学校が終わって家に帰った私は、次は何か別の楽譜を夢の中に持ち込んでやろうかと思い立ち、例の部屋へと足を運んでいた。
声は確かに言っていた。私が望めば呼んでくれるって。
なら、その言葉通り呼んでもらおうじゃないか。新しい楽譜もお供にいれば、幾らか話のネタにもなるだろう。
「シューマン、リスト、モーツァルト――っと、こっちは何だろ。ピアノ譜よりごちゃごちゃしてる。あっ、オケの楽譜かな。やっぱりすごいなぁ」
母はソロだけでなく、オーケストラと合同で演奏会をすることもあった。その時に使っていたものだろう。
置いてある楽譜の種類は、多岐にわたっていた。私には内容こそ分からないけれど、書いてある数字や年代表のようなものから、時代の幅もかなり広いことがうかがえる。
思い出せる限りでも、母のコンサートに着いて行って聴いて来た曲の数々は、どれも異なる様相を孕んでいるものだったことは覚えている。
「私も……」
夢の中ででも、あんな演奏が出来るだろうか。聴き手に訴えかけるような、誰かを感動させられるような演奏が。
「そう言えば」
昨日見た夢のことを思い出す。
目覚める間際、声が奇妙なことを言っていた。
『この曲は、もう君のものだ。君が弾きたいタイミングで、いつでも力を貸してくれる』
『君の音は、まだ死んじゃいない』
たしかに、そう言っていた。
「私の、もの……死んでないって」
呟いた私の目に、部屋の中心で佇むグランドピアノが映った。
――まさか、と考える。
そんな馬鹿なことあるわけない。そう言って笑いながらも、私は頭の中に浮かんだ想像を確かめるべく、身体はピアノの方へと向いていた。
気が付けばトムソン椅子を引き、そこに腰を降ろして、蓋を開けていた。
あるわけがない。そんなこと、あっていいわけがない。
正気を保とうとするように、私は譜面立てに置いた『練習曲作品十ー三』の楽譜を、ぱらりと捲ってみる。
内容は、やっぱり分からない。
私は大きく溜息を吐いた。そうであったことが嬉しい訳ではないけれど、却って安心出来たからだ。
頭の中がぐらりと揺れる感覚。気持ちが悪くて、飲み込んだ唾を思わず吐き戻しそうになる。
嫌な心地に襲われながらも、私は意を決して、鍵盤の上に指を添えてみた。
「えっ」
思わず声を上げた。
何を考えるでもなく添えた両手は、第一音目、続く第二音目を意識するポジションに置かれていた。この指の配置がそういうことだと理解出来ていたからだ。
それだけではない。
(この感じ……)
弾ける。そう、直感した。
思い至ってからはすぐだった。
その直感に従って、心のまま、思うままに滑り出してみれば、次の音、その次の音と、頭の中に楽譜が浮かび、まるで操られているように進んでゆく。
けれどもそれは、確かに自分でも理解出来ていて――ただただ不思議な感覚だった。
旋律は正しく重なり、響き、一つの曲へと成り立っていた。
出だしからしばらくは、基本は『遅く、しかしはなはだしくなく』と言った意味の指示。テンポは、凡そ五十と少しくらい。
美しくも悲し気なメロディラインのまま、『徐々に緊迫して速く』『すぐに速度を弱めて』『元の速さで』と目まぐるしく変化してゆく。
しばらくそれを繰り返した後にさしかかる中盤は、嵐のような怒涛の展開。速く、強く、しかし雑にならないように、不協和音を連続して鳴らさなければならない。
そんな激しいフレーズも終わると、冒頭と同じ、しかし少しだけ変化のついた音の流れ。優しく、慈しむように、最終フレーズへと差しかかって。
しっとり、囁くように、最後の一音を響かせて、この曲は終わる。
この一連の流れが、頭の中で、確かに組み上がっていた。その指示のまま、奏でることが出来ていた。
伸ばした最後の音を惜しむように、ゆっくり鍵盤から指を離した。少し遅れて、ペダルから足も上げてしまう。
「うそ、ひ、弾けちゃった」
驚きはそのまま、言葉となって溢れ出た。
ミスタッチは多く、表現も出来ていない。
しかし、私は確かに、この一曲を弾けた。
夢の中ではなく、現実のこの世界で。
「ほ、ほんとに、私が……自分の手で……?」
あまりの出来事に、思わず自分の両手に目をやった。
小刻みに震える指先。予想もしなかったことに、身体もびっくりしているらしい。
「はぁー……」
大きく息を吐いて、背もたれに身体を預けると、私は天井を見上げた。
そのまま呆然としていると、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「陽和ちゃん…!」
私の名前を呼ぶ声のする方に目をやる。
そこには、慌てた様子で立ち尽くす、涼子さんの姿があった。
声は確かに言っていた。私が望めば呼んでくれるって。
なら、その言葉通り呼んでもらおうじゃないか。新しい楽譜もお供にいれば、幾らか話のネタにもなるだろう。
「シューマン、リスト、モーツァルト――っと、こっちは何だろ。ピアノ譜よりごちゃごちゃしてる。あっ、オケの楽譜かな。やっぱりすごいなぁ」
母はソロだけでなく、オーケストラと合同で演奏会をすることもあった。その時に使っていたものだろう。
置いてある楽譜の種類は、多岐にわたっていた。私には内容こそ分からないけれど、書いてある数字や年代表のようなものから、時代の幅もかなり広いことがうかがえる。
思い出せる限りでも、母のコンサートに着いて行って聴いて来た曲の数々は、どれも異なる様相を孕んでいるものだったことは覚えている。
「私も……」
夢の中ででも、あんな演奏が出来るだろうか。聴き手に訴えかけるような、誰かを感動させられるような演奏が。
「そう言えば」
昨日見た夢のことを思い出す。
目覚める間際、声が奇妙なことを言っていた。
『この曲は、もう君のものだ。君が弾きたいタイミングで、いつでも力を貸してくれる』
『君の音は、まだ死んじゃいない』
たしかに、そう言っていた。
「私の、もの……死んでないって」
呟いた私の目に、部屋の中心で佇むグランドピアノが映った。
――まさか、と考える。
そんな馬鹿なことあるわけない。そう言って笑いながらも、私は頭の中に浮かんだ想像を確かめるべく、身体はピアノの方へと向いていた。
気が付けばトムソン椅子を引き、そこに腰を降ろして、蓋を開けていた。
あるわけがない。そんなこと、あっていいわけがない。
正気を保とうとするように、私は譜面立てに置いた『練習曲作品十ー三』の楽譜を、ぱらりと捲ってみる。
内容は、やっぱり分からない。
私は大きく溜息を吐いた。そうであったことが嬉しい訳ではないけれど、却って安心出来たからだ。
頭の中がぐらりと揺れる感覚。気持ちが悪くて、飲み込んだ唾を思わず吐き戻しそうになる。
嫌な心地に襲われながらも、私は意を決して、鍵盤の上に指を添えてみた。
「えっ」
思わず声を上げた。
何を考えるでもなく添えた両手は、第一音目、続く第二音目を意識するポジションに置かれていた。この指の配置がそういうことだと理解出来ていたからだ。
それだけではない。
(この感じ……)
弾ける。そう、直感した。
思い至ってからはすぐだった。
その直感に従って、心のまま、思うままに滑り出してみれば、次の音、その次の音と、頭の中に楽譜が浮かび、まるで操られているように進んでゆく。
けれどもそれは、確かに自分でも理解出来ていて――ただただ不思議な感覚だった。
旋律は正しく重なり、響き、一つの曲へと成り立っていた。
出だしからしばらくは、基本は『遅く、しかしはなはだしくなく』と言った意味の指示。テンポは、凡そ五十と少しくらい。
美しくも悲し気なメロディラインのまま、『徐々に緊迫して速く』『すぐに速度を弱めて』『元の速さで』と目まぐるしく変化してゆく。
しばらくそれを繰り返した後にさしかかる中盤は、嵐のような怒涛の展開。速く、強く、しかし雑にならないように、不協和音を連続して鳴らさなければならない。
そんな激しいフレーズも終わると、冒頭と同じ、しかし少しだけ変化のついた音の流れ。優しく、慈しむように、最終フレーズへと差しかかって。
しっとり、囁くように、最後の一音を響かせて、この曲は終わる。
この一連の流れが、頭の中で、確かに組み上がっていた。その指示のまま、奏でることが出来ていた。
伸ばした最後の音を惜しむように、ゆっくり鍵盤から指を離した。少し遅れて、ペダルから足も上げてしまう。
「うそ、ひ、弾けちゃった」
驚きはそのまま、言葉となって溢れ出た。
ミスタッチは多く、表現も出来ていない。
しかし、私は確かに、この一曲を弾けた。
夢の中ではなく、現実のこの世界で。
「ほ、ほんとに、私が……自分の手で……?」
あまりの出来事に、思わず自分の両手に目をやった。
小刻みに震える指先。予想もしなかったことに、身体もびっくりしているらしい。
「はぁー……」
大きく息を吐いて、背もたれに身体を預けると、私は天井を見上げた。
そのまま呆然としていると、部屋の扉が勢いよく開かれた。
「陽和ちゃん…!」
私の名前を呼ぶ声のする方に目をやる。
そこには、慌てた様子で立ち尽くす、涼子さんの姿があった。