「――――で、これがシューマンで、こっちが……あれ?」
一瞬途切れた意識のスイッチが点く。
あの世界だった。
いつの間にか落ちてしまっていたらしい。意識したわけでもなかったのに。
どうしてだろう。
倒れた楽譜を手に取るためにしゃがんでいた筈だから、現実の身体の方は心配はいらないはずだ。
こうして平和な夢を視られている時点で、大事ないだろうとは思えるけれど、それはそれとして。
「うーん。まぁ、丁度よかったかも」
私はまたあのピアノを目指し歩こうかと思う。
けれど、遅れて、自分が今正にその椅子へと座っていることに気が付いた。目の前には、あの透明なグランドピアノがある。
前に落ちた時に思った愚痴が、悟られてしまったのだろうか。
まぁ、いいか。
この夢だって、いつ覚めるとも分からないんだから。手間が省けたのは、いいことだ。
「よし!」
逡巡もそこそこに、私はさっそく鍵盤の上へと指を置いた。
前回の反省を活かし、まずは簡単な曲から手を付けたいところだけれど、どれから始めたらいいものやら、私の中にはその線引きすらない。
そんな時、流石役に立つのは夢の住人だ。
『まずはクープランの墓から、メヌエットにしよう。譜面自体は簡単だからね。楽譜はもう置いてある』
譜面台の方へと視線を向けてみれば、声の言う通り『クープランの墓』と書かれた薄い本が立てかけてあった。
表紙を捲ると、私は疑うことなく指を押し込んだ。
するとまた、あの時のように、次の音、次の流れが頭のなかに浮かんできて、途切れることなく曲を紡ぐことが出来た。
別れの曲一つだけではない。
ピアノを、弾くことが出来るのだ。
リアルで視た譜面を、この声の主が興すことで、私の脳内にもインプットされる。そんな感じだ。
弾きながら、このレベルなら必死に食らいつかなくても大丈夫そうだと思う。
そう判断するや、
「ねぇ」
私は、鍵盤に指を這わせたままで、声の意識を拾った。
『何かな?』
声は何となく、私の聞きたいことが分かっているような、わざとらしい口調で聞き返す。
「そろそろ教えてくれないかな、君のこと。神様とかじゃないんでしょ?」
『うーん……どうだろうね』
「姿すら見えないし、名前だって知らない。そもそもあるのかも分からない。声以外何ひとつ知らないのに、そんなあなたは私のことなら何でも知ってる。不公平じゃない?」
何度か会って、いや声によるコミュニケーションは取れているものの、その姿も、名前も、香りも、私は何一つ知らない。
それなのにこの人は、私のことは何でも見透かしたようで。そんな態度にも納得がいかない。
『不公平、と来たか。まぁ、そうか。うん、そろそろいいかもね』
何やら含みのある言い方に、また聊かの不満も募ったけれど。
すぐ横の空間がゆらりと揺らめいたかと思うと、そこから光が伸び、やがて人の形になって収束した。
音を重ねる手が止まる。
すらりと細い高身長に中性的な顔つきは、声から得たイメージそのままだ。
「改めて初めまして、かな」
涼し気な目元で見つめられると、少し緊張してしまう。
「え、っと……それが君の姿なの?」
「仮、だけどね。こんな風が一番近いと思ったんだ」
「え、何それ。やっぱり神様か何か?」
「あはは! それでも良いかもね」
無邪気に笑う顔は、子どものように幼い。
「一番近いって、どういうこと?」
「イメージの問題、かな。ほら、僕は夢の住人でしょ? 僕自身、僕がどんなか分からないんだよ」
「え、じゃあ名前は?」
「名前? 名前……うーん、名前か」
少し悩んで、
「陽向、ってことにしておこうかな」
笑って、曖昧に答えた。
「しておこうかな、って何それ。やっぱ神様じゃん」
「もうそれでいいよ。僕は神様だ。何せ、人の夢に勝手に出てきて、勝手に譜面の作成なんかしてるわけだからね」
本当にその通りだ。あっけらかんと言い放つほど、当たり前な話ではない。
「でも、なんで陽向?」
「君の名前に近い方が良いかと思って。君が陽和で、僕が陽向。ほら、並びも丁度いい」
「兄弟姉妹みたいでなんかやだ。神様なんでしょ?」
「そうかな? 僕は結構、気に入ってるんだけど。ダメ?」
「別にダメとは言わないけど……うん、分かった。じゃあ陽向くん、これからよろしく」
「うん。改めてよろしくね、陽和」
差し出される手を取り、私はぎゅっと力を籠める。
握手などというコミュニケーションは、もうしばらく誰とも交わしていなかった。
手から伝わる相手の温もりってこんなだったかな、としみじみ浸る私だったけれど、不用意に長く握り過ぎるものおかしい。
平静を装いつつ、さっと離して話題を戻す。
「続き、弾かなきゃ」
「うん。これからは、この姿で隣から見ているよ。譜面は僕が捲ってあげる。時間の許す内は、僕が君の先生って訳だ。一緒に直して、いい演奏が出来るようにしようね」
「うん! ありがと、陽向くん」
声が聞こえていたって、こんな素敵な舞台で私は一人で弾いている気分だった。
けれどもこれからは、
(なにこれ、すっごい楽しい。隣に人がいるのって、こんなに心強いことだったんだ)
すぐ近くで、同じ曲に関して理解ある相手が見守ってくれている。
速い。遅い。ミスタッチをした。
数々の助言を貰いながら、何曲も、何曲も。
(私、今とっても――)
一瞬途切れた意識のスイッチが点く。
あの世界だった。
いつの間にか落ちてしまっていたらしい。意識したわけでもなかったのに。
どうしてだろう。
倒れた楽譜を手に取るためにしゃがんでいた筈だから、現実の身体の方は心配はいらないはずだ。
こうして平和な夢を視られている時点で、大事ないだろうとは思えるけれど、それはそれとして。
「うーん。まぁ、丁度よかったかも」
私はまたあのピアノを目指し歩こうかと思う。
けれど、遅れて、自分が今正にその椅子へと座っていることに気が付いた。目の前には、あの透明なグランドピアノがある。
前に落ちた時に思った愚痴が、悟られてしまったのだろうか。
まぁ、いいか。
この夢だって、いつ覚めるとも分からないんだから。手間が省けたのは、いいことだ。
「よし!」
逡巡もそこそこに、私はさっそく鍵盤の上へと指を置いた。
前回の反省を活かし、まずは簡単な曲から手を付けたいところだけれど、どれから始めたらいいものやら、私の中にはその線引きすらない。
そんな時、流石役に立つのは夢の住人だ。
『まずはクープランの墓から、メヌエットにしよう。譜面自体は簡単だからね。楽譜はもう置いてある』
譜面台の方へと視線を向けてみれば、声の言う通り『クープランの墓』と書かれた薄い本が立てかけてあった。
表紙を捲ると、私は疑うことなく指を押し込んだ。
するとまた、あの時のように、次の音、次の流れが頭のなかに浮かんできて、途切れることなく曲を紡ぐことが出来た。
別れの曲一つだけではない。
ピアノを、弾くことが出来るのだ。
リアルで視た譜面を、この声の主が興すことで、私の脳内にもインプットされる。そんな感じだ。
弾きながら、このレベルなら必死に食らいつかなくても大丈夫そうだと思う。
そう判断するや、
「ねぇ」
私は、鍵盤に指を這わせたままで、声の意識を拾った。
『何かな?』
声は何となく、私の聞きたいことが分かっているような、わざとらしい口調で聞き返す。
「そろそろ教えてくれないかな、君のこと。神様とかじゃないんでしょ?」
『うーん……どうだろうね』
「姿すら見えないし、名前だって知らない。そもそもあるのかも分からない。声以外何ひとつ知らないのに、そんなあなたは私のことなら何でも知ってる。不公平じゃない?」
何度か会って、いや声によるコミュニケーションは取れているものの、その姿も、名前も、香りも、私は何一つ知らない。
それなのにこの人は、私のことは何でも見透かしたようで。そんな態度にも納得がいかない。
『不公平、と来たか。まぁ、そうか。うん、そろそろいいかもね』
何やら含みのある言い方に、また聊かの不満も募ったけれど。
すぐ横の空間がゆらりと揺らめいたかと思うと、そこから光が伸び、やがて人の形になって収束した。
音を重ねる手が止まる。
すらりと細い高身長に中性的な顔つきは、声から得たイメージそのままだ。
「改めて初めまして、かな」
涼し気な目元で見つめられると、少し緊張してしまう。
「え、っと……それが君の姿なの?」
「仮、だけどね。こんな風が一番近いと思ったんだ」
「え、何それ。やっぱり神様か何か?」
「あはは! それでも良いかもね」
無邪気に笑う顔は、子どものように幼い。
「一番近いって、どういうこと?」
「イメージの問題、かな。ほら、僕は夢の住人でしょ? 僕自身、僕がどんなか分からないんだよ」
「え、じゃあ名前は?」
「名前? 名前……うーん、名前か」
少し悩んで、
「陽向、ってことにしておこうかな」
笑って、曖昧に答えた。
「しておこうかな、って何それ。やっぱ神様じゃん」
「もうそれでいいよ。僕は神様だ。何せ、人の夢に勝手に出てきて、勝手に譜面の作成なんかしてるわけだからね」
本当にその通りだ。あっけらかんと言い放つほど、当たり前な話ではない。
「でも、なんで陽向?」
「君の名前に近い方が良いかと思って。君が陽和で、僕が陽向。ほら、並びも丁度いい」
「兄弟姉妹みたいでなんかやだ。神様なんでしょ?」
「そうかな? 僕は結構、気に入ってるんだけど。ダメ?」
「別にダメとは言わないけど……うん、分かった。じゃあ陽向くん、これからよろしく」
「うん。改めてよろしくね、陽和」
差し出される手を取り、私はぎゅっと力を籠める。
握手などというコミュニケーションは、もうしばらく誰とも交わしていなかった。
手から伝わる相手の温もりってこんなだったかな、としみじみ浸る私だったけれど、不用意に長く握り過ぎるものおかしい。
平静を装いつつ、さっと離して話題を戻す。
「続き、弾かなきゃ」
「うん。これからは、この姿で隣から見ているよ。譜面は僕が捲ってあげる。時間の許す内は、僕が君の先生って訳だ。一緒に直して、いい演奏が出来るようにしようね」
「うん! ありがと、陽向くん」
声が聞こえていたって、こんな素敵な舞台で私は一人で弾いている気分だった。
けれどもこれからは、
(なにこれ、すっごい楽しい。隣に人がいるのって、こんなに心強いことだったんだ)
すぐ近くで、同じ曲に関して理解ある相手が見守ってくれている。
速い。遅い。ミスタッチをした。
数々の助言を貰いながら、何曲も、何曲も。
(私、今とっても――)