まずは月の光。
そして金の亀を使う女、子犬のワルツ。
やっぱり、どれも弾くことが出来る。
譜面台に乗せたそれらは、相変わらず分からないことの方が多いけれど、頭の中には確かに、陽向くんの起こした譜面、そしてそれを視ながら直す指摘、言葉の数々が、イメージとして強く浮かんでいる。
次々浮かぶそれらに従いながら、私は音を紡いでゆく。
(隣に陽向くんがいるみたい)
ただ奏でているだけの、虚しい音じゃない。
誰かに聴かせる、誰かが聴いてくれているという意識で初めて奏でられる音。魅せる音だ。
そんな音を、私は少し奏でられるようになっていた。
――そろそろ、頃合いかと思った。
疑問は解消された。
こちらでもピアノを弾ける現象が、理屈は分からないまでも道程は確信に変わった。
壁に掛かった時計に目をやる。
現在時刻は二十時。時差を考えると、向こうは正午くらい。
早起きな母のことだ。仕事中でないのなら、もう既に起きていて、外に出ていたってスマホは持ち歩いている筈。
少しばかりの不安は孕みつつも、私は意を決して母の番号を呼び出した。
プルルル、プルルル……繋ぎの音が、やけに長く感じる。
『――こんばんは、陽和。そっちはもう夜でしょ? 久しぶりね。なかなか連絡出来なくてごめんね』
母の声。懐かしさすら覚える。
一週間と少し離れていただけでここまで寂しくなってしまうとは、自分でも驚きだ。
「ううん、それは全然」
『そう? ならよかった。それで、急にどうしたの? 寂しくなっちゃった?』
揶揄うような調子で母が言う。
内心当てられてやや驚きつつも、私は冷静に言葉を組み立てる。
「え、っと……えっと、ね」
思いがけず言葉が詰まる。
すぐそこまで出かかっているのに。
私がこんな調子の時は、決まって何か相談事や大事な話がある時だ。母にもそれは分かってしまったことだろう。
「そ、そうだ、コンサート…! どうだったの?」
『勿論、大成功よ。次回へのお呼びもかかったけど、それはまた今度考えるわ。今はやっぱり、陽和と涼子さんの顔が見たいもの。きっと、日本の空気が性に合ってるのよ』
「そ、そうなんだ」
『うん。そういう陽和は? 上手くやれてるの?』
「まずまず、かな。あー、そうだ。今日ね、初めて家のこと全部やったんだ。涼子さんが風邪っぽくてさ。連絡いってる?」
『あら、私の方はまだ――きっと時差を考えてのことでしょうね。朝からって言うなら、その時分こっちは真夜中だもの』
「あ、そっか。確かに。流石だね」
『ええ。それにしても心配ね。ちゃんと病院には行ったのかしら』
「それは抜かりないと思う。だってほら、涼子さんだよ? 何があっても、今まで一度だって休んだことないんだから。早く治して戻らなきゃって、真面目さ全開で病院にも駆け込んだんじゃないかな」
『ふふっ。それもそうね』
無論、心配であることに変わりはないけれど。
親子二人。遠い異国の地にあって、その表情こそ拝むことは出来ないけれど。
笑って、楽しそうな顔をしているんだろうなと思う。
話しながら、私はベランダの方へと足を運んだ。冷たい冬の夜風にあたりながらだと、はっきりとした意識で言葉が出せると思った。
「えっと、それでね、お母さん」
『ええ。ゆっくりで良いから』
「う、うん」
恐れはある。けれど、伝えないことには――母にだけは言葉にしておかなければ、決意が揺らいでしまいそうだ。あと二週間もすれば、この家に帰って来るのだから。
受験の時より、その合格発表の時より、今までの何より緊張する。
最愛の母、誰より尊敬する背中だからこそ、この言葉はとても大事で、意味のあることなのだ。
「すぅー……はぁー……」
ゆっくり、大きく深呼吸。
「私――」
心臓は未だ五月蠅いけれど、落ち着いた呼吸で、私は夜空に浮かぶ月を見上げた。
「私、出たいの。『天上の音楽祭』に」
それは、母が昔立った舞台。
別れの曲を弾いた、あの舞台の名前だ。
初めて抱いた、願望らしい願望。
これが、私の新しい夢。そのはずだったのに。
数秒。数十秒。
いくら経とうとも。
母は、言葉を返してはくれなかった。
そして金の亀を使う女、子犬のワルツ。
やっぱり、どれも弾くことが出来る。
譜面台に乗せたそれらは、相変わらず分からないことの方が多いけれど、頭の中には確かに、陽向くんの起こした譜面、そしてそれを視ながら直す指摘、言葉の数々が、イメージとして強く浮かんでいる。
次々浮かぶそれらに従いながら、私は音を紡いでゆく。
(隣に陽向くんがいるみたい)
ただ奏でているだけの、虚しい音じゃない。
誰かに聴かせる、誰かが聴いてくれているという意識で初めて奏でられる音。魅せる音だ。
そんな音を、私は少し奏でられるようになっていた。
――そろそろ、頃合いかと思った。
疑問は解消された。
こちらでもピアノを弾ける現象が、理屈は分からないまでも道程は確信に変わった。
壁に掛かった時計に目をやる。
現在時刻は二十時。時差を考えると、向こうは正午くらい。
早起きな母のことだ。仕事中でないのなら、もう既に起きていて、外に出ていたってスマホは持ち歩いている筈。
少しばかりの不安は孕みつつも、私は意を決して母の番号を呼び出した。
プルルル、プルルル……繋ぎの音が、やけに長く感じる。
『――こんばんは、陽和。そっちはもう夜でしょ? 久しぶりね。なかなか連絡出来なくてごめんね』
母の声。懐かしさすら覚える。
一週間と少し離れていただけでここまで寂しくなってしまうとは、自分でも驚きだ。
「ううん、それは全然」
『そう? ならよかった。それで、急にどうしたの? 寂しくなっちゃった?』
揶揄うような調子で母が言う。
内心当てられてやや驚きつつも、私は冷静に言葉を組み立てる。
「え、っと……えっと、ね」
思いがけず言葉が詰まる。
すぐそこまで出かかっているのに。
私がこんな調子の時は、決まって何か相談事や大事な話がある時だ。母にもそれは分かってしまったことだろう。
「そ、そうだ、コンサート…! どうだったの?」
『勿論、大成功よ。次回へのお呼びもかかったけど、それはまた今度考えるわ。今はやっぱり、陽和と涼子さんの顔が見たいもの。きっと、日本の空気が性に合ってるのよ』
「そ、そうなんだ」
『うん。そういう陽和は? 上手くやれてるの?』
「まずまず、かな。あー、そうだ。今日ね、初めて家のこと全部やったんだ。涼子さんが風邪っぽくてさ。連絡いってる?」
『あら、私の方はまだ――きっと時差を考えてのことでしょうね。朝からって言うなら、その時分こっちは真夜中だもの』
「あ、そっか。確かに。流石だね」
『ええ。それにしても心配ね。ちゃんと病院には行ったのかしら』
「それは抜かりないと思う。だってほら、涼子さんだよ? 何があっても、今まで一度だって休んだことないんだから。早く治して戻らなきゃって、真面目さ全開で病院にも駆け込んだんじゃないかな」
『ふふっ。それもそうね』
無論、心配であることに変わりはないけれど。
親子二人。遠い異国の地にあって、その表情こそ拝むことは出来ないけれど。
笑って、楽しそうな顔をしているんだろうなと思う。
話しながら、私はベランダの方へと足を運んだ。冷たい冬の夜風にあたりながらだと、はっきりとした意識で言葉が出せると思った。
「えっと、それでね、お母さん」
『ええ。ゆっくりで良いから』
「う、うん」
恐れはある。けれど、伝えないことには――母にだけは言葉にしておかなければ、決意が揺らいでしまいそうだ。あと二週間もすれば、この家に帰って来るのだから。
受験の時より、その合格発表の時より、今までの何より緊張する。
最愛の母、誰より尊敬する背中だからこそ、この言葉はとても大事で、意味のあることなのだ。
「すぅー……はぁー……」
ゆっくり、大きく深呼吸。
「私――」
心臓は未だ五月蠅いけれど、落ち着いた呼吸で、私は夜空に浮かぶ月を見上げた。
「私、出たいの。『天上の音楽祭』に」
それは、母が昔立った舞台。
別れの曲を弾いた、あの舞台の名前だ。
初めて抱いた、願望らしい願望。
これが、私の新しい夢。そのはずだったのに。
数秒。数十秒。
いくら経とうとも。
母は、言葉を返してはくれなかった。