この約束があったから、僕はこれまでバハムートの姿に『変化』したことはなかった。
だってバハムートに『変化』したら、僕は約束を破ることになる。
約束を破り、契りを違えれば…待っているのは裁きだけ。
そう、僕に相応しい…死だけだ。
覚悟は出来ている。
だから、逃げも隠れもしなかった。
…ただ一つ、後悔があるとしたら。
僕は、君達と一緒に生きる明るい未来を…。
スクルトが予言した、明るくて幸福な未来を。
もっと長く、一緒に見ていたかった。
でも…それは贅沢な悩みだね。
「…神竜族の長よ」
僕は自ら、神竜バハムートに語りかけた。
「契りを違えたのは、この僕の罪。僕一人だけが背負う責任…。だから、僕の周りにいた人々のことは、許してあげて欲しい」
羽久・グラスフィアやシルナ・エインリー達は、僕がバハムートに『変化』するところを目撃した。
禁忌の『変化』を目撃した彼らも、一緒に始末されてしまう恐れがあった。
そんなことはさせない。
罪を被るなら、それは僕だけが背負うべき役目だ。
「彼らは口が固く、分別もある。始末しなくても、神竜族の…恥を広めるようなことはしないでしょう」
「…」
「…だから、どうか…裁きを受けるのは、この僕だけに…」
僕は両手を合わせ、跪くようにして乞い願った。
何としても、これ以上彼らに火の粉が降り注ぐのを止めなければならなかった。
それさえ約束してもらえるなら、僕はどれほど酷い裁きを受けても構わない。
ずたずたに引き裂かれて、骸を残さずにこの世から消えてしまっても構わないから。
だから、どうか。
僕に優しくしてくれたあの人達が、罪の咎めを受けないように。
…すると。
僕があまりに、必死に懇願するものだから、だろうか。
それとも…元々、契りを違えた僕を始末することにしか、興味がなかったからだろうか。
「…良かろう」
神竜族の長はそう呟いた。
「…ありがとう、ございます」
高貴な神竜族の長だ。僕は簡単に約束を破っても、彼は約束を破らない。
仲間達の命を見逃してくれるのなら、僕が思い残すことは何も…。
…。
…何もない。もう充分だ。
罪を犯したこの身には、充分過ぎる幸福…。
バハムートの長から、爆発的な殺気が放たれた。
僕は頭を垂れて、僕を焼き尽くす神竜の炎が…。
罪の裁きが下されるのを、静かに待った。
本当に、今度こそ…これで最後。
思い残すことはない。
思い残すことなんて…。
「…スクルト…」
自分でも気づかないうちに、一筋の雫が頬を伝って落ちた。
「僕達の…未来は」
この終わりを、君も見ていたのだろうか。
…しかし。
裁きの炎が、僕の身を焼くことはなかった。
「マシュリ!!この馬鹿っ…!」
聞き覚えのある声がして、僕はハッとして顔を上げた。
「…!君達は…!」
もう二度と会うことはないと思っていた。
ついさっき、神竜族の長に命乞いをした人々が。
羽久・グラスフィアやシルナ・エインリー…。その他、イーニシュフェルト魔導学院の人々が。
すんでのところで時間を止め、神竜の炎を防いでいたのだ。
何で…。
…何で、彼らがここに。
「どうして来たんだ…!」
どうやって、ここが分かった?
黙って出てきたはずなのに。
いや、それよりも…。
折角、ついさっき…君達の命だけは奪わないと約束してもらったのに。
まさか、自分達の方から首を突っ込んでくるなんて。
「神竜に逆らったら…君達まで僕と同じ罪を、」
「うるせぇ、この馬鹿!」
羽久が、僕の胸ぐらを掴んで叫んだ。
「お前の!罪じゃないだろう!!」
…彼が。
僕にその言葉を言うのは、これで二度目だった。
…何で、そんなことを言うんだ。
全部覚悟を決めて、一人で背負おうと決めて、ここに来たのに。
どうしてこの期に及んで君達は、僕の罪を…。
「こんなものが本当に、お前の望んだ未来なのか!?」
「…それは…」
…違う。
僕はこんな未来を望んだ訳じゃない。
こんなところで終わりたくない。もっと明るい未来を…。
…仲間達と共に生きる、そんな夢みたいな未来を見たかった。
だけど、そんなの…この僕に許されるはずがないじゃないか。
「そんな未来…僕には許されない…」
「許されないほど重い罪だって言うなら、俺達が一緒に背負ってやる」
彼は自分が何を言っているのか、ちゃんと理解しているのだろうか。
その発言は、冥界で最も高貴な種族と言われる神竜族を敵に回すようなものだ。
そんなことをしたら、彼らまで一緒に…。
「…お前は、生きていたいんだろ?馬鹿マシュリ」
「…」
「だったらそう言えよ。何も恥ずかしいことなんかじゃない。生きてたい、幸せになりたいって望むのは…人間だろうとキメラだろうと竜だろうと…誰だって同じだ」
…そう。
僕も望んで良いんだ。この罪の身でも…。
普通に…幸せな未来を夢見て生きて良いんだって…。
…例え、それが許されないことでも。
――――――…間一髪、危ないところだった。
ナジュが案内する方向に、全速力で駆けつけてきたところ。
既に、審判は下されようとしていた。
マシュリは全く抵抗することなく、神竜に殺されようとしていた。
俺は咄嗟にマシュリの前に出て、間一髪、時間を止めて神竜の炎を防いだ。
あと一分、一秒でも遅れていたら。
裁きの炎が、マシュリを包んでいただろう。
だが、そうはさせない。
初めて見る本物の神竜に、臆している暇はなかった。
神竜?バハムート?知ったことか。
俺達の仲間を。
マシュリを傷つけようとするなら、例え神であろうとも、俺は絶対に許さない。
「貴様ら…何故邪魔をする?」
突如として現れた俺達に、神竜は苛立ったような声で聞いてきた。
一応、神竜でも普通に会話は出来るんだな。
会話が出来たとしても、話の分かる相手であるかどうかは別の話である。
何故邪魔をするかって?
決まってるだろ。仲間だからだ。
「マシュリに手出しはさせない」
マシュリは生きていくんだ。これからも。
俺達と一緒に。俺達の仲間として。
そして、イーニシュフェルト魔導学院のマスコット猫としてな。
「あんたが神竜だろうと何だろうと、関係ない。マシュリに罪を押し付けるな」
誰も彼も、一方的にマシュリに罪を押し付けやがって。
マシュリが何を悪いことしたって言うんだ?
お前らがそうやって、マシュリを悪い悪いって連呼するもんだから。
素直なマシュリは、自分が悪いんだと思い込むようになってしまったんだろう。
全く勝手な連中ばかりだ。
だがな、俺は何度でも言わせてもらうぞ。
これは、マシュリの罪ではない。
マシュリは何も、悪いことなどしていないのだと。
「あなたがマシュリ君を殺そうとするなら、私達はそれを阻むだけだよ」
シルナも俺と同じく、神竜にも臆することなく立ち向かった。
そうだ。もっと言ってやれ。
この分からず屋の竜に。
「…忌々しい真似を。貴様らには関係のないことだと、何故…」
「…神竜族の長よ」
竜の言葉を遮って、ナジュが呼びかけた。
こいつ、神竜族の長なの?
本当に、とんでもない奴に喧嘩売ってしまったもんだ。
俺、相手が何者なのかも知らずに喧嘩売ってたんだなって。
いや、そんなことよりも。
「この者はケルベロスの血を継ぐ、謂わば我が臣下。あなたの勝手な判断で裁かれては困る」
ナジュ…じゃ、ないな。あれは。
ナジュの中にいるリリス…『冥界の女王』リリスが、神竜の長に呼びかけていた。
そうか。そうなるよな。
マシュリは神竜の血を引いているが、同時にケルベロスと人間のキメラでもある訳で…。
一人で人間、ケルベロス、神竜の豪華三種盛りの血が流れている。
凄いお得感があるが、今回の場合は全然お得でも何でもない。
マシュリは今、「神竜族として」、「神竜に」裁かれようとしている。
だがリリスは、「ケルベロスとして」のマシュリを引き合いに出すことで、マシュリを守ろうとしていた。
「我が臣下を、勝手に裁くことは許さない。この者の処罰について、今一度再考を…」
「…下らぬ」
しかし、神竜族の長は耳を貸さない。
「穢らわしい獣の女王が。貴様に口を出す資格はない」
「…」
ナジュが聞いてたら、大激怒だろうな。
自称「高貴なる」一族である神竜にとっては、他種族は全部穢らわしいんだろう。
シルナには悪いが、本当に昔のイーニシュフェルトの里みたいな考えだな。
「これは契りだ。契りを違えた者に裁きを下すのは当然のこと…」
契り…約束ね。
おおかた、マシュリがバハムートに『変化』することを許さない…みたいな約束をしていたんだろう。
だがマシュリは、今回の決闘で、その姿を晒してしまった。
それで約束を破ったからと、裁きが下されようとしていたんだろうが…。
…やらせない。そんなことは絶対に。
「今ならば見逃してやる。罪人マシュリ・カティア一人を始末するだけにしてやる」
神竜の長は偉そうに、上から目線でそう言った。
「だが、これ以上我の邪魔をするならば…貴様らも同罪とみなし、我ら神竜族の敵として…」
「やれよ」
ぐだぐだと能書き垂れてんじゃねぇ。
脅すくらいなら、ひと思いにやれよ。
「は、羽久…」
俺があんまり、きっぱり敵対宣言をするものだから。
マシュリは目を白黒させて、本当に良いのかと表情で問いかけてきた。
あぁ、良い。
良いに決まってるだろ。
それで仲間を守れるなら。
幻の世界にいれば、お前はきっとこんな理由で罪の責任を背負わされることはなかった。
それなのに、俺が帰ってきてしまったせいで、マシュリは神竜族と敵対することになってしまった。
だから、その分の責任は…俺が背負うよ。
更に、俺だけではない。
「この猫がいなかったら、生徒がすぐに気を逸らして、授業どころじゃなくなりますからね」
「一緒に帰ろう、マシュリさん。君はもう、イーニシュフェルト魔導学院にいなくちゃならない人なんだから」
「リリスを穢らわしいと吐き捨てた連中を、許す訳にはいきません」
イレースも天音もナジュも、公然と神竜の長に敵意を向けた。
やっぱり怒ってるじゃん、ナジュ…。
「自分がそうしてもらったように、今度は僕が、帰ってくる場所を作ってみせる」
「君が帰ってこなかったら、ツキナが悲しむしねー。嫌でも帰ってきてもらうよ」
令月とすぐりも、それに並んだ。
…ツキナだけじゃないぞ。
マシュリが帰ってきなくて悲しむのは、俺達も同じだ。
「…神にさえ抗い、正しさから背を向けたこの私が」
と、シルナは神竜族の長に、真っ向から立ち向かった。
「今更…神竜の罪を恐れるとでも?」
…その通りだ。
今更神竜と敵対することなんて、何だと言うんだ?
神に比べれば全部雑魚。
恐れる必要はない。
俺達はただ、守るべき仲間を守るだけだ。
「さぁ、どうする?この場で私達と戦って、決着をつけようか?」
「…竜に逆らいし、愚か者共め」
何とでも言え。
「その選択…いずれ後悔することになるぞ」
勝手に言ってろ。
後悔をしない為に、俺達は選択をするんだ。
今すぐこの場で、俺達をまとめて始末しようと襲いかかってくるのかと思ったが。
神竜の長は、巨大な白い光に包まれたかと思うと。
ぱしゅんっ、と泡が弾けるように…その場から消えてしまった。
…えっ…。
「あいつ…何処に行った?」
まさか、瞬間移動…みたいな?
そんなこと出来るのか?あの竜…。
「ナジュ君…分かる?」
「気配を感じません。…どうやら、帰ったみたいですね」
ずこーっ。
帰ったのかよ。
「偉そうなこと言っておきながら、尻尾巻いて逃げたんですか。骨のない奴です」
と、イレース。
全くだ。大物と見せかけて…実は小物だな?
まさか気高い神竜が、半泣きで覚えとけよ!と捨て台詞残して帰っていくとは。
意外と大したことないんじゃね?
「この場で僕達に挑んでも、分が悪いから…。一時的に撤退しただけだと思うよ」
マシュリが言った。
態勢を整えてから、またやって来るだろうって?
上等だ。
それなら俺達も、そのときまでに準備しておくよ。
そして、改めて返り討ちにしてやる。
何度徒党を組んでやって来ても同じだ。
俺達はマシュリの罪を、一緒に背負うと決めた。
その罪の重さに、もし押し潰されることがあったとしても。
この選択をしたことを、決して後悔はしないだろう。
実際のところ、それで何か問題が解決した訳ではなかった。
俺達がやったのは、謂わばその場しのぎ。
マシュリの言った通り、あの神竜…バハムートの長は、契りとやらを違えたマシュリを許さないだろう。
そんなマシュリを庇っている俺達のことも、許さないだろう。
今度いつ、また冥界から現世にやって来て。
今度は仲間を引き連れてきて、俺達をまとめて、竜の炎で焼き尽くさんとするかもしれない。
と言うか…多分、そうなるだろう。
勿論、みすみすやられっぱなしになるつもりはないけれど。
こうして俺達はまたしても、余計な敵を増やした訳だ。
こんなことばっかりだな、俺達。
仲間を守る為に、色んなところに敵作ってばっかだ。
でも、後悔は全くしていないのだから不思議。
さて、それはともかく。
俺は宣言通り、放課後までにマシュリを学院に連れ戻すことに成功した。
マシュリは、「僕はもう学院には居ない方が…」とか何とか呟いていたが。
全部聞こえなかったことにして、無理矢理連れて帰ってきた。
俺はマシュリに、何も聞かなかった。
俺だけじゃなくて、シルナもイレースも天音もナジュも、令月とすぐりも。
いや、ナジュは心を読んで知っているから、聞く必要がないだけかもしれないけど。
誰も、マシュリに「あれはどういうことか」とは聞かなかった。
何で一人で、神竜の長と対峙していたのか、とか。
マシュリが破った契りというのは何なのか、とか。
そもそも、何でマシュリが神竜族の血を引いているのかとか…。
マシュリ自身が話したいなら、聞くけど。
そうじゃないなら、こちらから質問するつもりはなかった。
俺にとって大切なのは、マシュリが俺達の仲間でいてくれること。これだけだ。
それ以上に大切なことなんて何もない。
それに…言わなくても、大体想像はつくしな。
わざわざ尋ねる必要はない。
それよりも、俺にはもっと重要なことがある。
何かって?
…決まってるだろ?
何度言い聞かせても、何度言い聞かせても…学院から脱走を繰り返す、この脱走猫に。
どうやって罰を与えてやろうか、ということである。
それはそれ、これはこれだからな。
「被告人、ならぬ被告猫。判決を言い渡す」
下校時刻後の学院長室にて。
マシュリを床に座らせ(何故か体育座り)、俺は裁判官を務めていた。
横でシルナが、「あわわわわ…」とか呟いてるが、それはまぁ無視して。
神竜族の長に裁かれたり、俺に裁かれたり、今日だけでマシュリ、二回も判決受けてるな。
神竜族からは俺達が助け出したが、俺達から助け出してくれる人はいないから、潔く自分の罪を認めてもらうぞ。
キメラだとか、神竜族だとかいう罪はマシュリのものではない。
マシュリの罪はただ一つ。
俺達に何も言わず、勝手に自分で背負い込んで、俺達の前から居なくなることだ。
これは大罪だぞ。
今回という今回は、もう堪忍袋の緒が切れた。
よって、通りすがりの生徒を何人か捕まえて、この脱走猫いろりに対し、どのような罰を与えるべきか意見を求めてきた。
「生徒5人に、いろりのお仕置きについて聞いてみたところ…」
えー、まず一人目の生徒の返事は。
「え?罰?そんなの必要ないですよ。帰ってきてくれたんだから良いじゃないですか」
とのこと。
あっけらかんとしてんな。
帰ってきたんだから良いだろうとか、そういう問題じゃないと思うんだよ。
続いて、二人目の生徒は。
「罰なんか与えたら可哀想ですよ。猫なんだから、たまに脱走するくらい良いじゃないですか」
とのこと。
猫だから、脱走するくらい何でもないというご意見。
確かにそうなのかもしれないけど、この猫、実は中身猫じゃないから。
更に、二人目の生徒の隣にいたお友達、三人目の生徒は。
「そうそう。帰ってきたのに罰なんか与えたら、もう帰ってこなくなりますよ」
とのこと。
帰ってこなくなったら困るな。確かに。
そして、四人目の生徒は。
「えっ、いろりちゃんに罰?可哀想ですよそんなの!」
とのこと。
ストレートにドン引きされた。
動物虐待だと思われてるのか。それは心外だ。
最後に、五人目の生徒は。
「脱走したことに罰を与えるんじゃなくて、帰ってきたことに対してご褒美を与えては?」
とのこと。
成程、その発想はなかった。
頭良いね君。
よって、以上五人の意見を総合し、いろり…ならぬ、マシュリの処罰を決めた。
「…帰ってきたことを褒めろって言われたから、高級カリカリ買ってきてやったよ」
罰を与えるつもりだったのに、これじゃご褒美じゃん。
うちの学院の生徒が、揃って皆優しくて良かったな。
こうして。
マシュリは結局、誰にも何にも罰せられることはなく。
「かりかり。もぐもぐ。かりかり…」
「…」
一心不乱に、高級カリカリを摘んでいた。
美味いの?それ…。
チョコ摘んでるときのシルナみたいだから、多分美味しいんだろう。
それは良いけど、マシュリの姿でカリカリ食うなよ。
ちゃんといろりの姿、猫の姿で食べてくれ。
この絵面だけ見たら、一心不乱に猫用カリカリを貪ってるクレイジーな人間にしか見えない。
…まぁ、良いか。
生徒も言ってたけど、ちゃんと帰ってきたんだし。
あのまま神竜族の長に殺されて、二度と戻ってこなかったら。
今頃俺達、こんな呑気にはしていられなかった。
「良かった。マシュリ君、何も罰を受けずに済んで…」
目の前で拷問を見せられるんじゃないかと、ハラハラしていたのだろう。
シルナはホッとしたようにそう言って、安心してチョコレートを食べ始めた。
「今日はチョコとクルミたっぷりの、さっくさくチョコビスコッティだよ」
あ、そ。
嬉しそうで何より。
学院長室の中では、マシュリがカリカリをカリカリ言わせながら食べ。
シルナがビスコッティをカリカリ食べているという、異様なカリカリの光景が広がっていた。
シュール。
「羽久も食べよう、ビスコッティ。ほら」
「いや、俺は別に…」
「じゃあ、こっち食べる?美味しいよ、このカリカリ。仄かなマグロの香りが…」
「そっちはもっと要らねぇよ」
それは猫用だよ。誰が食べるか。
それよりも。
生徒に罰を与えるなと言われたから、罰を与えるつもりはないけど。
でも、ちゃんと言っておくべきことがある。
「あのな、マシュリ。この際、もう…出ていくなとは言わないよ。散歩だろうと、猫の集会だろうと、行きたいところに行ってくれば良い」
お前は多分、本能的に一箇所に留まることを嫌うんだろうし。
猫の集会とか、しょっちゅう行ってるみたいだからさ。
別に行ってくれば良いよ。好きなところに。
「え、良いの?集会行っても…」
「良いよ。この際、もう好きなところに行けば良い」
「…そっか。それは助かるよ…。この間集会で、来年の役員に選ばれたばっかりだから」
猫の社会に、役員なんてあんの?
世知辛っ…。
「何処行っても良いから…そのときはちゃんと、行ってきますって俺達に言ってから行って来い」
そのときは俺も、行ってらっしゃいって見送るから。
「そして必ず、ただいまと言って帰ってこい」
それが、出掛けても良い条件だ。
この場所がマシュリの居場所で、家で、帰ってくる場所なんだからな。
――――――…ただいまと言って帰ってこい、か。
そんなこと…初めて言われた。
天下の何処にも、僕の居場所なんて…帰る場所なんて、ないと思ってたのに。
ずっと自分の居て良い場所を探して、冥界や現世を彷徨い続けてきた。
何処に行っても、気持ち悪い、バケモノと石を投げられ。
『半端者』と呼ばれて、どんな種族からも迫害された。
ようやく手に入れた大切な人も、この手で引き裂いてしまった。
こんなどうしようもない存在に、居場所なんて出来るはずがないと思っていたのに。
…今はこうして、「ちゃんと帰ってこい」って怒られてる。
「勝手に居なくなられたら、探しに行くのが大変なんだからな」
「…」
何度僕が勝手に出ていこうと、帰ってくるまで待っていてくれる。
それどころか、僕を見つけるまで探しに来てくれる。
アーリヤット皇国の『HOME』のように、僕の力を利用するんじゃなくて。
ただ、僕というどうしようもない存在を、必要としてくれた。
僕のありのままの姿を受け入れ、共に同じ罪を背負い、共に生きると誓ってくれた。
これが…家。
僕がずっと欲しかった、帰るべき場所。
…この居心地の良い場所を、今度こそ僕は守ってみせる。
バケモノ、『半端者』と呼ばれたこの姿で。
心の中でそう誓って、僕は初めて。
自分の異形の姿が、少し誇らしく思えた。
…スクルト、君には見えていたんだろうか。
僕が生きる…この明るく、美しい未来が。