神殺しのクロノスタシスⅤ〜後編〜

あまりにびっくりして、私は固まってしまったが。

小さな二十音は、私には全く目もくれず。

幼い子供らしく、無邪気な顔で駆けていった。

「あぁほら、そんなに走っちゃ駄目よ」

その二十音の後ろから、母親らしき女性が追いかけてきた。

追いかけてきたその母親にも、見覚えがあった。

二十音を座敷牢に閉じ込め、この化け物を引き取ってくれと私に頼んだ…。

あのときの、二十音の母親と同じ顔。

その母親が、無邪気にはしゃぐ二十音を抱き留めた。

「ご迷惑になってるじゃない。…ごめんなさい」

二十音を抱き上げて、母親はこちらに会釈した。

どうやら、私が聖賢者であることには気づいていないようだ。

二十音は無邪気な笑顔で、母親にしがみつき。

母親もまた、柔らかな笑顔を小さな二十音に向けた。

「さぁ、おうちに帰りましょうね」

そう言って、母親は二十音を抱いたまま歩き出した。

私は身動きもせず、ただ雷に打たれたように固まっていた。

…二十音。

あれは、確かに二十音だった。

この私が見間違うはずがない。

二十音が…何で、このイーニシュフェルトの里に。
 
しかも子供の姿で、母親と一緒に…外に出て。

「…聖賢者様?どうされました?」

珠蓮君が尋ねた。

私は、震える声で珠蓮君に聞き返した。

「い、今の…親子は?」

「?里が再建されたとき、新たに里の住民として移住した親子ですが…。…聖賢者様が移住の許可を出されたんですよね?」

…知らないよ、そんなこと。

何で二十音が…母親と一緒に…。

いや、何であの子が生きてるんだ?

しかも、あんな幼い子供の姿で…。

この世界の二十音は、私が邪神と一緒に殺したんじゃ…。

「確かあの親子は、魔導適性を持たないんですよね。魔導適性がない者でも、イーニシュフェルトの里に住む権利がある…。新たな里の在り方を示すモデルケースとして、あのように魔導適性のない家族を積極的に受け入れたと、そう聞いています」

と、珠蓮君が教えてくれた。

魔導適性がない…二十音。

私が近くにいたのに、私には目もくれなかった。

私を知らない、私の知らない二十音。

そのとき、私の中に一つの可能性が思い浮かんだ。

…転生。

そう、転生だ。

そういうこと。…そういうことなんだ。

あの子は二十音じゃない。死んだ二十音の…生まれ変わり。

愛されずに生まれ、望まれずに生かされていた二十音は。

邪神をその身に宿され、私に滅ぼされて死んだ後。

ようやく、自分を愛してくれる両親のもとに生まれ変わった…。

…そういう、ことだったんだ。
確証がある訳じゃない。

これはあくまで、私の仮説に過ぎない。

単なる他人の空似である可能性も、充分にある。

大体、ここはハクロとコクロが見せている、幻の世界なのだ。

幻なんだから、何でもアリだろう。

でも…何でもアリってことは、あの子が本当に私の推察した通り、二十音の生まれ変わりである可能性もあるってことだ。

…そう、そうだったんだね。

「…あはは…」

私は両手で顔を押さえ、タガが外れたように笑い出した。

だって、笑わずにいられる?こんなの。

「せ、聖賢者様…!?突然どうされたんですか?」

驚いた珠蓮君が、慌てて私に駆け寄ってきたけど。

そんなことは、私にはどうでも良かった。

笑えるよ。喜劇だよね、こんなの。

母親に抱かれて、無邪気に笑っていた二十音の顔を見た?

私のことなんて、まるで眼中になかった。

当たり前だ。さっき見た転生した二十音は、母親に愛されて育てられているのだから。

私に殺された二十音は、生まれ変わって、幸せな子供として、魔導適性も持たず。

特別な力なんて何も持たず、ただの平凡な子供として。

座敷牢に閉じ込められることも、家族に死を望まれることもなく。

今度こそ、幸せな子供として生きているのだ。

…私が、いなくても。
 
あの子はちゃんと、幸せになれたんだ。

それなのに私は、元の世界で二十音を…自分の隣に縛り付けている。

死ねば開放されるだろうに。生まれ変わって、あんなに幸せに暮らすことが出来たのに。

その可能性を、私がこの手で全部潰した。
 
何の為に?

私の為だ。

私の自分勝手な独りよがり。ただ私が一人になりたくないから。

それだけの理由で。

二十音に依存し、二十音に依存させ、神の器としての役目を押し付け。

私の罪に付き合わせ、私の身勝手の為にあの子を縛り付け…。

…私がちゃんと正しい道を選べていたら、二十音はこうして、幸せに生きられただろうに。

その可能性を、私は自分の身勝手のせいで潰してしまったのだ。

…これをどうして、笑わずにいられるだろう?
…ねぇ、二十音。私はどうしたら良い?

こんな幻の世界、何の価値もないと思っていたのに。

生まれ変わった、小さな君の姿を見て…私の心は酷く揺れ動いた。

ここは確かに、私にとっては虚しい世界だ。

でも、正しい世界だ。

誰にとっても、正しい世界。

本来元の世界も、こうであるべきだった。

私は己の役目を果たし、二十音は死ぬ。

でも生まれ変わって、私を知らない二十音になって、今度こそ愛してくれる母親のもとで、幸せに暮らしている。

二十音だけじゃない。

私が役目を果たしたお陰で、救われた人が大勢いる。

イレースちゃんも天音君もナジュ君も、令月君もすぐり君もマシュリ君も。

あのヴァルシーナちゃんでさえ、私の右腕として、私を慕い、支えてくれている。

そして、ヴァストラーナ族長も…。

皆私が正しい選択をしたことに喜び、そのお陰で救われている。

私が…自分の苦しみを押し殺して、ちゃんと正しい選択をしていれば。

きっと元の世界も、こんな風に誰もが幸せな世界だっただろうに。

今からでも遅くないって、そう言っているのだろうか。

今からでも遅くないから、お前は罪の十字架を背負って、この正しい世界で生きていけと。

例え幻でも、この正しい世界で。

私が犯した罪の、責任を取れと。

「…二十音」

こんなにも私は、君を一番大切に思っているのに。

世界にとって一番大切なことは、私の大切なこととは違うんだ。

ねぇ。二十音…私、どうしたら良いと思う?







――――――…ハクロとコクロが見せる、幻の世界にやって来て。

…シルナの存在しない、偽りの世界にやって来て、およそ一週間が経過した。

とはいえ、それはこちらの世界の時間であり。

元の世界で、どれくらい時間が経過しているのかは分からない。

もしかしたら、1分とか、一時間くらいしか経ってないのかもしれないし。

あるいは…一ヶ月、一年くらい経っているのかもしれない。

もしそれくらい経ってるんだとしたら、もう決闘終わってんな。

果たしてどうなってるんだろう。

元の世界のことも気になるが、俺はこの一週間で、この世界のことをより詳しく調べた。

…と言っても、大したことは分かっていない。

ただ、この世界にはシルナが存在していないから。

シルナの存在しないことによって、果たしてどんな風に、この国の歴史が変わっているのかを確認しただけだ。

もっと詳しく言うと…大昔に起きたという、邪神と聖神の戦争、とか。

イーニシュフェルトの里とか。神殺しの魔法とか。

大昔に起きたという聖戦、俺も口伝えでしか聞いてないけど。

神殺しの魔法を使ってあの聖戦を終わらせたのは、他でもないシルナの功績である。

この世界にシルナが存在していないのだったら、聖戦は終わらず、邪神が統べる世界になってしまう。

…はずだった。
 
それなのに、今この世界を見てみると良い。

邪神も聖神も、聖戦の話も…一度も耳にしていない。

これはどういうことなのか。

調べてみて分かった。

結論から言うと…この世界にも、一応、シルナは存在しているらしい。

ただ、俺の前に姿を現すことはない。

この世界のシルナは、俺と出会うことはない。

何だかややこしい話ばかりして、大変申し訳無いが。

この世界ではどうも、元の世界であったような、聖神と邪神の戦争は起きていないらしい。

聖戦に関する歴史の記述が、全く残されていないのである。

…まぁ、敢えて記録から抹消されているだけで、もしかしたらあったのかもしれないが。

だけど多分、聖戦が起きなかったというのは事実なのだろう。

この世界に来たときから、ずっと気になっていた。

普段、俺の中には常に…この身体の中に封印されている邪神の気配を感じていた。

いつもは、シルナが俺の身体の奥深くに邪神を封印してくれているから、気にすることはなかったが。

こうしてなくなってみると、よく分かる。

自分の中身が空っぽになったような…。

…なんつーか、内臓一つ二つ失ったような気がする。

いや、比喩だけどさ。

この世界では、俺の中に邪神がいない。

そのせいなのだろうか?…「前の」俺が出てくる気配も、全く無いのだ。

聖戦が起きなかった。俺の肉体に邪神が宿ることもなかった。

聖戦が起きなければ、神殺しの魔法が使われなかったら、俺がシルナと出会う機会はない。

俺の横にシルナがいないのは、多分それが原因なのだ。

その代わり…と言ってはなんだが。

聖戦の記述は見つけられなかったが、イーニシュフェルトの里に関する記述を見つけることは出来た。
図書館で、俺はひたすら歴史の書物を読み漁っていた。
 
え、授業はどうしたのかって?

悪いけど、しばらく自習にさせてもらった。

授業なんかやってる場合じゃないから。今は。

その代わりにずっと、図書館に入り浸って。

そりゃもう血眼になって、ひたすら歴史の書物を読んだ。

それで分かったのだ。

この世界にも、イーニシュフェルトの里は存在している。

イーニシュフェルトの里と言えば、シルナの故郷である。

イーニシュフェルト魔導学院は、このイーニシュフェルトの里をあやかって名付けられた学院だ。

この世界においてイーニシュフェルトの里は、さながら伝説の秘境であった。

聖戦が起きていないのだから、今日に至るまで里が存続しているのも頷ける。

聖戦が起き、神殺しの魔法でシルナ以外の全員が死んでしまったから、里は滅びてしまったのであって。

それがなければ、里は今でも存続していた。

…そして多分、シルナはそこにいる。

今も、生まれ故郷のイーニシュフェルトの里に。
 
会いに行きたい、と思った。

でも同時に、それが不可能であることも分かっていた。

まず第一に、里の場所が分からない。

本に書いてあったイーニシュフェルトの里は、あくまで都市伝説のように語られていた。

世界の何処かにそんな場所があるらしい、くらいしか書いてなかった。

詳しい所在地なんて、とてもじゃないけど分からない。

無理もないだろう。

シルナが言っていた。イーニシュフェルトの里は元々、閉鎖的で保守的な土地柄。

外界と徹底的に交流を断ち、里で研究される魔導科学が外に漏れないよう、厳重に隠されている。

里の賢者達は、俺より遥かに優れた魔導師の集まりなのだ。

俺程度が探しても、多分何千年経っても見つけられないだろう。

…それに。

諸々のハードルを乗り越えて、イーニシュフェルトの里に辿り着いたとしても。

…間違いなく、そこにいる「シルナ・エインリー」は…俺の知るシルナとは別人だ。

イレース達がシルナを知らないように、シルナもまた、俺のことを知らないはずだ。

もし俺を知っているなら、会いに来てくれないはずがない。

俺を知らないシルナ。…俺の知らないシルナ。

例え里に忍び込めたとしても、そんなシルナに会って、自分が正気でいられるとは思えなかった。

…とてもじゃないけど、会いになんて行けない。

こうなったら、もうお手上げだった。
一週間が過ぎ、図書館で調べることもすっかり調べ尽くし。

何もやることがなくなった俺は、ひたすら自分の部屋で座り込み、虚空を見上げていた。

放心状態…って奴だな。

我ながら情けなくて泣きたくなるが、他にどうしたら良いのか分からない。

最初は、俺が授業をサボることに眉をひそめていたイレースだったが。

最近ではイレースも心配になってきたのか、ちょくちょく部屋を訪ねてくる。

イレースだけじゃなくて、天音やシュニィも俺を心配して、しょっちゅう声をかけに来る。

が、そんな仲間達の気遣いにも、俺は応えられる状態じゃなかった。

情けないって思ってるんだよ。本当に。

でも駄目なんだ。

シルナが隣に居ないってだけで、こうも心が空虚になるとは。

シルナと二人なら負ける気がしない、って意気込んで決闘に臨んだのに。

引き離された途端、放心状態で戦意を失うなんて。

これじゃあ、俺はもう負けたようなもんだな。

決闘に負けるとか、もうどうでも良いから。

とにかくこの状態を何とかして欲しかった。

…いや、何とかする必要はあるのだろうか?

だってこの世界は…俺以外の人間は、皆幸せに過ごしている訳で。

シルナだって、色々問題はあるだろうが、故郷のイーニシュフェルトの里で、仲間達に囲まれて暮らしているはずだ。

俺に巡り合うこともなく、本来のイーニシュフェルトの賢者としての役目を果たしているはずだ。

…罪を犯さず、正しい道を歩めているはずだ。

本当にシルナのことを思うなら…シルナだけじゃない。仲間達のことを思うなら…。

俺は…この世界に順応し、この世界で生きていくべきなのではないか?

俺さえ我慢すれば…皆、幸せに…。

この一週間、ずっと考え続けてきたことが。

再び頭の中に浮かんで、また深い思考の波に呑まれそうになった、その時。

「こんにちは。入りますよ」

ノックもなしに、不躾に部屋に入ってくる者がいた。

「…ナジュ…」

「やっぱり、まだ落ち込んでるんですか?…イレースさんとかシュニィさんとか、皆心配してましたよ」

…そうか。

で、ここに来てくれたってことは、お前も心配して来てくれたんだろ?

仲間達が、こんなに気遣ってくれてるのになぁ…。

本当情けないって言うか…。…情けないよ。

「僕は別に、心配したって言うか…。最近のあなたが、あまりにもずっと突拍子もないことばかり言ってるから」

「あ…?」

「聖戦がどうのとか、神と神の戦争だとか、神殺しだとか…中二病発言連発してたじゃないですか」

元の世界では、紛れもなく本当に起きた出来事だったんだけどな。

それも、神妙な顔つきで語られるべき事象だった。

それなのに、この世界では「中二病発言」と一刀両断されるんだもんな。

泣きたくなるよ。
「挙げ句、イーニシュフェルトの里なんて都市伝説を本気にして、授業サボってまで図書館で調べ物して…」

「…」

「何か情報は見つかりました?」

「…いいや」

強いて言うなら、知りたくなかったことを知ってしまった程度だな。

イーニシュフェルトの里は、確かに存在していた。

多分そこに…シルナは居るのだろう。

…会いには行けないけど。

俺を知らないシルナになんて、会ったって仕方ない…。

「…またシルナ、シルナですか…。あなた、余程そのシルナって人が大切なんですね」

俺の心を読んだナジュが、そう言った。

…あぁ。

「大切だよ。…自分の命より、ずっと」

シルナにとって、「前の」俺が一番であるように。

俺にとってもまた、シルナは一番の存在だ。

自分の命より、ずっと大切な人間だ。

「あなたにとって、そのシルナさんって人は…僕にとってのリリスみたいな存在なんですね」

「恋人ではないけどな…。まぁ、大切の度合いで言えば、お前とリリスみたいなもんだよ」

「ふーん…」

と言って、ナジュはじっと俺を見つめた。

俺って言うか…俺の心の中を見ているんだろうけど。

いつもなら文句言うところだが、もう好きにしてくれ。

「…シュニィさん達は、あなたが誰かに騙されたり洗脳されて、おかしくなったんじゃないかって言ってます」

「…」

…そう見えるんだろうな。シュニィ達にとっては。

突然中二病発言を繰り返し、シルナ・エインリーなる人物のことを、しつこいほどに繰り返し。

シュニィ達にはさっぱり分からないのに、俺に「お前達も知っているはずだ。思い出せ」と迫られているのだから。

俺がおかしくなってしまったんじゃないかと、疑うのは当然だ。

俺にしてみれば、おかしいのはシルナを忘れているお前達の方なんだけどな。

「でも、僕はあなたがおかしいとは思ってませんよ…。心の中を見れば分かりますから」

「ナジュ…」

「おかしいと思うはずなんですけどね。あなたの心が、あまりにも真っ直ぐで純粋で…誰かに騙されたり、洗脳されているようには思えない」

「信じてくれるのか?俺が…本当のことを言ってるって」

この世界が、ハクロとコクロによって作り出された幻の世界だってこと。

こんな突拍子もない話を、本当に信じてくれるのか。

「常識ではとても信じられませんし、信じたくありませんけど…。あなたの心の有り様を見たら、信じざるを得ないんですよね」

ナジュは腕組みをして、難しい顔でそう言った。

「この世界があなたの言う通り、幻なんだとしたら…僕達の見ている現実は、全部偽物ってことになりますよね」

「あぁ…。偽物だよ」

「でも…前にも言いましたけど、僕は偽物でも良いと思ってます」

「…」

…そうだな。
もしこの世界が、全部偽物で…。

今目の前にある幸福が、誰かの作り出した幻想に過ぎないのだとしても…。

ここにいる、俺以外の全ての人が幸福に生きられてるいるなら。

別に、偽物でも幻想でも良いじゃないか。

「だって元の世界では、僕はリリスと離れ離れで、言葉を交わすことも触れ合うことも出来ないんでしょう?」

「…そうだよ」

「僕だけじゃなくて…イレースさんや天音さんやマシュリさん達も、それぞれ悲しい過去を持って…。その悲しい過去に、今も苦しめられてるんでしょう?」

「あぁ。そうだ」

「今ある幸福を手放して、そんな悲しい世界に帰りたいと望む人間は居ませんよ」

…分かってるよ。

だから皆、俺がおかしいって言うんだろう?

元の世界というものが、本当に存在するのだとしても。

そこに帰りたいと望む者は、一人もいない。

「だから、難しくあれこれ考えてるんですよね。どうするべきなのかって」

「そうだよ。…よく分かってるじゃないか」

「あなたの心に書いてますからね」 

そうだったっけ。

じゃあナジュには、今の俺の心ぐっちゃぐちゃになっているのも、バレバレってことか。

「ですが、難しく考える必要はありませんよ」

「…え?」  

「この世界は、あなた以外の全ての人間は幸福です」

それは知ってる。

でも、それがどう…、

「でも、あなただけは不幸です。あなたは自分を犠牲にして、他人の幸福を選びますか。それとも自分の幸福を諦めずに、他人の幸福を犠牲にしますか」

「…」

「その覚悟がありますか。…それだけの話です」

「…そういう、ことかよ」

「えぇ、そういうことです」

…酷く残酷な選択。

選べって言うのか。俺に。

自分を犠牲にすることで、この偽りの世界で仲間達の幸福を守るか。

仲間達の幸福を犠牲にすることで、自分が戻りたい世界に戻るか。

「…選べないよ、そんなこと」

「そうでしょうね。でも、選ばないといけないんでしょう?」

その通りだ。

このままずっと悶々と悩んでいても、何も解決しない。

動かなければ。行動しなければならない。

迷っていれば、いずれ元の世界に帰りたくても帰れなくなってしまうだろう。

根拠がある訳じゃないけど、そう感じるのだ。

元の世界に帰れる期限は、恐らく間近に迫っている。

「…俺は、どうしたら良いんだと思う?」

「…それは、僕には答えられませんね。その質問に答えられるのは、あなたの大切なシルナさんだけでしょう」

そうだな。

これは、俺と…それから、ここにはいないシルナの問題。

だから結局、俺が考えて、俺が決めるしかないのだ。

誰かに責任を背負わせる訳にはいかない。

俺が背負わなければならない覚悟、責任なのだ。

「…どうしたら良いのか、という質問には答えられませんけど」

ナジュはくるりと踵を返して、そう言った。
「あなたに一つだけ、言っておくことがあります」

「…何だよ?」

「あなたが僕達の為に、僕達の幸福を思ってくれているように…。僕達もまた、あなたの幸福を願っているんですよ」

…そ、れは。

「今の世界は、確かに幸せです。でもそれは僕達にとってそうであるだけで、あなたにとっては違う。いくら僕達が幸福でも…その幸福が、あなたの犠牲によって成り立っている仮初めの幸福なら…。僕達は心から、この幸福を享受することは出来ない」

「…質問には答えられない、んじゃなかったのか?」

思いっきり答えてるじゃないか。

「これは、あなたがどうするべきかを指示しているんじゃありません。ただ、僕らが心の中で考えていることを代弁しただけです」

「そうか」

「それと、個人的には…リリスと別れたくないので、僕はこの世界に居たいです」

「…そうか」

よく分かったよ。その気持ちは。

他にも、同じように思う者はいるだろうな。

俺の犠牲の上だということを承知で、今の自分の幸福を守りたいと思う者は。

そう思うことは罪じゃない。

自分が幸福じゃないと、仲間の幸福なんて考えられるはずがない。それは当たり前だ。

…だけど、それは俺も同じなんだ。

「それじゃ、よく考えてください」

「あぁ。…ありがとう」

「どういたしまして」

言いたいことを言って、ナジュは俺の部屋を出ていった。

…全く、自称イーニシュフェルト魔導学院のイケメンカリスマ教師、の名は伊達ではないな。

格好良過ぎだろ。

今までずっと胡散臭く思ってたけど、今度から改めるよ。

ナジュが、俺の心のモヤを晴らしてくれた。

そう。簡単なことだ。単純なことだ。

仲間の幸福を犠牲にしてまで戻りたいか。

それとも、自分を犠牲にして仲間の幸福を守るか。

俺は幸福になりたいか、否か。

選んだ選択の責任を取る覚悟が、あるか。

結局は、たったこれだけの単純な話なのだ。

どうやら俺は、難しく考え過ぎていたようだな。

仲間の為を思うなら、俺はここに残るべき。

だけど俺は…俺の幸福を諦められない。

いや、違う。

もっともっと…単純な話。

心の何処かで分かっていたのに、認めようとしなかった。

誰に対しても誠実であろうと、一生懸命仮面を被っていた。

だけど、もう目を逸らすのはやめるよ。