私のお仕事といえば、たまに来る貸し出し希望の生徒のカードを機械で読み取るくらいの、楽ちんなお仕事だ。だから、図書委員になったんだけど。
と、
「あれ……?」
前の入り口の横にあるカウンターへ向かえば、見覚えのあるゆるふわの黒髪に長めの前髪。いつもの黒縁眼鏡をかけ、目元を隠した男子生徒がひとり。
「柾先輩、こんにちは」
私はその人物に声をかける。
「桃さん、こんにちは」
カウンターの向こう側から、抑揚なく私の問いに返事をしたその人は、私より1学年上の3年生。図書委員長の空野 柾先輩。
「柾先輩、今日委員の当番私だけのはずですよ?」
カウンターに駆け寄り椅子に座る先輩を見下ろす。
そう、今日の当番は私ひとりのはずなのにどうしてカウンターに?と首を傾げると、くいっと眼鏡を上げながらそっぽを向いて私と視線を合わせない柾先輩。
「き、今日から桃さんの」
「私の?」
「今日からあなたの勉強をみることになりました」
勉強をみる?勉強?補習……?
と、いうことは……?
「もしかして柾先輩が補習してくれるんですか?」
「……はい」
「わー、先生じゃなくてよかったです!」
常に成績トップの柾先輩。正直とても嬉しい!
先生と補習だったら息が詰まってどうしようかと思っていたけど、先輩でよかった。
「嬉しい……?」
「はい!とっても!でもすみません、先輩の放課後の時間をいただいてしまって……」
「いえ、全然。では、はじめましょうか」
「よろしくお願いします!」
こうして、この日から柾先輩との放課後補習がはじまった。
私は喜んでいたけれど、
この時の柾先輩の心の中をまだ知らなかった。
「嬉しい……?
(え、嬉しい!?嬉しいって、言った?いま、桃さんが僕で嬉しいって言った!?!?神様ありがとうございますうぅぅぅ!!!)」
「はい!とっても!でもすみません、先輩の放課後の時間をいただいてしまって……」
「いえ、全然。では、はじめましょうか
(むしろこちらこそ、ありがとう御座いますうぅぅぅ!!!)」
「よろしくお願いします!」
「(え、ちょ、あーーー!!今日も控えめにいって桃さんが可愛い)」
放課後の図書室。
只今、カウンター席に生徒ふたり。以上。
要するに、私たちしかいない。
「先輩、今日数学の授業で当たったとき、昨日教えてもらった公式を使って問題解けたんです!」
「それはよかったです」
「先生に褒められちゃいました!なので柾先輩のおかげです!って言っておきました」
「では、今日も数学頑張りましょう」
「はい!」
「(可愛い、僕に笑ってくれた!拝みたい。拝みたい。拝みたい)」
先輩は淡々と答えると数学の問題集を開く。
昨日はあのあと、先輩に数学を教えてもらった。
今日の授業でたまたま教わった数式を使って解く問題に当たるというミラクル。
『(あ、これ昨日、柾先輩に教わったやつ)』
『おぉ!立河、正解だ!先生は嬉しいぞ!』
ホワイトボードに数式を書けば、満足気に頷きながら、とっても嬉しそうな先生。
この人は昨日私に補習を言い渡してきた担任だ。担当教科は数学である。
『さっそく、補習の成果か?』
『はい!昨日、柾先輩に教わりました!』
『いやー、空野にお願いしてよかった!これからも楽しみだ!』
るんるんな先生に褒められ、もちろん私も嫌な気はしない。私って実は頭いい?なんて、一瞬錯覚して。
頭がいいのは100%柾先輩なのに。
でも、解けたのが素直に嬉しかった。分かったら勉強って楽しいのでは?と思ったのと、私のようなバカにでも、分かるように教えてくれる柾先輩は本当にすごいと思った。
嫌だと思っていた補習が楽しみになっていて、ポニーテールを揺らしながら、今日は図書室までの足取りが軽かった。
「この問題はこの公式を使ってください」
「やってみます!」
隣で柾先輩はたくさんの公式が書いてあるノートを開き、その中のひとつに赤ペンで丸をつけた。
私が分かりやすいようにとわざわざ公式ノートを作ってきてくれたらしい。
チラッと横目で柾先輩を見る。柾先輩は見た目クール、中身もクール。纏っている雰囲気がとってもかっこいい。
私の周りでは「口数が少なくて怖い」という人もいるけれど、私は同じ委員会で面識があるのでそう思ったことはない。
どちらかというと、聞いたらなんでも教えてくれる優しい人だ。
今だってこうして、放課後の自分の時間を潰してまで、私に勉強を教えてくれている。
柾先輩の優しさがもっとみんなに伝わればいいのに。
そんなことを思いながら視線を先輩から問題集に戻し、言われた公式に数字をはめていく。
にしても、広い教室に小さな暖房機がひとつ。
人口密度スカスカのこの部屋はとにかく寒い。
ペンを置いてかじかむ手のひらを擦り合わせる。
はぁーっと息を吹きかけてみるものの気休め程度。手がかじかんで上手く文字が書けない。
「あの、これよかったら使ってください」
「え、」
そんな私を見かねてか、ガサゴソとブレザーのポケットから先輩は使い捨てカイロを取り出した。
「そんな、寒いので先輩が使ってください!」
「僕は体温高いので大丈夫です」
チラッと前髪と眼鏡の隙間から見えた先輩の目が優しく微笑んでいるように見えた。というか、綺麗なぱっちり二重で羨ましい。
「どうぞ使ってください」
「お言葉に甘えてお借りします。ありがとうございます」
先輩の手からカイロを受け取ろうとして、掴むのに失敗。先輩が作ってくれたノートの上にボトッと落ちた。
「すみません」
「すみません」
それを拾おうと手を伸ばした。そのタイミングが先輩と全く一緒で、カイロを掴んだ先輩の手を握りしめてしまった。
あまりにも、温かくてびっくりする。
「えっ/&_#@あ、」
「あ、私の手冷たかったですよね、すみません」
「………」
冷たい私の手で触れてしまって申し訳ない。そっと手を離せば私の手のひらには先輩の温かい体温が残っている。
さっきの先輩の言葉を思い出した。
“僕は体温高いので大丈夫です”
「先輩、本当に体温高いですね。先輩の手がカイロみたいです」
私が言うと、ぱっとカイロを私の目の前に置いた先輩は何度も何度も眼鏡を上げる仕草をする。
あれ?なんか耳や首が赤い?もしかして、熱でもある?手が温かかったのもそのせい……?
「先輩、首真っ赤ですけど大丈夫ですか?もしかして熱!?」
「いや、っ!」
すっと先輩の首筋に手を伸ばせば、ビクッと震える。先輩が急に大きく動いたことで私の伸ばした手が先輩の眼鏡のレンズに当たってしまった。