また、あの景色が広がっていた。
 夢をみている、みられているということは、頭を強く打ったり、最悪の事態にはなっていないのだろうと思う。
 それなら。

「ごめんね、涼子さん」

 独り言ちて、私は歩き出した。
 せっかく、夕飯の支度をして、呼びにさえ来てくれたというのに。
 その誘いに参加出来ないどころか、倒れてしまっている私の身体の介抱まで任せてしまう形だ。二人で決めたことだけれど、酷く心が痛む。
 とは言え、これは奇しくも、願っていた展開だ。不幸中の幸い、なんて言うと、涼子さんには尚悪いけれど。
 目覚めた場所は、またあのソファの上。

「ピアノまでは結構距離あるのに。もうちょっと親切なところで起こしてくれないものかなぁ」

 夢であるこの世界へと文句を言ったところで、栓のないことではあるけれど。
 いつ覚めるとも分からない以上、楽を出来るに越したことはないから、溜息だって零れてしまうというものだ。心の在り方次第で何でも出来ると言うのなら、まずそこをなんとかして欲しい。

 フラフラと歩き進めて行くと、またあのピアノが見えて来た。
 よくよく見るとそれは、とても幻想的な佇まいをしていた。こんな世界にあって尚、そう思える程に。
 私の身長の半分程盛り上がった壇上に置かれたピアノは、舞台のように上方から降り注ぐ光も手伝って、まるでそこに座るものを讃えるかのように眩しい。
 案内人代わりのあの声が出てこないことに聊かの不安を抱きながらも、私は壇上へと上がり、トムソン椅子に腰を落ち着けた。

 座ったはいいがどうしよう。
 一抹の不安を抱きながらも、私は何となく蓋に手を掛けた。

「えっ、これって」

 すぐ目の前の楽譜立てに、一冊の薄い本を見つけた。表紙には『練習曲十ー三』と書かれている。

「なんで……どうして?」

 思わず口に出てしまう。答えは、すぐに示された。

『どう? 驚いた?』

 あの声が響いた。すぐ横の方からだ。

「あ、当たり前だよ! でも、これ、どうして?」

『言った筈だよ、夢は心の在り方次第だって。その本は、陽和が望んだ結果生まれたものさ。曖昧でも何となくでもなく、本当にそうありたいと願ったから、ね』

「便利過ぎない、その言葉?」

『夢だからね。何だってありさ』

 声はそう言うけれど。
 確かに、夢の中でも良いからとそれを望んだのは、他でもない私自身だ。

『さあ、指を置いてごらん。見ているだけなんて、つまらないだろう?』

「弾ける弾けるって君は言うけどさ。私、改めて向こうでは全然理解出来ないって理解しただけだったんだけど?」

『大丈夫。鍵盤もペダルも、ここにあるものなら全て、陽和の味方だから』

「また曖昧な言い方。それ、どうにかなんないかな」

 悪態をつきながらも、私は促されるまま、蓋を開けて指を置いた。
 ただ、手元は迷うことなく、この曲の第一音目のポジションへと動いた。

『良いかい、陽和。この曲を奏でる上で大切なのは、他の練習曲とは違った意味合いを持つという点だ。技巧だけでなく、フレーズ毎の表現力、ペダルに頼らないレガートでの雰囲気作りがいかに出来るか。全ての曲に通ずる話ではあるけれど、この曲は殊更、魅せ方が重要になってくる。ただの練習曲ではない、ということだ』

「ちょっ、待って、急に難しいこと言わないでよ…! 第一、魅せ方って何、あのよく聞く『歌いかた』ってやつ?」

『そう、それだ』

「いや合ってるのね!」

 思わず勢いで突っ込んでしまったではないか。

『要はただ弾くのではなく、感情的に、聴き手の心に訴えかける演奏が出来るか否か、だ』

「弾いたことない人間にするアドバイスなのかな、それ」

『大丈夫。君は元々、そういった方面に強かったじゃないか』

「そういったって?」

『即興演奏だよ。得意だったでしょ?』

 声はきっぱりと言い放つ。

『決まったフレーズを弾かないのは寧ろ、感情から生まれ出て来るものだ。心のまま、思ったままに、自由な表現が出来ているという事実に他ならない』

「え、でも、そう言ったって楽譜の指示はある訳でしょ?」

『楽譜なんて、ただの敷かれたレールさ。教本、と言ったって良い。翻訳者、楽譜におこした人物によって、差異が生まれることだってある。同じ曲でも、演奏者によって表現が全く異なるのがいい例さ』

「指示は無視しないように、でも自分の弾き方もしろって? 無茶苦茶言ってる自覚ある?」

 加えて言うならこの曲は、ショパン本人が『一生の内、二度とこんなに美しい旋律を見つけることは出来ないだろう』とまで口にしていた程の大作だ。
 そんな言葉は同時に、あの日見た母の雄姿までも思い起こさせて、足が竦んでしまうというのに。

(でも……弾きたいって思ったんだ。私が。そんな言葉を知っていながら、この楽譜を手に取って、読んだのは私……)

 そうありたい、そうなりたいと願ったから、私はこの楽譜を手にする為に、あの部屋を訪れた。
 十年間、拒み続けていた筈の、あの部屋を。

『陽和ならきっと大丈夫。出来るさ。思うまま、心のままに、素直な音を出してごらん』

 声に促されて改めて、私は離しかけていた指を、再び鍵盤の上に添えた。
 そっと確かめるように、音のしないギリギリの深さまで、一旦指を押し込んでみる。
 くっ、と木の動く音がした。
 見た目はガラスなのに、本物のグランドピアノのようだ。長らく離れていた、久しく味わっていなかった感覚。
忘れかけていた熱。
 もう、とっくの昔に、この手から零れ落ちたものだと思っていた。

(そんなわけ、ないのにね)

 小さく笑うと、私は最初の一音を、長く、長く響かせた。
 本来ならここは、そうのっぺりと弾くところではない。この後に待っている同じフレーズを際立たせる為に、弱く小さくではあるけれど、しっかりとリズムに乗らなければいけないのに。

(楽譜、完全に無視してる。でも、何で? どうして、無視してるって分かるんだろ)

 不思議と次の音が分かる。楽譜が分かる。
 まるで自分の指でないみたいに、滑らかに、軽やかに、鍵盤の上を滑ってゆく。
 けれどこれは紛れもなく自分の指で、感覚だってしっかりとある。
 夢であることを、忘れてしまいそうになる。
 本当のことを言うと、私は少しだけ怖かった。夢だからと希望は持ちつつも、一度は離れて、長く時間も経っていて、完全に嫌いになろうとさえ思っていた。
 そんな自分に、例え夢であっても奏でられるのか、奏でても良いのかと、心の中で何度も自問した。

(なんだ。たった、これだけのことだったんだ)

 全ては、気持ち一つ。夢の中の話ではない。
 弾きたい――ただ心で強く願えば、それだけで世界は変わる。