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水かかってびしょ濡れになってしまい、私たちもすぐにカフェを後にした。
家が近かった友達がシャワーを貸してくれ、着替えも用意してくれたことで、体が冷え切らずに済んだ。
心配されたけれど、何も聞かれることがなくて救われた。
だって、私もカフェで会った女性が誰なのかわからないからだ。
結局その後の予定が狂ってしまい、友達の家で過ごすことになった。
楽しい一日になるはずだったのに、友達と話している時も別のことを考えてしまい、気を遣わせてしまったと思う。
また遊ぼうねと約束して、私は友達と別れた。
朔夜さんとの待ち合わせ場所まで歩いていると、昨日遊んだミカから電話がかかってきた。
迷わず電話に出ると、明るい声が耳に届く。
『あっ、乙葉! 昨日ぶり!』
「昨日ぶりだね。どうしたの?」
『そうそう! 昨日さ、乙葉とイケメンが一緒にいるのを見かけたって話をしたでしょ?』
「うん」
『それで思い出したことがあって……そのイケメンが、乙葉のことを“カンナ”って呼んでいたの!』
「……カン、ナ」
『だから乙葉に似た別人かなと思ったんだけど、やっぱり心当たりない?』
「多分違う人かな……ごめんね、わざわざ連絡してくれてありがとう」
それ以上話す気にはなれなくて、電話を切る。
ミカが見たのは私に似た“カンナ”と呼ばれる人。
見間違いかもと言っていたけれど、確信に近い言い方だった。
それに、今日カフェで会った綺麗な女性も、きっと私を“カンナ”だと思っていた。
朔夜さんだって、初めて会った時に私を見るなり“カンナ”と呼んで……。
「……はあ」
頭の中がぐちゃぐちゃで、うまく考えがまとまらない。
それでも、ひとつだけわかるのは……“カンナ”が私である可能性が高いということだ。
だとしたらどうして私は“カンナ”の記憶が一切ないの?
「乙葉」
その声に、ハッと我に返る。
顔をあげると、待ち合わせ場所にはすでに朔夜さんの姿があった。
「今日は何があったんだ?」
「……っ」
優しい声で尋ねられ、思わず泣きそうになった。
今の私、絶対にひどい顔している。
それを隠すように、私は俯き加減で朔夜さんに近づき、彼の胸元にそっと額をくっつけた。
無性に朔夜さんに抱きしめて欲しくて……。
すぐに察してくれた朔夜さんは、私を抱きしめてくれた。
ああ、朔夜さんの腕の中はすごく安心する。
やるべきこと、考えることはたくさんあるけれど、今は少し逃げていたい。
「……よしっ、元気出ました! すみません、急に甘えちゃって」
しばらくして、笑える余裕ができた私は朔夜さんから離れる。
いつまでも甘えるわけにはいかないのだ。
「……ん、じゃあ帰るか」
少し間が空いたけれど、朔夜さんはふっと笑みを浮かべてそう言った。
朔夜さんの家に帰る……って、なんかまだ慣れないな。
今日も朔夜さんのバイクの後ろに乗って、彼の服を掴む。
ねえ朔夜さん、“カンナ”ってどんな人だった?
心の中では何度でもその言葉を呟けるのに、口にはできない。
「おかえり」
家に着くと、朔夜さんは今日も私を見てそう言った。
快く出迎えられている気がして、嬉しいと同時にまた泣きたくなる。
この無性に泣きたくなるのってどうしてだろう。
今日色々あったのもあり、余計にその温かさに触れて泣きそうになったのかもしれない。
「……ただいま、朔夜さん」
涙を堪え、私も微笑みながら返す。
朔夜さんは一瞬驚いたように目を見張ったけれど、すぐに笑みを浮かべた。
私を気遣ってか、朔夜さんは今日のことについて触れてこようとしない。
考えがまとまっていないため、ありがたい反面、私には興味がないのだと思ってしまい胸が痛む。
私ってわがままだな……聞かれても、きっと答えられないのに。今日の女性について、“カンナ”について聞く勇気などないのに。
それでも、もっと踏み込んでほしいと思ってしまう。
今でも十分尽くしてくれているのに、徐々に自分が欲張りになっている気がして、少し怖くなった。
翌朝。
私はいつもより早く目が覚めた。
いつも先に起きていた朔夜さんは、今日はまだ眠っていて、彼の綺麗な寝顔はずっと見ていられそうだ。
普段は私と一歳差とは思えない大人の男性らしく、危険な色気も漂わせているけれど、寝ている姿は年相応で、少し幼さすらも感じられた。
「……ふふ、かわいい」
思わず頬をつんつんしたくなったけれど、起こしたら悪いなと我慢する。
「そうだ」
いつも朔夜さんが色々してくれているから、今日は私が全部しよう。
まずはキッチンを借りて朝ごはんの準備から始めた。
普段から料理をよくするため、得意な方だ。
せっかくだから朔夜さんに喜んで欲しいなと思い、手の込んだものを作っていると……ガタッと、近くで大きな物音がして顔をあげる。
そこには服や髪が寝起きで乱れたまま、焦ったように私を見つめる朔夜さんの姿があった。
貴重な寝起きの朔夜さん……!
完璧なイメージが強かったため、少し乱れている姿は新鮮で、思わずキュンとしてしまう。
「朔夜さん、おはようございます!」
「……ああ」
朔夜さんは安心したように息を吐いた後、まるで当然のように私をギュッと抱きしめる。
どうしたのだろうと思ったけれど、私を抱きしめる朔夜さんの手が微かに震えていることに気がついた。
どうやら、起きたら私がいなかったことで不安にさせてしまったようだ。
私は勝手に消えてしまうような“カンナ”ではないのに。
「見てください、朔夜さん! まだ途中ですが、これが今日の朝ごはんです!」
負の感情を振り払って、私らしく朔夜さんに声をかける。
ねえ、気づいて朔夜さん。私は“カンナ”ではなく“乙葉”だって。全くの別人だって。
「いつもお世話になってばかりでお礼がしたかったので、張り切って作っちゃいました! あ、でも勝手にキッチン借りてすみません……」
「……料理、得意なのか?」
「はい! 家でもよく作るので、味には自信があります!」
「そうか、それは楽しみだな」
やっと朔夜さんが微笑んでくれる。
私の胸を高鳴らせるその笑みを見て、今は安心してしまう自分がいた。
「もうすぐで完成なので、座って待っててください!」
「いい、俺も手伝う。食器の場所とかわからなくて不便だろうし」
朔夜さんはようやく私から離れ、一緒に朝ごはんの準備を手伝ってくれた。
なんだか変な感じ……こうして誰かと朝ごはんを作るだなんて。
お母さん朝早くから仕事で、いつもひとりで作っていたから余計にそう感じてしまうのだろう。
「ありがとうございます、手伝ってくれて助かりました」
「……どういたしまして。まあお礼を言うのは俺の方だけどな。ありがとう」
私がお礼を言うと、朔夜さんは目を丸くして少し間が空いた後、逆に感謝の意を伝えてくれた。
朝ごはんを作り終え、私たちは一緒に食べる。
「今日はゆっくりなんだな」
「はい。夜ご飯だけ友達と食べる予定で……」
「それまで家でゆっくりするといい。そろそろ疲れが溜まっているだろうから」
うっ、まさにその通りだ。
こっちに帰省してから休む間もなく遊んでいる上に、考えることも多くて疲労が蓄積していた。
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えてゆっくりしますね」
とはいえ、何かしら家事をやらせて欲しいのだけれど……さすがに何もせずに部屋でのんびり過ごすのは気が引ける。
「そういえば、朔夜さんは今日予定とかってあるんですか?」
「特に何もない。今日は俺も家にいるつもりだ」
多分、私を一人にしないために合わせてくれたのだろう。
怖そうに見えるけれど、実際はとても優しくて温かい人だから。
「初めて二人で過ごせるんですね! せっかくなので何かしましょうか! ゲームとか映画鑑賞とか……何かリクエストはありますか?」
「俺は乙葉のしたいことがいい」
優しい眼差しを向けられ、思わずドキッとしてしまう。
愛おしさの含まれたその視線は、いつまで経っても慣れそうにない。
「うーん、そう言われると悩みますね……」
「一つに絞る必要なんてない。これから二人の時間なんていくらでもあるからな」
二人の時間……朔夜さんの描く未来に、私がいるようで嬉しい。
それも、私のしたいことに付き合ってくれる。
乙葉として受け入れているような気がして、顔が綻んだ。
その日は夜になるまでテレビを観たり、ゲームをしたり……と、朔夜さんとのんびりとした一日を送っていた。
「はあ〜、こんなにゆっくりしたの久しぶりな気がします」
「そうだな」
ソファで私の隣に座る朔夜さんに目を向けると、穏やかな表情をしていた。
そんな朔夜さんが見られて安心する。
今この瞬間が少しでも朔夜さんにとって安らぎの時間になっていたらいいな。
「……何も、聞かないんだな」
心地いい沈黙が流れていたかと思うと、ボソッと朔夜さんが呟いた。
独り言のような言い方だったけれど、私ははっきりとその言葉を拾う。
それは“カンナ”のことや朔夜さんに対して、という意味だろう。
最初は気になっていたけれど、聞く勇気がなかった。でも今なら聞けそうな気がする。むしろチャンスだろう。
けれど私は……。
「無理に話す必要なんてありません」
何も聞かないことにした。
朔夜さんが過去を思い出すことで苦しませてしまうかもしれない。
それに乙葉として見てほしい私にとって、“カンナ”の話を聞くと変に意識してしまうかもしれず、それも少し怖かった。
朔夜さんの興味を惹きたくて、“カンナ”に似せるなんてこと絶対にしたくない。私は私らしくいたい。
“カンナ”の正体については、私なりに暴くことに決めた。
「あっ、でも話したくなったらいつでも聞くんで話してくださいね! 溜め込んで苦しくなるより、吐き出した方が少しは楽になると思うので! 無理はしないでください」
私の言葉に朔夜さんは目を丸くする。
何か変なことでも言ったかと不安になったけれど、すぐに優しく微笑んでくれた。