかは分からない。
 向こうで出来ることは、こっちで得た知識を整理することなんだ。それは裏を返せば、こっちで得た知識以上のものを得られるわけではないということ。
 いくら私に弾く力があろうとも、その準備段階であるところの譜読みが出来ていないのでは、意味がない。
 今にして思えば、初めて読まされた時、なるべく細かく読めと指示をしてきたのは、そのためだったんだ。
 私は続けて、二度、三度と読み返した。
 読む度、やっぱり違う音楽に聞こえてしまうけれど、繰り返し読んでいる内に、その感覚も次第に薄れていった。

 これが、始まり――この、僅か数ヶ月の間に起こった奇跡の、始まりだ。 

 本当に、色んなことがあった。
 ずっとナルコレプシーのせいだと思っていた眠りの中で、不思議な声に出会って。
 それに導かれるように、長い間離れていたピアノの世界に触れて、次第に現実の方も変わっていって。
 声が実体として見えるようになると、変な手紙に出会って――夢や陽向の正体、母のこと、そして知らなかった父のことについても分かっていって。

 まるで、すべてが一つの線の上にあったかのように。

 全てが仕組まれていたかのように。

 全部繋がって、一つだって不要なものはなかった。
 今思えばそれらは全て、愛情に満ち溢れたものばかりだった。
 陽向との別れは、確かに寂しい。けれど、例え会えなくたって、これからは自分自身として、共に生き続けることが出来る。
 あの空間が消えようとも、話せなくなったとしても、これまで交わして来た言葉は本物だ。
 この胸の中に在って、私と共に生き続けていく。
 寂しいけれど、これは悲しいことではない。

「陽向――ちゃんと見ててね。私、頑張るから」

 陽向に、そして自分自身に言い聞かせるように呟くと、私は、もう来られないだろう世界へと落ちていった。