一時間と少し。
 内容と呼べるような内容は、もちろん私の中にはない。
 私に於いて楽譜とは、自分で思ったものが原曲のそれとは程遠く、頭の中には、記憶の中で美しい母の演奏とは全く異なる旋律が浮かんでいる。

 その差異こそが、気持ち悪さの理由だ。

 知っている曲であるからこそ、その曲だと分かって読んだ楽譜でまったく違う旋律を得ると、気持ちが悪くなってしまう。
 ただ、今回ばかりは、何とか吐き出しそうになるのを我慢して、二回、三回と、何度も読み返した。
 読む度、それは全く違う旋律に聞こえて、尚気持ちが悪くなったけれど。

「よ、読めた……うぇ、やっぱり気持ち悪いな……」
 音符、記号、小節数に至るまで、全て細かくじっくりと、目や脳に焼き付けるように、何一つ洩らすことなく読んだ。
 心身への負担は、以前までの比ではなかった。
 ただ、目を通すことは出来た。
 相変わらず内容は分からないけれど、読むことが出来た。
 これがあの夢の中で、どう影響してくるのかは分からない。どう変わって来るのか、予想も出来ない。

「読めた……後は、あの世界で……」

 いつ落ちるとも知れない夢の世界に、思いを馳せる。
 そんな折、部屋の外から涼子さんの声が響いた。夕食の支度が出来た、と呼んでいるようだ。
 私が自室にいると思っているのか、声は遠い。

「はーい、すぐに行――」

 楽譜を閉じ、立ち上がった矢先の出来事だった。

(あ、これ――)

 瞬間、世界は真っ白になる。