「――ふぇ?」

 幸せの終わりは、突然に訪れた。

「え、夜……?」

 カーテンの隙間からは、光一つ射し込んで来ていない。
 まだ更け切っているという訳でもないだろうとは思うけれど、随分と長い間落ちてしまっていたらしい。

「え、っと……」

 未だ覚醒途中の頭で考えるのは、夢の中で弾いていた曲の数々。
 クープランの墓から始まって、金の亀を使う女、子犬のワルツ、月の光、革命のエチュード、喜びの島――思い出せる限りで、それくらい。
 随分と沢山弾いたものだ。いや、弾けたのか。
 それだけ、長い時間眠ってしまっていたということだ。

 ただ譜面を追っていただけの目も頭も、時に厳しい陽向くんの助言もあって、次第に手元を見る余裕も出て来た。ただ弾くだけじゃない技術も、多少は見に付いたと思う。
 隣で譜面を捲りながら、穏やかで優しく、たまに真剣な目をして見守ってくれていた陽向くんの顔が、脳裏を過る。
 思い出すのは、やはりあの言葉だ。

「あの曲たちはもう、私のものなんだ。私の音は、まだ死んでない」

 部屋の真ん中で佇む、ひとり寂しそうなグランドピアノ。
 母はいない。あれを楽しませてあげられるのは、今ここに私一人。
 ここは防音室で、家の敷地も広い。
 周りには民家もあまりない。
 涼子さんも、今日はいない。
 夜更けに弾いたって、気にする者はいない。
 ここにはただ、一台のピアノと、一人の奏者。
 私は迷うことなく、蓋を開けた。