ゆっくりと目を開く。
 細く開いた瞳が、部屋を後にしようとしている涼子さんの姿を捉える。

「涼子さん……」

 声をかけると立ち止まって、はっとしたようにこちらへ振り向いた。

「あら、ごめんなさい。起こしちゃったかしら」

 涼子さんはすぐ目の前まで戻って来ると、しゃがんで私の顔を覗き込んだ。

「具合はどう?」

「うん、大丈夫。あと、謝るのは私の方かも。ごめんね、夕飯だよって声は聞こえてたんだけど」

「仕方ないわよ。いつ来るとも知れないものなんだから。それより、無理はしなくていいから、ゆっくり降りて来てね」

「……うん」

 涼子さんの柔和な声に頷く。
 そこでようやく、今私はピアノの置いてある部屋にいて、その端の方にあるソファに背中を預けられ、ふわりと良い香りのするブランケットがかけられているんだと理解した。
 私の姿を目にした涼子さんが介抱してくれたあとだ。

「今、何時?」

 寝ぼけ眼を擦りながら、私は尋ねた。起き抜けの視界はぼやけ、部屋も薄暗くされていた為、うまく時計が見えなかった。

「八時半よ。だから、倒れてからは二時間くらいかしら。六時を回った辺りで陽和ちゃんに声をかけた筈だから。今は、ちょっと様子を見に来たの」

「そっか」

 時間にしてみれば、それほど長く落ちていた訳ではなかったらしい。けれどもやっぱり、せっかく出来立ての夕飯を食べられていない申し訳なさはあった。

「それにしても驚いたわ。お部屋に行っても姿がないから、もしかしたらと思って見に来てみたら、こんなところにいるんだもの。それに、この楽譜も」

 そう言いながら涼子さんは、私のすぐ傍らに落ちていた楽譜を拾い上げると、少しだけ何か考えてから「何かあったのね?」と尋ねて来た。
 短く、それでいて適格な問いかけに、私は素直に頷いた。
 ブランケットを口元まで巻いて、足を三角に折って、そこに顎を乗せると、私はついさっきまで視ていた夢の中での出来事に、思いを巡らせる。

「夢、見てたんだ」

「あら、また夢のお話ね」

「この間の続き、なのかな。凄く素敵な夢だった。幻想的な風景が広がっててね、とっても広いその空間の中に、ぽつりと一台のグランドピアノが置いてあって」

 私は首だけで、部屋の中心に堂々と構えるグランドピアノの方を見る。

「それでね、その曲を弾いてたの」

「その曲って、これ?」

「うん。別れの曲――あのコンサートの舞台で、お母さんが弾いてた曲だよ。涼子さんと一緒に観に行った」

「ええ。覚えてるわ。あの舞台での美那子さんは、いつよりも輝いて見えたもの」

 組んだ腕で、ぎゅっと膝を抱き寄せる。

「小さい頃、楽譜だけが読めない学習障害だって診断されて、私は絶望した。今となっては他に趣味も出来たから、結果良かったは良かったんだけど、あの時、ピアノは初めてお母さんに褒めてもらえたものだったから。プロのお母さんにだよ」

「ええ。そうだったわね」

 小さく応えながら、涼子さんは頷いた。

「でもさ……夢の中で、不思議な声に『ピアノが嫌い?』って尋ねられた時、私は頷かなかった。ううん、頷けなかったの。いくら嫌いになろうとしても、嫌いになりきれなかったみたい。今でも、楽譜を見ると気持ち悪くなるし、毎回違った旋律に聞こえて鳥肌が立つ。だから、なるべく見たくはないって思う。でも……でもね」

 私の声は、少し震え始めていた。嗚咽のようなものも混ざって、上手く声が出せない。
 それでも、何とか絞り出す。
 涼子さんには伝えないと、と頑張って口を動かす。

「私……ピアノが大好き」

 本当は、忘れてなんていなかった気持ち。
 嫌いだ、なんて、ただピアノから離れる為の口実のようなものだった。本当はずっと、好きで好きで仕方がなかった。ただ、自分で心の奥底に閉じ込めて鍵をかけて、眠らせていただけだ。

「夢の中で、たった一度だけでも、私はピアノに触れた。一番大好きな曲が弾けて、とっても幸せだった……凄く、嬉しかったの……」

「うん」

 頷く涼子さんの声は、聖母のように優しく、温かい。

「弾きたい、弾きたいよ……こんなに好きなのに……お母さんともっと、もっともっとピアノのこと話したいのに……一緒に練習したり、一緒の舞台に立ったり、出来ること、沢山あるはずなのに……なんで……」

 どうしても、それだけは叶わない。
 夢の中に入る前、そして入ってから、痛烈に思い知らされた。
 読めば気持ちが悪くなるし、その内容だってぐちゃぐちゃだ。悔しくて、悲しくて、憤りすらも感じた。

「弾きたい…………会いたいよ……お母さん」

 母の帰国までは、まだ二週間以上ある。
 ひと月にも満たない出張。ただの、出張なのに。
 こんなにも会いたくなってしまうのはきっと、夢の中でピアノに触れてしまったからだ。

「陽和ちゃん……」

 どうしようもなく苦しむ私の身体を、涼子さんは優しく抱き寄せてくれた。
 家政婦さんなのに、昔から涼子さんには、母のような温もりと安心感を覚える。
 十六にもなって、大きな声まで出して、泣いてしまうほどに。