…しかし。
俺はそのとき、気づいていなかったが。
「…?…??」
目を覚ましたばかりのベリクリーデは、きょろきょろと周囲見渡していた。
…まるで、違和感の正体を確かめるように。
「おい、ベリクリーデ。どうした?早く帰るぞ」
そんなベリクリーデに、ジュリスが声をかけた。
「ジュリス…」
「ん?どうした?」
「…ジュリスって、ジュリスだよね?」
「…は…?」
突然の意味不明な質問に、ジュリスは眉をひそめた。
「言ってる意味が全く分からないんだが…」
「私もよく分かんない…」
「でも、俺は俺だぞ。いつも通り」
「…そっか…」
そう呟いたベリクリーデは、納得したような納得出来ないような、微妙な表情を浮かべていた。
それを見て、ジュリスも怪訝そうな顔をしていたが。
ひとまず、その違和感の正体を確かめるのは後回しだった。
まずは、ルーデュニア聖王国に帰らなくては。
「ほら、帰るぞベリクリーデ」
「うん」
ジュリスに促され、ベリクリーデは素直に頷いた。
思えば…思えば、このとき既に、種は蒔かれていた。
しかし、当然ながら…俺達は全く、そのことに気づいていなかった。
…帰りの道中、アーリヤット皇国側の代表団は。
「申し訳ありません、ナツキ皇王陛下…。我々が不甲斐ないばかりに」
「このような結果終わってしまいました」
ハクロとコクロが、不機嫌そうな皇王に謝罪した。
が、ナツキ様はそんなことは聞きたくなかったらしい。
うるさそうに、部下達を手で払った。
「全くだ。…この役立たず共め」
このときのナツキ様の…負け犬の顔を見られたら。
俺はさぞや、溜飲を下げたことだろう。
「だが…まぁ良い。最低限の目的は果たした」
ナツキ様が、やけに素直に引き下がった理由。
三回戦に、ハクロとコクロの二人を選んだ理由。
その裏にあるものを、俺達は知らなかった。
知る由もなかった。
「俺をコケにしてくれたこと、必ず後悔させてやる」
その言葉が、単なる負け惜しみではないことを。
ナツキ様は勿論、ハクロとコクロも承知の上だった。
俺達がこの言葉を意味を知るのは、もう少し先のことだった。
…ナツキ様の企みなど、知る由もない俺達ルーデュニア聖王国代表団一行は。
決闘から、三日が経過したその日。
「よし、それじゃあ…決闘お疲れ様会を始めまーす!」
満面の笑みで音頭を取るシルナに。
俺達は、それぞれマグカップに入ったホットチョコレートを掲げて、乾杯した。
…素朴な疑問なんだけど、何でホットチョコで乾杯?
なんか間違ってるような気がするが、まぁ平和な日常が帰ってきて良かったねってことで。
「さぁさぁ皆、たくさん用意したから、好きなだけ食べてね〜」
この決闘お疲れ様会、とやらを企画したのは、勿論シルナである。
そして、シルナが用意した祝いの席と言えば、当然ながら。
「凄いね、これ全部チョコなの?」
「チョコ菓子って、こんなに種類あるんだ…。ケーキとマフィンとクッキーくらいしか知らなかったよ…」
「世界は広いんだなって思うよね」
お疲れ様会に招待された吐月達が、テーブルの上に整然と並べられた皿の数々を見て、思わず舌を巻いていた。
そう思うのも無理はない。
テーブルの上には、これでもかと言うほど食べ物が並んでいた。
一体どんなご馳走が…と思ったら。
全部、チョコ菓子。
ザッハトルテ、ガトーショコラ、フォンダンショコラ、チョコクッキーにチョコサブレ。
チョコサラミにチョコアイス、チョコパウンドケーキ等々。
極めつけは、とくとくと熱いチョコレートを噴き出す、巨大なチョコフォンデュ。
用意したのは、勿論シルナである。
ルーデュニア聖王国に帰ってきてすぐ、馴染みのお菓子屋さんに頼んで、用意してもらった。
それもこれも、この日のお疲れ様会の為である。
「あ〜美味しっ。こっちも美味しい!このチョコアイスなんて最高!」
シルナは招待客そっちのけで、テーブルいっぱいのチョコスイーツを貪っていた。
すげー勢いで食ってる。掃除機か?
「…」
これには、招待客であるルーデュニア聖王国代表団も無言。
ただ、ベリクリーデだけが。
「もぐもぐ。これ美味しいね、ジュリス」
「あ、うん…」
チョコドーナツを口いっぱいに頬張って、もぐもぐ食べていた。
ベリクリーデは大物だよ。
腕、もう治ったのかな?
「…このパンダ学院長…。白と黒じゃなくて、茶色一色になるんじゃないですか?」
イレースの嫌味も、シルナの耳には届いていないようで。
ただひたすら、変わらない吸引力でチョコスイーツを貪っていた。
しばらく放っておこうぜ。あれは止めても止まらんだろ。
まぁ、でも…気持ちは分かる。
多分シルナも幻の世界で、一週間の間針のむしろ状態で過ごしたんだろう。
俺と同じように。
当然その間、こうやって大好きなお菓子を口にすることもなかったはずだ。
それに、決闘のことやらアーリヤット皇国との揉め事やらで、しばらく落ち着かない日々が続いていたし…。
その反動なんだと思うよ。
ようやく平和が戻ってきたのだから、今日くらいは羽目を外しても良いだろう。
しかし。
「言うまでもないことですけど、この山のようなチョコ菓子の代金は、全部学院長の懐から出してもらいますからね」
イレースは、こんなときでも容赦なかった。
財布の紐が緩むってことがないもんな、イレースって。偉いよ。
…そう、平和。
こうして俺達が今日、呑気にお疲れ様会…ならぬ。
シルナ主催のチョコパーティーを開くことが出来ているのは。
無事に決闘に勝利し、ルーデュニア聖王国に平和を取り戻したからである。
大変だったんだぞ、帰ってからの三日間も。
決闘に負けてヤケを起こしたナツキ様が、港に待機しているアーリヤット国軍を動かし。
ただちにルーデュニア聖王国を攻撃して、戦争が始まるんじゃないか。
そう危惧していた俺達だったが。
意外なことに、ナツキ様は聞き分けが良かった。
俺達がルーデュニア聖王国に戻ってきたときには、我が物顔で港を囲んでいたアーリヤット国軍は、自分の国に撤退した後だった。
これには拍子抜けだった。
更に、その後のアーリヤット皇国の動きも。
約束通り、フユリ様に会いに来るよう要請したところ、ナツキ様は今のところ、素直に応じているそうだ。
この調子なら、近いうちにようやく。
フユリ様とナツキ様の対面が、現実のものになりそうだった。
文句なしの大勝利である。
ようやくホッと一息ついた俺達は、今日、こうして。
遅れ馳せながら、決闘お疲れ様会を…。
シルナの念願のチョコパーティーを開催した次第である。
いやぁ、感慨もひとしおだな。
ついこの間まで、幻の世界で悶々と思い悩んでいた頃が思い起こされる。
シルナが目の前に、このイーニシュフェルト魔導学院の学院長室にいる。
掃除機並みにチョコ菓子を貪っているのは別として。
そこにシルナが居るというだけで、俺は自分が驚くほど安心しているのを実感した。
多分、シルナにとってもそうなんだろうと思う。
だからこそ、何も考えずにチョコ菓子貪っていられるんだろうし。
平和ってのは尊いもんだな。毎回思うけど。
と、俺が平和の有り難さを噛み締めているところに。
「このまま大人しくしてくれてたら良いね、アーリヤット皇国」
「そーだね。懲りてくれたらいーけど。そう簡単に懲りそーな顔してないもんね」
令月とすぐりが、容赦なく水を差してきた。
…言うなって、お前らは。そういうことを。
気分が台無しだよ。
そりゃまぁ…令月とすぐりの言うことも分かるよ。
「あの」ナツキ様だもんな。
そう簡単に引き下がるとは思えない。
また何か企んでる…という線も、考えられなくもない。
が、今日くらいは…全部忘れて、素直に喜んでも良いのでは?
うん、そうだ。そういうことにしよう。
「…チョコの匂いがキツくて、鼻がおかしくなりそうだよ…」
むせ返るようなチョコの匂いに、鼻を摘んで顔をしかめているのは。
イーニシュフェルト魔導学院のマスコット猫、ならぬマシュリであった。
決闘で二回戦を戦ってくれたマシュリは、ベリクリーデと並んで、謂わば今回の功労者である。
結果的には、ミナミノ共和国の審判に難癖をつけられて、敗北扱いになったが。
俺は今でも、あれはマシュリの勝利だと思ってるから。
よって、そんなマシュリの為に、俺は自腹を切って良いものを用意した。
どうせマシュリには、シルナの好きなチョコ菓子はあまり喉を通らないだろうし。
猫にチョコレートは食べさせたら駄目だからな。
その代わりに。
「マシュリ。おい、マシュリ」
「何…?」
「ほら、こっち来い。良いもの用意してあるから」
そんなマシュリの為に、ペットショップをいくつも回って探してきた。
「…!この匂いは…!」
鼻の良いマシュリは、いち早く俺の懐にあるものに気づいたようだ。
部屋の中、こんなにチョコの匂いが充満しているのに、よく気づいたな。
やはり、好物の匂いは格別であるようだ。
「ほら。ビッグサイズのちゅちゅ〜る豪華六本セットだ」
「…!!」
それを見るなり、マシュリは目を輝かせて飛びついてきた。
探すの苦労したんだぞ、これ。
通常サイズのちゅちゅ〜るなら、近所のドラッグストアにも売ってるんだけど。
このお得用ビッグサイズのちゅちゅ〜るは、取り扱ってる店が少なくて。
王都のペットショップを梯子して、ようやく見つけてきた。
マグロ味、カツオ味、ささみ味、サーモン味、チーズ味、禁断のマタタビ味の六種類が揃った、豪華版だぞ。
さぁ、心ゆくまで堪能してくれ。
「ついでに、プラチナ猫缶もいくつか買ってきてやったからな。しばらくは豪華に…」
「にゃー」
「…聞いてないな…」
ちゅちゅ〜るには、猫を狂わせる魔力がある。
猫っつーか…ケルベロスなんだけど…。
あと…神竜、バハムートの血も引いてるんだっけ?
本人が何も言わないから、俺も何も聞かない。
どんな姿だろうと、マシュリはマシュリだからな。
そう思っていたから俺は、そのときのマシュリが心の中で、密かに覚悟を決めていたなんて。
知る由もなかったのである。
…チョコパーティーはそのまま、三時間くらい続いて。
招待客がそれぞれ帰宅して、イレースや天音達も自分の部屋に帰った後。
「はー。食べた食べた…。幸せだったー」
「…」
シルナはようやく、飽きるほどチョコスイーツを食べて満足していた。
今日くらいは、羽目を外しても良いって言ったけどさ。
あれ、撤回するよ。
物事には限度ってものがある。限度ってものが。
その限度ってものを理解してない。この男。
今日、このお疲れ様会でシルナが一人で消費したチョコスイーツの量を知ったら、誰しも腰を抜かしてたまげると思う。
それくらい食ってた。マジで。
バケモンだぞ。
「羽久が私に失礼なこと考えてる気がするけど…お腹の中がチョコレートでいっぱいで幸せだから、今は気にならないや…」
「気にならないなら遠慮なく言わせてもらうけど、食べ過ぎだよお前。お腹の中どころか、頭の中までカカオ詰まってんじゃね?」
「羽久が私に失礼なこと言ってる!」
気にならないんじゃなかったのかよ。
ガッツリ気にしてんじゃん。
「でも、一週間我慢したんだよ?私が一週間に消費するお菓子を、一日で食べたと思ったら…意外と少ないような気がしない?」
成程、確かにそう考えると少ない…。
…って、そんな訳ないだろ。
多いわ。一般人の基準だったら、一ヶ月分でも多いくらいだよ。
やっぱり頭の中、カカオ詰まってんじゃね?
まぁ、良いや。
「心ゆくまで食べたか?満足したか」
「うん、満足した。やっぱり砂糖は偉大だね」
この世のあらゆる問題、砂糖とチョコで解決したら簡単なんだけどな。
世界にシルナしかいなかったら、多分それで解決する。
「また羽久が、私に失礼なこと考えてる気がするよ…」
「気のせいだ」
「…でも、この世界に羽久がいるってだけで…そう思うだけで、何だか安心するよ」
「…」
…それは…俺も同感だな。
何も考えずに、ひたすらチョコばっか貪っていられるのも。
そんなシルナを見て、やれやれと呆れることが出来るのも。
お互いの、無事な姿を確認出来たから…なんだよな。
そうじゃなかったら、心配で何も手につかなかった。
つい数日前…幻覚の世界にいたときは、こんなありふれた、ささいな幸福が堪らなく恋しかった。
ルーデュニア聖王国に帰ってきてから三日間。
俺とシルナは、あの日の決闘で互いがどのような幻を見ていたのか、互いに話し合うようなことはしていない。
お互い、察してはいるけど…何となく口に出すのが憚られて。
俺が、シルナのいない世界に居たように。
シルナもまた、俺のいない世界に居たんだろうな。
でも、それが耐えられなかったから。俺と同じように、そんな世界に耐えられなかったら。
二人で戻ってきた。二人共…同じことを考えて、同じ望みを抱いて…帰ってきた。
だから俺達は今、ここに居るのだ。
絶対楽しい思い出じゃないに決まってるからな。
『不思議の国のアリス』のときも、なかなか酷い目に遭わされたもんだが。
罪悪感をめちゃくちゃ煽られる分、今回の方が精神的にキツかった気がする。
あれは幻覚、あれは本物じゃない…と何度も自分に言い聞かせて、ようやく正気を保っている。
多分、シルナにとってもそうだと思う。
「はー、美味しかった…」
「…なぁ、シルナ」
「んー?」
「…その…決闘のときのことだけど」
「あぁ、うん…」
…一気に、何だか気まずい空気にしてしまって恐縮だが。
「多分、お前と俺と同じような世界に居て、同じようなものを見たんだろうから、詳しくは聞かないけど…」
「うん」
「…俺達、帰ってきて…良かったんだよな?」
選択のときは過ぎたのに、今更何言ってんだと思われるかもしれないけど。
でも、誰かに肯定して欲しかった。
せめて、同じ選択をして戻ってきたシルナにだけは。
自分達の選択は間違っていなかったのだと、そう信じたかった。
「…そうだね。少なくとも私は…戻ってこられて良かったと思ってるよ」
「…あぁ」
「だって、また羽久に出会えたから。それ以上大切なことは、私にはない」
「そうか」
俺もだ。
俺も同じように思ってるよ。
「…だけどね、羽久。一つだけ聞いても良い?」
…ん?
「何だ?」
「羽久は…あの幻の世界にいたときの記憶、残ってる?」
記憶?
「…?覚えてるよ。夢見てた訳じゃないからな」
「そっか…。実は、私も覚えてるんだ。あの幻覚の世界のこと」
…それが、どうかしたのか?
「いっそ忘れたかったんだけど…。今もまだ、鮮明に覚えてる。…死者蘇生の魔法。そのやり方についても」
「…!」
死者蘇生…だと?
何でそんな…禁忌の魔法の話が出てくる?
シルナは一体、どんな幻を見ていたんだ?
「どういうことだ…?」
「…聞いてくれる?私の見ていた幻の世界のこと」
そう前置きして、シルナはシルナ自身が見ていた幻の世界について、簡単に説明してくれた。
聞かないつもりでいたのに、結局聞いてしまったよ。
そして俺は、その世界のことを聞いて仰天してしまった。
多分どんな世界だったんだろうって、想像はしていたけど…。
…予想以上だった。
まさか、俺の代わりにヴァルシーナがシルナの右腕を務めていたとは。
いや、それ以上に。
イーニシュフェルトの里の族長を…蘇らせていたなんて。
死者蘇生の魔法って…都市伝説の類だと思ってたんだが?
「…幻の世界で私は、死者蘇生の魔法に関する研究資料をまとめたファイルを見たんだ」
と、シルナは語った。
「そのファイルの内容…今も克明に覚えてる。忘れようと思っても忘れられない」
シルナの奴、普段はぽやーっとしてるし、チョコばっか食べるし、さっきまで使ってた鉛筆を何処に置いたか忘れた、って探し回ってる癖に。
そういう知識…特に魔導理論に関する知識は、決して忘れないからな。
一度読んだ魔導書の内容とか、隅から隅まで覚えてる。
その記憶力は、幻の世界でも健在だったという訳か。
末恐ろしいな。
もしかして、狂ったようにチョコ菓子食べてたのはそのせいか?
幻の世界で見た死者蘇生魔法のことを忘れたくて、自棄食いしてたとでも言うのか。
食べたくらいじゃ忘れられないよ、お前は。
「私は幻の世界で、死者蘇生の魔法をほぼ完成させていた。あのファイルに書かれていた方法を使えば、現実世界でも同じように…」
「死者蘇生が出来るって言うのか?そんな馬鹿な…。あれはあくまで幻だろう?」
現実じゃない。死者蘇生を完成させたって言っても…それはあくまで、幻の世界での話だ。
現実でも応用出来るとは限らないじゃないか。
…しかし。
「いや…出来ると思ったんだ。あの方法を使えば」
シルナは、珍しく難しい…神妙な顔をしてそう言った。
「死者蘇生の魔法については、元々やろうと思えば出来なくもないと思ってた」
「…それは…」
「ただ、必要がないからやらなかっただけだ。禁忌を犯してまで、蘇らせたい人なんていなかったから…。積極的に研究しなかっただけで」
もし…クュルナの親友のように、禁忌を犯してでも蘇らせたいと思う人物がいたら。
シルナはきっと、今も取り憑かれたように死者蘇生魔法の研究をしていただろう。
幻の世界のシルナが、そうだったように…。
「勿論、羽久の言う通り…ここは現実の世界であって、幻の世界のように、簡単には行かないかもしれないけど…。あのファイルにあった方法を使えば、恐らく成功する…そう思うんだ」
「…」
恐らくこの国で誰よりも、優れた魔導理論に関する知識を持っているシルナが、確信を持ってそう言えるのなら。
確かにそうなんだろう。本当に…死者蘇生が可能なんだろう。
とても信じられないが…シルナの言うことなら、俺は信じられる。