耳元で淡く低い声がした。直はまつ毛を震わせて、そっと顔をむける。
「ゆっくり、息をはいて」
 直は苦しさのあまり無意識に彼の手を強く握った。握られた手を、彼はじろりと見つめ返した。
 
 

「ねぇ、君。本当に保健室いかなくていいの?」
 空き教室で、直は死んだ魚のような目をしていた。ミネラルウォーターのペットボトルを眺めている。
「相当つらそうだったけど。なんなら養護の先生よんでくるよ」
「……大丈夫です。もう。慣れたから」
「慣れた。吐き気のこと?」
 直は「そうだ」と首をたてに動かした。
「君は、なぜ吐き気をもよおすの?」
「……わかりません。キスをされるといつも気分が悪くなる」
「つまり、君はキスをしたくないの?」
「……わかりません」
「自分のことだろ。したいか、したくないか。答えはシンプルだ」
「じゃぁ、したくない」
「つまり、君はキスをされるのが嫌いで、されるとあまりの嫌悪感から健康を害してしまうと。そのことに慣れてるってこと?」
 気力の抜けた目元で、プリズムのように光るペットボトルのラベルを見つめながら、直は「そうです」とうなずいた。