「陽和、ちゃん……」

 先に沈黙を破ったのは、涼子さんの方だった。
 部屋の入口で、まるで糸の切れた人形のように力なく足元から崩れ、大きく泣き出したのだ。

「ちょっ、涼子さん…⁉」

 思いがけない反応に、私の両手は宙を舞う。

「ピアノ、弾いて……楽譜も置いてある……さっきの、本当に陽和ちゃんが……?」

 両手で覆われた口から放たれる声はくぐもってしまっているけれど、言葉はちゃんと届いてきた。
 視線はずっと、私の方へと向けられている。
 椅子に座っているのは私。ピアノを弾いていたのは私。そう頭の中で確認するように、涼子さんは何度も視線を往復させて、何度も小さく頷いた。
 その度、目元から滴る雫は、頬を伝って零れ落ち、絨毯を濡らしてゆく。

「こんな日が、まさか来るだなんて……」

 どれほど待とうとも、訪れることなんてある筈がなかった。
 学習障害というものは、環境や治療の方法によって、多少なり程度が軽くなることはあっても、治るようなことはない。
 涼子さんだって、お世辞にも若いとは言えない年齢だ。あと二十、三十年生きていられるとしても、私がピアノを弾いている姿なんて見られるとは思っていなかったのだろう。
 私自身、一度はすっかり諦めていたことなのだから。

「涼子さん……」

「あぁ、私は夢でも見ているのかしら……とうとう、幻聴でも聴こえ始めてしまったのかしらね」

「ううん。ちゃんと私の音だったよ。ちゃんと、私が奏でた曲だった。誰かに聴かせるには恥ずかしいくらい、ボロボロでみっともなかったけどね」

 私がそう言うと、涼子さんの目元から溢れる涙が、いっそう強くなった。
 何か喋ろうとするも、言葉にはならない。それくらいに、ただひたすらに涙を流した。
 服がしわくちゃになることも、床を濡らしてしまうことも構わず。
 涙を隠そうとする仕草以外に、意識を向けられないようだった。

『上手だね。綺麗な音だね。お母さんみたいだね』

 幼少の頃、そう言って褒めてくれていた涼子さんだったけれど、私が決別を余儀なくされたあの日ばかりは、絶望したように、目から光が失われてしまった。涼子さんに話して聞かせていた私自身が、これでもかと言うくらいに凹んでいたからだろう。
 私が産まれる以前から、涼子さんはこの家の家政婦だ。私が産まれてからここで過ごした日数分、母だけでなく、涼子さんも私のことを見ているということ。
 私は、涼子さんにとって娘や孫同然の存在なのだと言っていた。私からしても涼子さんは、もう一人の母親のような存在だ。
 そんな私たちだったから、互いにどんな心境でいるのかは、手に取るように分かってしまったのだろう。

「涼子さん」

 そっと、指先で触れるように名前を呼ぶと、涼子さんははっとして顔を上げた。
 その表情を見ただけで、私の方ももう限界だった。椅子から立ち上がると、そのまま涼子さんの元へと駆け寄った。

「私、弾けたよ…!」

 言葉とともに、力の限り強く抱き締めた。
 奇しくもそれは、つい先日とは反対の立場になっていた。

 母が大好きなピアノ。
 私も大好きなピアノ。

 ようやく、そんな母の背中を追いかけられると思っていた矢先に突きつけられた現実に、言葉も出なかったあの日から――夢の中で弾けたのは、あれが夢だったからだと、現実とは切り離して考えていた。
 あの声の言っていることの意味が、よく分からなかったからだ。
 さっきまでだって、読めないし、読むと気持ちが悪くなることも確認した。そのはずだったのに。

 弾けた。現実でも、弾くことが出来たのだ。
 原理も理屈も分からない。でも、弾けた。それだけは確かなことだ。

 夢の中で味わった感覚そのままに、あの曲を、大好きだったあの一曲を、奏でることが出来た。
 本当なら飛んで喜びたいくらいのものだけれど、涼子さんが入って来るまでは、まるで実感がなかった。今ここで起こっていることだとは思えなくて、私は素直に喜ぶことが出来なかったのだ。

「弾けた…! 弾けたよ、涼子さん!」

 一緒になって、まるで自分のことのように喜んで涙を流してくれる相手がいるからこそ、今この時を実感できる。
 ボロボロでも、確かに自分の指で奏でた音なのだと、胸を張れる。

「美那子さんに連絡しなくちゃ……きっと、飛んで喜んでくれることでしょうね」

 涼子さんはそう言うけれど。

「うーん……お母さんには、まだ言わないで」

「どうして? こんなに嬉しいことなのに」

 涼子さんは目を丸くして言った。
 当然だ。普通なら、今すぐにでも連絡を取るべきところだ。

「私の口から、ちゃんと言う。けど、まだまだボロボロだし――せっかくだったら、もっと練習して、うんと上手くなってから度肝を抜いてあげないと。話したらお母さん、きっと『今すぐ聴かせて』なんて言い出しそうだし。サプライズってやつは、盛大であるほど面白いものじゃない?」

「でも……ううん、陽和ちゃんがそう言うなら。どうせなら、うんと素敵な演奏の方が良いものね」

 涼子さんは笑って頷いた。
 今、弾いていて何となく分かった。
 夢の中で弾いた時と今、ボロボロさ、精工さは、同じくらいだった。夢の中で得た実力以上は、きっと出せないんだ。
 確証はない。けれど、そんな気がする。
 十年という長いブランクがあることも理由の一つだとは思うけれど、だったら尚更、練習しないと上手く弾けない道理。
 本当ならそれが普通なんだろうけれど。

「あぁ、早く帰ってこないかしら、美那子さん」

「うん。ほんと、早く会って聴かせてあげたいな」

 涼子さんにはそう返したけれど。
 あと二週間。
 それだけの期間があることが、今は少しばかり嬉しく思えてしまった。