あまりにびっくりして、私は固まってしまったが。
小さな二十音は、私には全く目もくれず。
幼い子供らしく、無邪気な顔で駆けていった。
「あぁほら、そんなに走っちゃ駄目よ」
その二十音の後ろから、母親らしき女性が追いかけてきた。
追いかけてきたその母親にも、見覚えがあった。
二十音を座敷牢に閉じ込め、この化け物を引き取ってくれと私に頼んだ…。
あのときの、二十音の母親と同じ顔。
その母親が、無邪気にはしゃぐ二十音を抱き留めた。
「ご迷惑になってるじゃない。…ごめんなさい」
二十音を抱き上げて、母親はこちらに会釈した。
どうやら、私が聖賢者であることには気づいていないようだ。
二十音は無邪気な笑顔で、母親にしがみつき。
母親もまた、柔らかな笑顔を小さな二十音に向けた。
「さぁ、おうちに帰りましょうね」
そう言って、母親は二十音を抱いたまま歩き出した。
私は身動きもせず、ただ雷に打たれたように固まっていた。
…二十音。
あれは、確かに二十音だった。
この私が見間違うはずがない。
二十音が…何で、このイーニシュフェルトの里に。
しかも子供の姿で、母親と一緒に…外に出て。
「…聖賢者様?どうされました?」
珠蓮君が尋ねた。
私は、震える声で珠蓮君に聞き返した。
「い、今の…親子は?」
「?里が再建されたとき、新たに里の住民として移住した親子ですが…。…聖賢者様が移住の許可を出されたんですよね?」
…知らないよ、そんなこと。
何で二十音が…母親と一緒に…。
いや、何であの子が生きてるんだ?
しかも、あんな幼い子供の姿で…。
この世界の二十音は、私が邪神と一緒に殺したんじゃ…。
「確かあの親子は、魔導適性を持たないんですよね。魔導適性がない者でも、イーニシュフェルトの里に住む権利がある…。新たな里の在り方を示すモデルケースとして、あのように魔導適性のない家族を積極的に受け入れたと、そう聞いています」
と、珠蓮君が教えてくれた。
魔導適性がない…二十音。
私が近くにいたのに、私には目もくれなかった。
私を知らない、私の知らない二十音。
そのとき、私の中に一つの可能性が思い浮かんだ。
…転生。
そう、転生だ。
そういうこと。…そういうことなんだ。
あの子は二十音じゃない。死んだ二十音の…生まれ変わり。
愛されずに生まれ、望まれずに生かされていた二十音は。
邪神をその身に宿され、私に滅ぼされて死んだ後。
ようやく、自分を愛してくれる両親のもとに生まれ変わった…。
…そういう、ことだったんだ。
確証がある訳じゃない。
これはあくまで、私の仮説に過ぎない。
単なる他人の空似である可能性も、充分にある。
大体、ここはハクロとコクロが見せている、幻の世界なのだ。
幻なんだから、何でもアリだろう。
でも…何でもアリってことは、あの子が本当に私の推察した通り、二十音の生まれ変わりである可能性もあるってことだ。
…そう、そうだったんだね。
「…あはは…」
私は両手で顔を押さえ、タガが外れたように笑い出した。
だって、笑わずにいられる?こんなの。
「せ、聖賢者様…!?突然どうされたんですか?」
驚いた珠蓮君が、慌てて私に駆け寄ってきたけど。
そんなことは、私にはどうでも良かった。
笑えるよ。喜劇だよね、こんなの。
母親に抱かれて、無邪気に笑っていた二十音の顔を見た?
私のことなんて、まるで眼中になかった。
当たり前だ。さっき見た転生した二十音は、母親に愛されて育てられているのだから。
私に殺された二十音は、生まれ変わって、幸せな子供として、魔導適性も持たず。
特別な力なんて何も持たず、ただの平凡な子供として。
座敷牢に閉じ込められることも、家族に死を望まれることもなく。
今度こそ、幸せな子供として生きているのだ。
…私が、いなくても。
あの子はちゃんと、幸せになれたんだ。
それなのに私は、元の世界で二十音を…自分の隣に縛り付けている。
死ねば開放されるだろうに。生まれ変わって、あんなに幸せに暮らすことが出来たのに。
その可能性を、私がこの手で全部潰した。
何の為に?
私の為だ。
私の自分勝手な独りよがり。ただ私が一人になりたくないから。
それだけの理由で。
二十音に依存し、二十音に依存させ、神の器としての役目を押し付け。
私の罪に付き合わせ、私の身勝手の為にあの子を縛り付け…。
…私がちゃんと正しい道を選べていたら、二十音はこうして、幸せに生きられただろうに。
その可能性を、私は自分の身勝手のせいで潰してしまったのだ。
…これをどうして、笑わずにいられるだろう?
…ねぇ、二十音。私はどうしたら良い?
こんな幻の世界、何の価値もないと思っていたのに。
生まれ変わった、小さな君の姿を見て…私の心は酷く揺れ動いた。
ここは確かに、私にとっては虚しい世界だ。
でも、正しい世界だ。
誰にとっても、正しい世界。
本来元の世界も、こうであるべきだった。
私は己の役目を果たし、二十音は死ぬ。
でも生まれ変わって、私を知らない二十音になって、今度こそ愛してくれる母親のもとで、幸せに暮らしている。
二十音だけじゃない。
私が役目を果たしたお陰で、救われた人が大勢いる。
イレースちゃんも天音君もナジュ君も、令月君もすぐり君もマシュリ君も。
あのヴァルシーナちゃんでさえ、私の右腕として、私を慕い、支えてくれている。
そして、ヴァストラーナ族長も…。
皆私が正しい選択をしたことに喜び、そのお陰で救われている。
私が…自分の苦しみを押し殺して、ちゃんと正しい選択をしていれば。
きっと元の世界も、こんな風に誰もが幸せな世界だっただろうに。
今からでも遅くないって、そう言っているのだろうか。
今からでも遅くないから、お前は罪の十字架を背負って、この正しい世界で生きていけと。
例え幻でも、この正しい世界で。
私が犯した罪の、責任を取れと。
「…二十音」
こんなにも私は、君を一番大切に思っているのに。
世界にとって一番大切なことは、私の大切なこととは違うんだ。
ねぇ。二十音…私、どうしたら良いと思う?
――――――…ハクロとコクロが見せる、幻の世界にやって来て。
…シルナの存在しない、偽りの世界にやって来て、およそ一週間が経過した。
とはいえ、それはこちらの世界の時間であり。
元の世界で、どれくらい時間が経過しているのかは分からない。
もしかしたら、1分とか、一時間くらいしか経ってないのかもしれないし。
あるいは…一ヶ月、一年くらい経っているのかもしれない。
もしそれくらい経ってるんだとしたら、もう決闘終わってんな。
果たしてどうなってるんだろう。
元の世界のことも気になるが、俺はこの一週間で、この世界のことをより詳しく調べた。
…と言っても、大したことは分かっていない。
ただ、この世界にはシルナが存在していないから。
シルナの存在しないことによって、果たしてどんな風に、この国の歴史が変わっているのかを確認しただけだ。
もっと詳しく言うと…大昔に起きたという、邪神と聖神の戦争、とか。
イーニシュフェルトの里とか。神殺しの魔法とか。
大昔に起きたという聖戦、俺も口伝えでしか聞いてないけど。
神殺しの魔法を使ってあの聖戦を終わらせたのは、他でもないシルナの功績である。
この世界にシルナが存在していないのだったら、聖戦は終わらず、邪神が統べる世界になってしまう。
…はずだった。
それなのに、今この世界を見てみると良い。
邪神も聖神も、聖戦の話も…一度も耳にしていない。
これはどういうことなのか。
調べてみて分かった。
結論から言うと…この世界にも、一応、シルナは存在しているらしい。
ただ、俺の前に姿を現すことはない。
この世界のシルナは、俺と出会うことはない。
何だかややこしい話ばかりして、大変申し訳無いが。
この世界ではどうも、元の世界であったような、聖神と邪神の戦争は起きていないらしい。
聖戦に関する歴史の記述が、全く残されていないのである。
…まぁ、敢えて記録から抹消されているだけで、もしかしたらあったのかもしれないが。
だけど多分、聖戦が起きなかったというのは事実なのだろう。
この世界に来たときから、ずっと気になっていた。
普段、俺の中には常に…この身体の中に封印されている邪神の気配を感じていた。
いつもは、シルナが俺の身体の奥深くに邪神を封印してくれているから、気にすることはなかったが。
こうしてなくなってみると、よく分かる。
自分の中身が空っぽになったような…。
…なんつーか、内臓一つ二つ失ったような気がする。
いや、比喩だけどさ。
この世界では、俺の中に邪神がいない。
そのせいなのだろうか?…「前の」俺が出てくる気配も、全く無いのだ。
聖戦が起きなかった。俺の肉体に邪神が宿ることもなかった。
聖戦が起きなければ、神殺しの魔法が使われなかったら、俺がシルナと出会う機会はない。
俺の横にシルナがいないのは、多分それが原因なのだ。
その代わり…と言ってはなんだが。
聖戦の記述は見つけられなかったが、イーニシュフェルトの里に関する記述を見つけることは出来た。
図書館で、俺はひたすら歴史の書物を読み漁っていた。
え、授業はどうしたのかって?
悪いけど、しばらく自習にさせてもらった。
授業なんかやってる場合じゃないから。今は。
その代わりにずっと、図書館に入り浸って。
そりゃもう血眼になって、ひたすら歴史の書物を読んだ。
それで分かったのだ。
この世界にも、イーニシュフェルトの里は存在している。
イーニシュフェルトの里と言えば、シルナの故郷である。
イーニシュフェルト魔導学院は、このイーニシュフェルトの里をあやかって名付けられた学院だ。
この世界においてイーニシュフェルトの里は、さながら伝説の秘境であった。
聖戦が起きていないのだから、今日に至るまで里が存続しているのも頷ける。
聖戦が起き、神殺しの魔法でシルナ以外の全員が死んでしまったから、里は滅びてしまったのであって。
それがなければ、里は今でも存続していた。
…そして多分、シルナはそこにいる。
今も、生まれ故郷のイーニシュフェルトの里に。
会いに行きたい、と思った。
でも同時に、それが不可能であることも分かっていた。
まず第一に、里の場所が分からない。
本に書いてあったイーニシュフェルトの里は、あくまで都市伝説のように語られていた。
世界の何処かにそんな場所があるらしい、くらいしか書いてなかった。
詳しい所在地なんて、とてもじゃないけど分からない。
無理もないだろう。
シルナが言っていた。イーニシュフェルトの里は元々、閉鎖的で保守的な土地柄。
外界と徹底的に交流を断ち、里で研究される魔導科学が外に漏れないよう、厳重に隠されている。
里の賢者達は、俺より遥かに優れた魔導師の集まりなのだ。
俺程度が探しても、多分何千年経っても見つけられないだろう。
…それに。
諸々のハードルを乗り越えて、イーニシュフェルトの里に辿り着いたとしても。
…間違いなく、そこにいる「シルナ・エインリー」は…俺の知るシルナとは別人だ。
イレース達がシルナを知らないように、シルナもまた、俺のことを知らないはずだ。
もし俺を知っているなら、会いに来てくれないはずがない。
俺を知らないシルナ。…俺の知らないシルナ。
例え里に忍び込めたとしても、そんなシルナに会って、自分が正気でいられるとは思えなかった。
…とてもじゃないけど、会いになんて行けない。
こうなったら、もうお手上げだった。
一週間が過ぎ、図書館で調べることもすっかり調べ尽くし。
何もやることがなくなった俺は、ひたすら自分の部屋で座り込み、虚空を見上げていた。
放心状態…って奴だな。
我ながら情けなくて泣きたくなるが、他にどうしたら良いのか分からない。
最初は、俺が授業をサボることに眉をひそめていたイレースだったが。
最近ではイレースも心配になってきたのか、ちょくちょく部屋を訪ねてくる。
イレースだけじゃなくて、天音やシュニィも俺を心配して、しょっちゅう声をかけに来る。
が、そんな仲間達の気遣いにも、俺は応えられる状態じゃなかった。
情けないって思ってるんだよ。本当に。
でも駄目なんだ。
シルナが隣に居ないってだけで、こうも心が空虚になるとは。
シルナと二人なら負ける気がしない、って意気込んで決闘に臨んだのに。
引き離された途端、放心状態で戦意を失うなんて。
これじゃあ、俺はもう負けたようなもんだな。
決闘に負けるとか、もうどうでも良いから。
とにかくこの状態を何とかして欲しかった。
…いや、何とかする必要はあるのだろうか?
だってこの世界は…俺以外の人間は、皆幸せに過ごしている訳で。
シルナだって、色々問題はあるだろうが、故郷のイーニシュフェルトの里で、仲間達に囲まれて暮らしているはずだ。
俺に巡り合うこともなく、本来のイーニシュフェルトの賢者としての役目を果たしているはずだ。
…罪を犯さず、正しい道を歩めているはずだ。
本当にシルナのことを思うなら…シルナだけじゃない。仲間達のことを思うなら…。
俺は…この世界に順応し、この世界で生きていくべきなのではないか?
俺さえ我慢すれば…皆、幸せに…。
この一週間、ずっと考え続けてきたことが。
再び頭の中に浮かんで、また深い思考の波に呑まれそうになった、その時。
「こんにちは。入りますよ」
ノックもなしに、不躾に部屋に入ってくる者がいた。
「…ナジュ…」
「やっぱり、まだ落ち込んでるんですか?…イレースさんとかシュニィさんとか、皆心配してましたよ」
…そうか。
で、ここに来てくれたってことは、お前も心配して来てくれたんだろ?
仲間達が、こんなに気遣ってくれてるのになぁ…。
本当情けないって言うか…。…情けないよ。
「僕は別に、心配したって言うか…。最近のあなたが、あまりにもずっと突拍子もないことばかり言ってるから」
「あ…?」
「聖戦がどうのとか、神と神の戦争だとか、神殺しだとか…中二病発言連発してたじゃないですか」
元の世界では、紛れもなく本当に起きた出来事だったんだけどな。
それも、神妙な顔つきで語られるべき事象だった。
それなのに、この世界では「中二病発言」と一刀両断されるんだもんな。
泣きたくなるよ。
「挙げ句、イーニシュフェルトの里なんて都市伝説を本気にして、授業サボってまで図書館で調べ物して…」
「…」
「何か情報は見つかりました?」
「…いいや」
強いて言うなら、知りたくなかったことを知ってしまった程度だな。
イーニシュフェルトの里は、確かに存在していた。
多分そこに…シルナは居るのだろう。
…会いには行けないけど。
俺を知らないシルナになんて、会ったって仕方ない…。
「…またシルナ、シルナですか…。あなた、余程そのシルナって人が大切なんですね」
俺の心を読んだナジュが、そう言った。
…あぁ。
「大切だよ。…自分の命より、ずっと」
シルナにとって、「前の」俺が一番であるように。
俺にとってもまた、シルナは一番の存在だ。
自分の命より、ずっと大切な人間だ。
「あなたにとって、そのシルナさんって人は…僕にとってのリリスみたいな存在なんですね」
「恋人ではないけどな…。まぁ、大切の度合いで言えば、お前とリリスみたいなもんだよ」
「ふーん…」
と言って、ナジュはじっと俺を見つめた。
俺って言うか…俺の心の中を見ているんだろうけど。
いつもなら文句言うところだが、もう好きにしてくれ。
「…シュニィさん達は、あなたが誰かに騙されたり洗脳されて、おかしくなったんじゃないかって言ってます」
「…」
…そう見えるんだろうな。シュニィ達にとっては。
突然中二病発言を繰り返し、シルナ・エインリーなる人物のことを、しつこいほどに繰り返し。
シュニィ達にはさっぱり分からないのに、俺に「お前達も知っているはずだ。思い出せ」と迫られているのだから。
俺がおかしくなってしまったんじゃないかと、疑うのは当然だ。
俺にしてみれば、おかしいのはシルナを忘れているお前達の方なんだけどな。
「でも、僕はあなたがおかしいとは思ってませんよ…。心の中を見れば分かりますから」
「ナジュ…」
「おかしいと思うはずなんですけどね。あなたの心が、あまりにも真っ直ぐで純粋で…誰かに騙されたり、洗脳されているようには思えない」
「信じてくれるのか?俺が…本当のことを言ってるって」
この世界が、ハクロとコクロによって作り出された幻の世界だってこと。
こんな突拍子もない話を、本当に信じてくれるのか。
「常識ではとても信じられませんし、信じたくありませんけど…。あなたの心の有り様を見たら、信じざるを得ないんですよね」
ナジュは腕組みをして、難しい顔でそう言った。
「この世界があなたの言う通り、幻なんだとしたら…僕達の見ている現実は、全部偽物ってことになりますよね」
「あぁ…。偽物だよ」
「でも…前にも言いましたけど、僕は偽物でも良いと思ってます」
「…」
…そうだな。
もしこの世界が、全部偽物で…。
今目の前にある幸福が、誰かの作り出した幻想に過ぎないのだとしても…。
ここにいる、俺以外の全ての人が幸福に生きられてるいるなら。
別に、偽物でも幻想でも良いじゃないか。
「だって元の世界では、僕はリリスと離れ離れで、言葉を交わすことも触れ合うことも出来ないんでしょう?」
「…そうだよ」
「僕だけじゃなくて…イレースさんや天音さんやマシュリさん達も、それぞれ悲しい過去を持って…。その悲しい過去に、今も苦しめられてるんでしょう?」
「あぁ。そうだ」
「今ある幸福を手放して、そんな悲しい世界に帰りたいと望む人間は居ませんよ」
…分かってるよ。
だから皆、俺がおかしいって言うんだろう?
元の世界というものが、本当に存在するのだとしても。
そこに帰りたいと望む者は、一人もいない。
「だから、難しくあれこれ考えてるんですよね。どうするべきなのかって」
「そうだよ。…よく分かってるじゃないか」
「あなたの心に書いてますからね」
そうだったっけ。
じゃあナジュには、今の俺の心ぐっちゃぐちゃになっているのも、バレバレってことか。
「ですが、難しく考える必要はありませんよ」
「…え?」
「この世界は、あなた以外の全ての人間は幸福です」
それは知ってる。
でも、それがどう…、
「でも、あなただけは不幸です。あなたは自分を犠牲にして、他人の幸福を選びますか。それとも自分の幸福を諦めずに、他人の幸福を犠牲にしますか」
「…」
「その覚悟がありますか。…それだけの話です」
「…そういう、ことかよ」
「えぇ、そういうことです」
…酷く残酷な選択。
選べって言うのか。俺に。
自分を犠牲にすることで、この偽りの世界で仲間達の幸福を守るか。
仲間達の幸福を犠牲にすることで、自分が戻りたい世界に戻るか。
「…選べないよ、そんなこと」
「そうでしょうね。でも、選ばないといけないんでしょう?」
その通りだ。
このままずっと悶々と悩んでいても、何も解決しない。
動かなければ。行動しなければならない。
迷っていれば、いずれ元の世界に帰りたくても帰れなくなってしまうだろう。
根拠がある訳じゃないけど、そう感じるのだ。
元の世界に帰れる期限は、恐らく間近に迫っている。
「…俺は、どうしたら良いんだと思う?」
「…それは、僕には答えられませんね。その質問に答えられるのは、あなたの大切なシルナさんだけでしょう」
そうだな。
これは、俺と…それから、ここにはいないシルナの問題。
だから結局、俺が考えて、俺が決めるしかないのだ。
誰かに責任を背負わせる訳にはいかない。
俺が背負わなければならない覚悟、責任なのだ。
「…どうしたら良いのか、という質問には答えられませんけど」
ナジュはくるりと踵を返して、そう言った。
「あなたに一つだけ、言っておくことがあります」
「…何だよ?」
「あなたが僕達の為に、僕達の幸福を思ってくれているように…。僕達もまた、あなたの幸福を願っているんですよ」
…そ、れは。
「今の世界は、確かに幸せです。でもそれは僕達にとってそうであるだけで、あなたにとっては違う。いくら僕達が幸福でも…その幸福が、あなたの犠牲によって成り立っている仮初めの幸福なら…。僕達は心から、この幸福を享受することは出来ない」
「…質問には答えられない、んじゃなかったのか?」
思いっきり答えてるじゃないか。
「これは、あなたがどうするべきかを指示しているんじゃありません。ただ、僕らが心の中で考えていることを代弁しただけです」
「そうか」
「それと、個人的には…リリスと別れたくないので、僕はこの世界に居たいです」
「…そうか」
よく分かったよ。その気持ちは。
他にも、同じように思う者はいるだろうな。
俺の犠牲の上だということを承知で、今の自分の幸福を守りたいと思う者は。
そう思うことは罪じゃない。
自分が幸福じゃないと、仲間の幸福なんて考えられるはずがない。それは当たり前だ。
…だけど、それは俺も同じなんだ。
「それじゃ、よく考えてください」
「あぁ。…ありがとう」
「どういたしまして」
言いたいことを言って、ナジュは俺の部屋を出ていった。
…全く、自称イーニシュフェルト魔導学院のイケメンカリスマ教師、の名は伊達ではないな。
格好良過ぎだろ。
今までずっと胡散臭く思ってたけど、今度から改めるよ。
ナジュが、俺の心のモヤを晴らしてくれた。
そう。簡単なことだ。単純なことだ。
仲間の幸福を犠牲にしてまで戻りたいか。
それとも、自分を犠牲にして仲間の幸福を守るか。
俺は幸福になりたいか、否か。
選んだ選択の責任を取る覚悟が、あるか。
結局は、たったこれだけの単純な話なのだ。
どうやら俺は、難しく考え過ぎていたようだな。
仲間の為を思うなら、俺はここに残るべき。
だけど俺は…俺の幸福を諦められない。
いや、違う。
もっともっと…単純な話。
心の何処かで分かっていたのに、認めようとしなかった。
誰に対しても誠実であろうと、一生懸命仮面を被っていた。
だけど、もう目を逸らすのはやめるよ。