感覚があるのは、生きてる証拠。涼子さんの言葉はしっかりと飲み込みながらも、私は夢の住人に思いを馳せる。
 生きて、こうして温もりをくれる相手の前で、だ。
 こんなこと間違ってる。そう思うけれども、あの世界が一体なんなのか、彼は一体誰なのか、どうしてこっちでもピアノが弾けるようになったのかがどうしても気になる。
 そして、どうして普通の睡眠ではなく、ナルコレプシーの発作による睡眠に限ってのみ、あの世界へ行くことが出来、彼と話すことが出来るのか。

 知りたいこと、ではない。
 これはきっと、私が知らなければいけないことなんだ。
 あの部屋に置いてあった、例の臍の緒――あれは間違いなく、この事象を説明する為の鍵だ。

「起きて喋ってる様子を見たら、ちょっとだけ安心したわ。話さないわけにはいかないから、ちょっと美那子さんに連絡してくるわね」

 そう言って立ち上がると、涼子さんは病室を後にした。
 扉が閉められると、辺りは静寂に包まれた。人の気配もない。個室だったようだ。

「臍の、緒……」

 独り言ちて考える。
 けれども現状、それを確認する術、仮説を立てる為の材料はない。
 何か知っていそうな、知り合いと言える知り合いは、思いつく限り幼少の頃にピアノを習いかけた、あの先生くらい。母の旧友という話だった筈だから、何か知っているのは間違いないけれど、だからと言って今更会えるわけがない。
 私は、自分がどんな病院で産まれ、誰が立ち会い、どんなことがあったか等、幼子の時分の出来事を、何一つ知らない。
 母に詳しく尋ねなかったから、というのが大きな理由だけれども、それだって、周りと違って自分には父がいないと正しく認識した時から、自分の過去についてむやみやたらに詮索はしないでおこうと思ったからだ。

 それが、どうやら間違いだったらしい。

 それよりも以前に、何度か母に自分の過去のことを尋ねたこともあったけれど、その度、母は『また今度ね』『まだ難しい話だからね』『今は忙しいからね』と言って、頑なに避けて来た。
 今思えばあれは、誤魔化しか、教えたくないのか、あるいは教えてはいけないことだったのではないだろうか。
 言わないのではない。秘密にしている訳でもない。
言ってはいけないことだったんだ。
 隠すに足る理由があるからこそ、私には言わないままで、これまで過ごしてきたのだ。

 あの臍の緒のことだって、この十六年間、知らなかったくらいなのだから。
 ――あんなところにあって、今まで気が付かなかったなんて。
 いや、ここ数年はあの部屋にも入っていなかったからか。背丈が足りなかった時分には、写真は涼子さんか母に取ってもらっていたから、目に触れることもなかったんだ。

(隠す理由……)

 考えたところでふと、先日ポストに入っていた封筒のことを思い出した。
 コンビニでも買えるような、どこにでもある茶封筒。
 送り主の情報は書かれていなかったけれど、綺麗な手書きであった。
 森下家の方へ、なんて堅い書き方をしていた割には、会社名などの記載だって一切なかったということは、誰か個人からのものだ。
 それも、名前を書かずとも字の癖なんかで分かるような。

 普段は涼子さんがポストの中身を精査していることから、母だけ、あるいは母と涼子さんだけが分かる相手。見知った仲だけれど何か理由があって、万一私が手に取ってしまった時でも上手く誤魔化せるよう、名前は書かず。
 二人以外、つまり私には、名前を明かせない人物からのものなのだろう。
 私自身、文通をする相手や、重要書類が届くような企業だって相手にいない。学校からのものなら、その記載は必ずある。佳乃とはメールか電話でのやり取りしかしたことはない。
 リビングのテーブルの上で野ざらし、というのも悪いからと、何となく自室の机に置いておいたけれど、気まぐれが、まさかこのような形で功を奏そうとは。
 涼子さんがもし熱も何もなく、いつも通り元気に来ていたならば、知る由もなかった。

 それにもし仮に、あれが送られてきたのが初めてだとするなら、住所はなくとも、最低でも名前か、何かしら分かるような目印の一つでも付けておくものではないだろうか。けれど、あれにはそういった類のものは見られなかった。
 差出人の名前や住所がない以外、不審な点は別段なかったはずだ。
 初めてではなく二度以上、ああして送ってきているものなのだと考えると、宛先が母であるかそうでないかは別として、涼子さんは全て知っているということは間違いない。私より早く起きていて、家にまで来ていて、それを今まで一日たりとも欠かしたことなんてなかったのだから。

 ああいうものがあるのだと、内容こそ知らずとも、存在は知っているはず。
 ならば、この読みが合っていようが外れていようが、今ここで涼子さんに尋ねるのは駄目だ。

 少しでも踏み込んだ話をすれば、あの時私が何をしていたのか、何を見たのかまで悟られて、せっかくの機会を一つ、失ってしまう。
 絶好のチャンス、と言ってしまうと涼子さんには、いや母にも悪いけれど、教えてくれないのであれば、自分から探し出さないといけない。
 あの臍の緒に隠された謎、真意は、私が知らなければいけないことなのだ。

(ごめんね、涼子さん……)

 心の中で強く、深く謝って、私は退院の時を待った。