「はぁ、はぁ、はぁ……」

 その一曲を弾き終えただけで、私は肩で息をするくらいの疲れを感じていた。
 余分に入る肩の力、無駄な動き、音圧のムラ。ブランクは、しっかりと身体へと跳ね返って来ていた。

「ひ、弾けた……弾けた!」

 けれど、そんなこと以上に、大事なこともあった。

「弾けた! ねぇ聴いてた? 見てた? 弾けたよ、私弾けたんだよ!」

 未だ誰とも知らない声にうったえる。
 演奏中、ずっと気配のようなものは感じていた。すぐ傍で、私ががむしゃらに弾いているのを、ただ見守ってくれているような、そんな心地がしていた。
 だから私も、こうして語りかけているのだろう。

『うん、聴いていたよ。まだまだ改善の余地はありそうだけど、今はそんなこと、どうでもいいよね。とても素直で、素敵な音だった』

「あ、はは、弾けた。なんだ、簡単じゃん…!」

 恐れていたのが馬鹿みたいに、私は、この上ない達成感を感じていた。
 同時に、言いようのない後悔も、同じくらい募った。
 もしもあの時、何としてもピアノから離れないと強い気持ちを持っていたなら。
 気持ちが悪くとも、例え読めなくとも、なにくそと噛り付いて、どうにかして弾く為の道を模索していたならば。
 たらればなんて考えたって意味はないし、過去に戻ることだって出来ないことは分かっているけれど。
 今頃ああなっていただろうな、こんなことも出来ていただろうな、と、どうしてもそんなことを考えてしまう。

『大丈夫。今からでも遅くはない』

 また声が、私の心を読んだみたいに言う。

『この曲は、もう君のものだ。君が弾きたいタイミングで、いつでも力を貸してくれる』

「弾けるのが夢の中だけだからって、向こうでもメンタルの支えになってくれるってこと?」

『あははっ! まぁ、意味は同じかな。そんなところだ』

 声は笑って言う。

『そろそろ目を覚ます時間かな』

 そんな一言に、私は頷きを返す。
 満足過ぎる時間だったために忘れていたけれど、今現実の方では、涼子さんにうんと迷惑をかけている頃合いだ。

「ねぇ、また遊びに来たいって思ってもいいの?」

『勿論さ。陽和がそれを望むなら、僕はいつだって歓迎するよ』

 声の調子は明るく、優しい。言葉の通り、歓迎してくれているんだって分かる。

『心配しないで、陽和。君の音は、まだ死んじゃいない』