夢をみた。
懐かしい、昔の夢。
あの人は今どうしてるかしら――そんなことを考えながら眠ってしまったからかもしれない。
まったく。陽和が会ったりするから。
話を聞いている内に懐かしくなって、どうにも胸の辺りがざわついてしまう。
だからまた、こうしてピアノのある部屋に来ている。
私が音を鳴らす時には、決まって「これから弾くわ」「ちょっとうるさくなるわよ」などと言い残してから部屋に入る。急に鳴らして、陽和や涼子さんの生活に支障をきたすようなことを避ける為だ。
ただ、それには例外もある。
過度なストレスや心配事など、いずれか心身に負担のかかるような出来事があった時には、私は何も言わないまま弾き始める。だから荒々しかったり、反対に力なかったりもする。
その時々の心のまま弾き殴って、頭を切り替える。
曲は、決まって『別れの曲』ただ一つだけ。
陽和が大好きだと言ってくれた辺りから、かな。私も同じく一番好きなこの曲を、一番嫌な心情で弾くと、否が応でも『これでは駄目だ』と切り替えられるのだ。
「美那子さん」
最後の一音、その余韻を長く細く残していたところに、涼子さんが声を掛けて来た。
少しだけ開いた扉から顔を覗かせている。気が付かなかった。
「ごめんなさい、涼子さん。入って大丈夫よ」
「はい。失礼致します」
小さく頭を下げて、涼子さんは部屋の中へと入って来た。またやってしまった。
「それで、陽和ちゃんのことなのですが」
「――ええ」
鍵盤の蓋を閉め、目を閉じた私の脳裏に浮かぶのは、一週間前の夜のこと。
帰って来た私は、陽和と話している最中に倒れた。過度な疲労、それに伴う貧血症状、そして睡眠不足——自分のこと、そして陽和たちのことと、ずっとそればかりを考え続けていたからだと、医師から言われて自覚した。
向こうに行ってから、いや行く前から、そのことばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
何気ない会話から、記念にと写真を撮った時まで、何でもない時間のことばかりを思い出していた。
考えない時間なんて、ひと時もなかった。
そればかり考えていた所為か、食事もあまり喉を通らず、寝付いてもすぐに起きてしまっていた、なんてことを繰り返していたのだ。
病室で目覚めた私に、幾らかの会話を交わした後で、陽和が尋ねて来た。
どうして、次の自分の誕生日を祝えないのか、と。
ひとみさんから話を聞いたのなら、陽和の中にもその答えはあっただろうとは思うけど、敢えて尋ねて来たのはきっと、私の言葉でちゃんと聞きたかったからだろう。
私は、偽ることなく答えた。これまでのこと全てにも謝りながら、私は余すことなく吐き出した。
もっと泣いたり、叫んだり、取り乱すかもしれないと思っていたけれど、陽和は「そっか」と目を伏せた。
知らない間に、随分と大人になっちゃって。
今は二月に入ったばかり。
余命は半年。
陽和の誕生日は一月。
私を蝕む病は想定より早く進んでいて、今から何かしたのではとても意味がない。ここにまた新しい治療を始めようものなら、その副作用や大変さから、輪をかけて満足な生活が送れなくなる。
そうなってしまえば、残り半年、凡そ「楽しかった」なんて言えないような日々を過ごし、最期を迎えてしまうことになる。
稀なケースとして進行の遅い私だったけれど、今はこうして急速に進んできている。
運否天賦が世の常だ。期日通りにしか開催出来ないイベント事と、期日通りとはいかない人間の身体。
夏から先に開催準備が始まる天上の音楽祭――私は、その夏を迎える前に命が尽きるかもしれない身体だ。
何かの奇跡が起こって陽和が呼ばれることになったとしても、私がそれを目にすることは約束されていない。
だから、なのだろう。
なるべく早く、なるべく近いところで、華々しい姿を見せてくれようと思ったのかもしれない。
ただの発表会や演奏会では駄目。誰でも出られるし、身内贔屓に喜んで終いだ。
そう考えた陽和の頭にはもう、一つの選択肢しかなかったらしい。
『お母さん。私、春のコンペに出るよ』
陽和は言った。
それも、確かな強さと覚悟を宿した瞳で。
口で言う程簡単な話ではない。
この春にあるのは『全日本女子ピアノコンペティション』だ。かなりの手練れたちが集う。過去、出場したことのある私だって、満足な成果を残すには手こずった。
そう思ったのに、私は、
『…………うん』
小さく呟き、頷いていた。
不可能だ。難しい。
そう言ってあげてもよかったはずなのに。
『私、本気だよ。だから――見ててね、お母さん』
その瞳に宿る確かな熱は、どこか、そんな不可能とも思えることを可能にしてくれそうな、そんな予感すらさせた。
懐かしい、昔の夢。
あの人は今どうしてるかしら――そんなことを考えながら眠ってしまったからかもしれない。
まったく。陽和が会ったりするから。
話を聞いている内に懐かしくなって、どうにも胸の辺りがざわついてしまう。
だからまた、こうしてピアノのある部屋に来ている。
私が音を鳴らす時には、決まって「これから弾くわ」「ちょっとうるさくなるわよ」などと言い残してから部屋に入る。急に鳴らして、陽和や涼子さんの生活に支障をきたすようなことを避ける為だ。
ただ、それには例外もある。
過度なストレスや心配事など、いずれか心身に負担のかかるような出来事があった時には、私は何も言わないまま弾き始める。だから荒々しかったり、反対に力なかったりもする。
その時々の心のまま弾き殴って、頭を切り替える。
曲は、決まって『別れの曲』ただ一つだけ。
陽和が大好きだと言ってくれた辺りから、かな。私も同じく一番好きなこの曲を、一番嫌な心情で弾くと、否が応でも『これでは駄目だ』と切り替えられるのだ。
「美那子さん」
最後の一音、その余韻を長く細く残していたところに、涼子さんが声を掛けて来た。
少しだけ開いた扉から顔を覗かせている。気が付かなかった。
「ごめんなさい、涼子さん。入って大丈夫よ」
「はい。失礼致します」
小さく頭を下げて、涼子さんは部屋の中へと入って来た。またやってしまった。
「それで、陽和ちゃんのことなのですが」
「――ええ」
鍵盤の蓋を閉め、目を閉じた私の脳裏に浮かぶのは、一週間前の夜のこと。
帰って来た私は、陽和と話している最中に倒れた。過度な疲労、それに伴う貧血症状、そして睡眠不足——自分のこと、そして陽和たちのことと、ずっとそればかりを考え続けていたからだと、医師から言われて自覚した。
向こうに行ってから、いや行く前から、そのことばかりが頭の中でぐるぐると渦を巻いていた。
何気ない会話から、記念にと写真を撮った時まで、何でもない時間のことばかりを思い出していた。
考えない時間なんて、ひと時もなかった。
そればかり考えていた所為か、食事もあまり喉を通らず、寝付いてもすぐに起きてしまっていた、なんてことを繰り返していたのだ。
病室で目覚めた私に、幾らかの会話を交わした後で、陽和が尋ねて来た。
どうして、次の自分の誕生日を祝えないのか、と。
ひとみさんから話を聞いたのなら、陽和の中にもその答えはあっただろうとは思うけど、敢えて尋ねて来たのはきっと、私の言葉でちゃんと聞きたかったからだろう。
私は、偽ることなく答えた。これまでのこと全てにも謝りながら、私は余すことなく吐き出した。
もっと泣いたり、叫んだり、取り乱すかもしれないと思っていたけれど、陽和は「そっか」と目を伏せた。
知らない間に、随分と大人になっちゃって。
今は二月に入ったばかり。
余命は半年。
陽和の誕生日は一月。
私を蝕む病は想定より早く進んでいて、今から何かしたのではとても意味がない。ここにまた新しい治療を始めようものなら、その副作用や大変さから、輪をかけて満足な生活が送れなくなる。
そうなってしまえば、残り半年、凡そ「楽しかった」なんて言えないような日々を過ごし、最期を迎えてしまうことになる。
稀なケースとして進行の遅い私だったけれど、今はこうして急速に進んできている。
運否天賦が世の常だ。期日通りにしか開催出来ないイベント事と、期日通りとはいかない人間の身体。
夏から先に開催準備が始まる天上の音楽祭――私は、その夏を迎える前に命が尽きるかもしれない身体だ。
何かの奇跡が起こって陽和が呼ばれることになったとしても、私がそれを目にすることは約束されていない。
だから、なのだろう。
なるべく早く、なるべく近いところで、華々しい姿を見せてくれようと思ったのかもしれない。
ただの発表会や演奏会では駄目。誰でも出られるし、身内贔屓に喜んで終いだ。
そう考えた陽和の頭にはもう、一つの選択肢しかなかったらしい。
『お母さん。私、春のコンペに出るよ』
陽和は言った。
それも、確かな強さと覚悟を宿した瞳で。
口で言う程簡単な話ではない。
この春にあるのは『全日本女子ピアノコンペティション』だ。かなりの手練れたちが集う。過去、出場したことのある私だって、満足な成果を残すには手こずった。
そう思ったのに、私は、
『…………うん』
小さく呟き、頷いていた。
不可能だ。難しい。
そう言ってあげてもよかったはずなのに。
『私、本気だよ。だから――見ててね、お母さん』
その瞳に宿る確かな熱は、どこか、そんな不可能とも思えることを可能にしてくれそうな、そんな予感すらさせた。