神殺しのクロノスタシスⅤ〜後編〜

――――――…最初に、いろりの姿になって学院に潜入したそのときから。

ずっと気になっていた。この人のこと。

この人の中にリリス様がいることは、初見で気がついた。

見た目云々じゃなくて、匂いで分かった。

姿形が変わっていても、中身は変わらない。

この匂いは、間違いなくリリス様だった。

同時に、僕は困惑したものだ。

僕は当初、猫の姿になってイーニシュフェルト魔導学院に潜入し、学院長シルナ・エインリーを暗殺するつもりだった。

しかし、結局その計画は白紙にした。

その理由は、皆にも言った通り。

予想以上に歓迎されてしまって、つまり、情に絆されたからであり…。

そしてもう一つ、このリリス様の存在が気がかりだったからだ。

かつて冥界の女王として君臨していたリリス様。

しかしリリス様は、いつの頃からか冥界を出ていった。

続いて僕も、居場所をなくして冥界を出て…現世にやって来て。

それ以来、リリス様の姿を目にする機会はなかった。

彼女が何処に行ったのか、誰にも分からなかった。

それなのに僕は、ここで…イーニシュフェルト魔導学院で、リリス様の姿を見つけた。

リリス様の方も、すぐに僕だと気づいたはずだ。

しかし僕が見つけたリリス様は、かつての姿とは全く違っていた。

リリス様と同じ匂いがする、この知らない男は誰なんだ。

それに、確かにリリス様の匂いがするのに、その匂いは以前と少し変わっていた。

こう見えて、僕は嗅覚には自信があるのだ。

リリス様の魂に…別の人間が混じったような…。

まるで、この男とリリス様が融合して、別の生き物になったような…。

そんな、異質な匂いがするのだ。

…僕も人のことは言えないけど。

リリス様なのにリリス様じゃない。この人は一体誰なのか。

それが気になって、余計にイーニシュフェルト魔導学院の教師陣に手を出すことが躊躇われた。

例えどんな姿だろうと、この人はリリス様だ。

『HOME』やアーリヤット皇王はさておき。

僕は、リリス様を裏切るつもりはなかった。

冥界の番人…ケルベロスは、女王であるリリス様に使えし眷属だから。

リリス様を守りはしても、傷つけることは有り得ない。

それ故に、僕は知りたかった。

冥界を出ていってから、今のリリス様に何があったのか。

リリス様と融合(?)したこの男が、何者なのか。

僕は、他でもないリリス様の口から説明を聞きたかった。

だからこそ、イーニシュフェルト魔導学院に来て二日目になるこの日の晩。

彼の…ルーチェス・ナジュ・アンブローシアの部屋を訪ねたのである。
予告もなしに訪ねていったのに、彼はまるで僕を待っていたかのように。

ベッドに腰掛けて、両足を組んで僕を待ち構えていた。

「僕が来ること…分かってたの?」

「えぇ、まぁ。学院に来たときから、ずっと何か言いたそうでしたからね」

「…」

「そろそろ来るんじゃないかと思ってました」

…やっぱり、そうだったんだ。

「…君は…読心魔導師、なんだよね?学院長達が言ってた」

「えぇ、そうです」

…心を読む…読心魔法。

さり気なく使ってるけど、かなり特殊な魔法なんじゃないだろうか。

僕は魔導師ではないから、それがどんな性質の魔法なのか知らないが…。

でも、少なくとも…リリス様には、人の心を読むような能力はなかった。

「それは…リリス様の脳力?じゃないよね?」

「はい。読心魔法はリリスではなく、僕の能力です」

「…君は何なの?リリス様の眷属…?」

最初僕は、リリス様がこの男を触媒にして、体内に寄生しているのかと思っていた。

魔物にとって現世で暮らすのは、故郷を離れて外国に暮らすようなものだ。

現世の空気は肌に馴染まないし、居心地も良くない。

だから、リリス様はこの男を宿主にして、肉体を共有しているのかと思った。

…しかし。

「違いますよ。僕はリリスの…。…恋人であり、元契約者です」

ルーチェス・ナジュ・アンブローシアは、僕に向かって自らをそう説明した。

…恋人であって、元契約者?

それは…言葉通りの意味なのだろうか?

「えぇ、言葉通りです」

「君は…何?…召喚魔導師?」

「元々はそうでした。子供の頃にリリスと契約して…それ以来、ずっと一緒にいます」

驚いた。

あのリリス様が、よもや人間と契約して、契約召喚魔になるとは。

孤高の存在であったリリス様が…。

…それほどに…彼女は孤独に苛まれ、追い詰められていたのだろうか。

冥界にいた頃の、僕の知るリリス様は…とても威厳のある方だったけど、いつも何処か悲しそうな雰囲気を纏っていた。

『獣の女王』と呼ばれ、恐れ、畏怖されることを、酷く重荷に感じていたんだと思う。

何処か、僕と通じるところがあった。

僕はリリス様の孤独を理解出来たし、リリス様も多分、そうだったと思う。

だから…リリス様が突然、僕達眷属を置き去りにして、冥界を出て現世に行ってしまわれたときも。

僕はそれほど驚きはしなかった。

孤独に耐えられなくなったんだな、と思っただけだ。

その気持ちはよく分かる。

かく言う僕だって…冥界での暮らしに耐えられなくなって、現世に逃げてきた身なのだから…。

だが、どうやら…僕とリリス様が辿ってきた遍歴は、大きく異なっているようだ。

僕は冥界を出てから一度として、契約者となる召喚魔導師と出会うことはなかった。

しかしリリス様は、御身を捧げても構わないと思える相手に…契約者に、出会うことが出来たらしい。

それが、今僕の目の前にいる男。

ルーチェス・ナジュ・アンブローシアその人である。
この男が、リリス様のお眼鏡に適ったのか。

しかも…契約者であるだけではなく。

今…恋人…と言わなかったか?

「君は…リリス様の恋人、なの?」

「えぇ、そうです。僕はリリスの恋人です」

自慢でもするかのように、きっぱりと言った。

…恋人、恋人ね。

どうやら、この男が一方的にそう思い込んでいるだけ…という訳じゃなさそうだ。

人間と…魔物が…。

「驚くようなことではないでしょう?人間と魔物が恋仲になる…。…あなたなら、よく知っているはずですよ」

「…勿論、嫌と言うほどよく知ってるよ」

それは皮肉か。

人間と、契約した魔物が結ばれ…その結果生まれた異形の成れの果て。

リリス様も、僕の祖先と同じ過ちを…。

それほどまでに、あの方は…強く思い詰めて…。

…。

「…君がリリス様の契約者だってことは分かった」

それは納得しよう。

リリス様は孤独に苦しんでおられた。だからこそ、人間と契約することでその孤独を紛らわせようとしたのだろう。

彼女は僕と違って、異形のバケモノなどではない。

誰より強く、そして美しい方だ。

契約者を見つけることも、僕よりずっと容易いだろう。

そんなリリス様に選ばれたのが、このナジュという男…。

…それで?

「君はどうして、契約のみならず…リリス様をその身に宿している?」

魔物と召喚魔導師の契約は、あくまで召喚魔導師の血と魔力を対価に、魔物の力を貸すだけに留まる。

魔物と融合する契約、なんて聞いたことがない。

この二人が、通常の契約関係ではないのは明らかだ。

「リリス様は何処に…?」

「…いますよ、僕の中に」

ナジュという男の中に…?

「あなたはどうやら、リリスが僕の身体を乗っ取って支配している…と思ってるようですが」

…違うのか?

てっきり僕は、リリス様が契約によってこの男を利用しているものだと…。

「違います。むしろ逆ですよ…リリスは僕を守る為に、僕にその身を捧げてくれたんです」

「…」

「肉体を失っても…僕を生かすことを選んでくれたんです。…愛しているが故に」

…魔物と人間の愛。

その為にリリス様は、自らの肉体を失ってでも…ナジュを生かしたのか。

その人と融合することによって、リリス様は愛する者との永遠を手に入れたのだ。

しかし、それがどれほど残酷な選択肢だったか。

そのせいで、どれほどこの二人が苦しんで生きてきたか。

心を読めない僕には、推し量ることは出来なかった。
「リリス様が…君の中に…」

「言っておきますけど、消えた訳じゃありませんよ。精神世界…心の中で会うことが出来るんです」

心の中で?

リリス様が消えた訳ではないことは、僕にも分かった。

姿形は違っても、リリス様の匂いがするから。

むしろ…この肉体は、ナジュよりもリリス様の匂いの方が強いくらいだ。

それなのにどうして、この身体の主導権を握っているのはリリス様じゃないんだろう…?

「…どうやら、リリスに色々聞きたいことがあるようですね」

「…」

「分かりました。滅多にこういうことはしないんですが…。…ちょっと呼んできますね」

…呼んでくる?

って、誰を…と思ったが。

その答えは、すぐに分かった。

突如として、リリス様の気配…その匂いが濃くなったから。

「…久し振りだね。…マシュリ君」

「…リリス様…」

目の前に現れたのが、ナジュではなく、リリス様本人だとすぐに理解した。

身体の中で、ナジュとリリス様が「入れ替わった」のだ。

…本物だ。

ナジュがリリス様を演じているのではなく…本当に、リリス様が…。

姿形は違っても、目の前にいるのは確かにリリス様だった。

…あぁ、何ということだろう。

リリス様がこのような…人間の紛い物のような姿になるなんて。

冥界にいた頃には、考えられなかった。

それほどまでにリリス様は…。

「…お労しいお姿に」

「…そうかな?…君の目にはそう映るかもね」

ナジュの身体を使って、リリス様は話していた。

「だけど、私は満足してるよ…。ナジュ君と、好きな人と一緒にいる為には、こうするしかなかったんだ」

「…」

…本当に、それほどまでに。

リリス様は、孤独に耐えられなくて…。

「…君達を見捨てて、冥界を出てしまったこと…ずっと気がかりだった。…ごめんね」

「…いいえ」

その件で、リリス様を恨んだことは一度もない。

同種のケルベロスの中では、突然消えていなくなったリリス様に憤慨し、失望している者も多かった。

だが、僕はそうは思わなかった。

リリス様がいなくなったと聞いても、何処か納得している自分がいた。

孤独というものは、それほどに耐え難いものだから。

…だから…。

「…良かったです」

今こうして、リリス様の「お姿」を拝見して。

僕はホッとしていた。良かったと思っていた。

「…良かった…?何が?」

「あなたは冥界を出て、放浪の果てに…ご自分の居場所を見つけらたのですね」

ナジュという青年の傍にいる。一生、ずっと。

不死身の身体が朽ち果てるまで。

それまでずっと、この青年と共にある。

それがリリス様の出した答え。

その答えに納得して、満足して、幸せに暮らしているのであれば…。

例えどのような姿だとしても、幸福なことじゃないか。

僕はリリス様の臣下…眷属として、主君の幸福を願っているだけだ。

リリス様がご自分の居場所を見つけられて、本当に良かった。

心からそう思う。
「私を恨まないの…?」 

恨む?まさか。

「あなたには感謝こそすれ、恨みなど全くありません」

リリス様は冥界にいた頃からずっと、僕に優しかった。

同種からも他種族からも疎まれ、迫害されていた僕を、彼女だけは差別しなかった。

あの頃僕は、リリス様が慈悲の気持ちで、僕に情けをかけてくれているのだろうと思っていた。

でも、そうじゃなかったんだな。

自身もまた、人間の契約者と結ばれて、その身を捧げてまで共にあろうとした。

リリス様は慈悲ではなく、真心から僕を庇ってくれていたのだ。

今になってようやく、それが分かった。

その上で、どうして僕がリリス様に恨み言をぶつけるなどということが出来ようか。

リリス様は、僕の理解者だった。

ならば僕もまた、リリス様の理解者となろう。

「…あなたに、またお会い出来て良かった。僕は臣下として、リリス様の幸福を願っています」

「…マシュリ君…。…ありがとう」

リリス様が長い旅路の果てに、自分の居場所を見つけられて良かった。

羨ましい。

僕も、そうだったら良かったのに。

「マシュリ君、私がこんなこと言えた義理じゃないかもしれないけど…。君さえ良ければ、君もずっとここに…」

リリス様は、僕を心配しているような口調でそう言った。 

お世辞じゃなくて、本心からそう言ってくれているのだと分かる。

…相変わらず、お優しい方だ。

ナジュという男は幸せ者だな。リリス様に愛されて。

「…ありがとうございます」

その気持ちは、有り難く受け取っておく。

…でも…そういう訳にはいかない。

どれほど寂しくて、辛くて…自分の居場所に恋い焦がれても。

決してその場所に、僕の手が届くことはないのだ。

「ですが…僕には無理です。あなたもお分かりでしょう…?」

「…」

リリス様は答えず、黙り込んでしまった。

そう、駄目なんですよ。あなたも分かっていると思うけど。

あなたの手は届いた。

でも、僕の手は届かない。

だからってリリス様を妬む気持ちはない。

リリス様が手に入れられたものを、僕はどうやっても手に入れることは出来ない。

どうしようもない、これが僕の定めなのだ。

…せめてリリス様だけでも、僕達が恋い焦がれていたものを手に入れられて良かった。

そう思うしかない。

「お話出来て光栄でした、リリス様…」

「マシュリ君…」

「お姿が変わっても、変わらず僕はあなたの臣下です。必要があれば、何でもお申し付けください」

多くの同胞がそうしたように、僕はリリス様を見限るような真似はしなかった。

…せめて僕だけは、リリス様のお役に立とう。

どうせ僕は…ここには長く居られないのだから。

だからせめて、そのときまでは…。
――――――…マシュリとナジュが、深夜に密会した翌日。




生徒達もいろりが戻ってきて安心して、俺達もシュニィが戻ってきて安心して。

一件落着、ホッと一息ついていたその頃。

イーニシュフェルト魔導学院に、とある人物が訪ねてきた。

…誰かと思えば。

「…うわっ、ルディシア…」

「…人の顔を見て『うわっ』とは…。ちょっと失礼なんじゃないの?」

ごめん、お前の顔を見るとつい、ゾンビ軍団を思い出してしまって。

学院を訪ねてきたのは、かつて俺達と敵対していた、ネクロマンサーのルディシア・ウルリーケであった。
しばらく見ないと思ったが、ちゃんと国内に…帝都にいたんだな。

ルディシアは、マシュリと違って学院ではなく、聖魔騎士団の方に世話になっているそうなので。

マシュリみたいに、毎日俺達と顔を合わせることはない。

「悪かったよ…。別に他意はないから安心してくれ」

「…ふーん…」

と、どうでも良さそうなルディシアである。

こいつも大概図太いよな。

それに対してマシュリがあまりにも繊細だから、この二人はお互いの性格を足して二で割るべきだな。

「どうだ、ルディシア…。聖魔騎士団…いや、ルーデュニア聖王国の居心地は?」

この際だから、改めて感想を聞いておこう。

特に、アーリヤット皇国と比べてどう思う?

彼の国より、我が国の方が居心地が良いのではないか…という、ちょっとした対抗意識の現れである。

誰しも、自分の国が一番だと思いたいもんだ。

住めば都って言うしな。

「何?いきなり…」

「良いから、率直な意見を頼むよ」

「ふーん…?まぁ、悪くはないんじゃない?」

…だ、そうだ。

悪くないじゃなくて、良いって言って欲しかったな。

贅沢かもしれないが。

まぁルディシアは素直じゃないから、口では悪くないとか言いながら。

心の中では「居心地最高!」って思ってるかもしれない。

そういうことにしておこう。

…しかし。

「気持ち悪いくらい誰も彼も親切で、気持ち悪いね」

「…」

…本当素直じゃないよな。

それとも何だ。本気で気持ち悪がってるのか?

どうすれば良いんだよ。むしろ冷たくされた方が落ち着くタイプ?

ドMかよ。マシュリと一緒じゃん。

「あのな、ルディシア…」

「そんなことより、あいつは何処?」

そんなことって何だよ。大事なことだろ。

…あいつ?

「誰だ?あいつって…」

「この学院で、もう一人『HOME』の軍属魔導師を保護してるって聞いたけど?」

あぁ、成程。

ルディシアが誰のこと言ってるのか分かった。

「マシュリだな?」

「そんな名前なの?知らないけど」

おいおい。

同僚だったんじゃないのかよ。名前も知らないのか…?

いくら、ルディシアが他人に興味ない性格と言っても…。

「マシュリに会いに来たのか?あいつなら今…多分猫になってると思うけど」

昼間の間は、生徒達に見られても良いように、猫としていろりの姿で生活し。

生徒達が学生寮に帰る頃になったら、人間の…マシュリの姿に戻る。

今のところ、それで上手いこと折り合いをつけているようだ。

今は昼間だから、多分いろりの姿だな。

「猫?」

「『変化』の力だよ…。…本当に知らないのか?お前…」

「知ったことじゃないね。『HOME』には半端者…。リカント(獣人)が所属してる、とは聞いてたけど」

随分アバウトな情報だな。

その程度の認識しかなかったのか?同僚なのに…。

聖魔騎士団魔導部隊の大隊長達は、割と皆仲が良いから。

同僚なのに、お互いの能力どころか名前すら知らない、という遠い距離感を理解し難い。

「おぞましいリカントだけど、利用価値はある…って噂だったのに、あっさり裏切ったそうじゃん?」

ルディシアは、意地悪く笑いながらそう言った。

…お前…。

本当、マシュリに比べると性格悪い。
「おぞましいとか利用価値とか、本人に言うなよ。…あと、マシュリは何処もおぞましくなんかない」 

何処からどう見ても、普通の猫であり…普通の人間だ。

強いて言うなら、あいつが他の人と違っているのは、『変化』の力が使えることと。

ちょっと…ちゅちゅ~るに目がないだけだ。

それ以外は、至って普通の人間にしか見えない。

何がおぞましいんだ?

シルナの分身、シルナトコジラミの方がよっぽどおぞましいだろ。

ついでに言うなら。

別におぞましくはないが、ルディシアの死体を操るネクロマンサーの能力…あれも相当、おどろおどろしいと思うぞ。

それと一緒だ。マシュリの『変化』能力だって…確かに初見は驚くけど。

種明かしをしてみれば、大して驚くに値しない。

何故あれでマシュリがバケモノ呼ばわりされるのか、俺にはさっぱり分からない。

皆、あまりにも心が狭過ぎるのでは?

人の多様性を認められない社会に、明るい未来はないぞ。

「あんたらはそう言うだろうけど、周囲の人間はそうは思わないってことだよ」

「…そりゃ、そいつらの心が狭いんだよ」

そんな心の狭い奴らの言うこと、いちいち真に受ける必要はないぞ。

「大体、マシュリは…」

と、俺が口を開いたそのとき。

開けっ放しにしていた窓から、ひゅんっ、と物陰が降り立った。

何かと思ったら。

銀色の毛並みをした猫…件のいろり、いや。

いろりの姿に『変化』した、マシュリであった。

噂をすれば。

空中でくるりと一回転したいろりは、マシュリの姿に戻った。

何度見ても…まさに魔法だな。

「マシュリ…お前、来たのか…」

昼間だから、いろりの姿で日向ぼっこでもしてるものだと。

すると。

「中庭にいたんだけど、どうも…死体臭い匂いがしたから」

…マジ?

「ネクロマンサーが来たんだろうと思って、戻ってきた」

「…そんな遠くまで、匂いで分かるものなのか…?」

学院長室と中庭。かなりの距離があるはずなのだが?

窓を開けっ放しだったとは言え…。壁を隔てているのに、そんなに匂いが届くものなのか。

猫以上、どころか犬以上では?

「ネクロマンサーは特に、死体の匂いが強いんだよ」

と、マシュリ。

そういや、ルディシアが死体を操っていたとき。

強い腐敗臭が、辺りに立ち込めていたっけ…。

今は死体を動かしていないから、俺には死体の匂いは感じられない。

しかし、ルディシアが常に纏っている…死の匂い、みたいなものを。

マシュリの敏感な嗅覚が、巧みに感じ取ったのだろう。

めちゃくちゃ鼻が良いんだな、マシュリって。

そんなマシュリにとって、死の匂いを纏わせるルディシアは、相当…『臭う』んだろうな。

気持ちは分かるよ。俺もシルナといるとき、おっさん特有のおっさん臭を感じることあるもん。

除菌スプレー吹きまくりたくなるよな。

「へぇ…。あんたがリカント…。アーリヤット皇王の犬か」

ルディシアは、「死体臭い」と言われたことで、気を悪くする様子もなく。

むしろ面白がったような、興味津々の目でマシュリを見ていた。
…犬、って…お前…。

…どっちかと言うと、マシュリは猫だろ。

「ルーデュニア聖王国に寝返ったっていうのは、本当だったんだね」

「…そっちこそ」

マシュリの方も、負けじとルディシアに言い返した。

「噂には聞いていたよ。皇王がネクロマンサー…死体を操る能力の持ち主を飼っているって」

「飼う…?冗談じゃないね。俺はあの人に飼われてた覚えはない」

「僕の方も、皇王の犬になった覚えはないよ」

…何だろう。

元同僚のはずなのに、凄くギスギスした雰囲気。

和気あいあいと昔話に花を咲かせてくれ…とは言わないが。

同じ組織に所属していた者同士、そして今は同じくルーデュニア聖王国に亡命した仲間同士。

もうちょっと…友好的に接してくれないものだろうか。

『アメノミコト』から寝返ったばかりの令月とすぐりを彷彿とさせる。

いや、あの二人は…もっと仲悪かったけど。

すぐりなんて、令月に向かって「死ね」とか普通に言ってたもんな。

あれに比べたら、ルディシアとマシュリは…まだ仲良しな方なのかも。

くそ、何でこんなときにシルナは不在なんだ。

シルナがいたら、今頃お茶菓子でも囲んで、落ち着いて挨拶くらいは出来ただろうに。

こんなときにあいつ、今学院を留守にしてるんだよ。
 
何処に行ったのかって?

帝都のケーキ屋に、チョコケーキ買いに行ってる。

アホだろ?

ちなみにあの後、結局チョコケーキが大量に余って。

本当に、翌日の朝食のデザートに、全校生徒にチョコケーキが一切れずつ配られた。

「朝からケーキ…」って、生徒達皆、呆然としてたぞ。

ごめんな、マジで。

それなのにシルナの奴、懲りずにまたケーキ買いに行きやがった。

「チョコクリームのケーキより、皆、シンプルなザッハトルテの方が好きなのかもしれない」って、真剣な顔で言って。

そういう問題じゃないだろ、と突っ込みたかったが。

それを突っ込む前に、シルナは意気揚々とケーキ屋に出掛けてしまった。

もう好きにしてくれ。

…ともかく。

シルナがいないなら仕方ない。俺が何とか…二人の間に入って、緩衝材の役割を果たすとしよう。

まさか、ここで喧嘩を始めるとは思えないが…。

「お前ら、喧嘩するなよ」

一応、そう言って釘を差しておくと。

「喧嘩?何で?」

「ネクロマンサーに喧嘩を売るほど、僕は考えなしじゃないよ」

ルディシアは首を傾げ、マシュリは真顔でそう答えた。

あ、そ、そう…。

なら、良いけど…。

冷静なんだか頭に血が上ってるのか、分かりづらい二人だ。

「それより俺が聞きたいのは、その皇王のことだよ」

と、ルディシアが話を戻した。

皇王…ナツキ様のことだな?

「あの人、俺が裏切ってからどうなってたの?何か聞いた?」

…それは俺も気になってる。

懐刀だったに違いないルディシアを、みすみす失う結果になって。

ナツキ様は、どういう反応をしたんだろう?