神殺しのクロノスタシスⅤ〜後編〜

「大丈夫よ。あなたの未来は明るいわ。私もあなたと出会って、初めて気づいたんだもの」

気づいた?

「…何に?」

「世の中は案外、捨てたものじゃないってね」

スクルトは、微笑みながらそう言った。

…そう。そうか。

そんな風に思っても良いんだ。

それは許されることなんだ…。

「…君にそう言ってもらえるなんてね」

確かにそうだね。

君みたいな人に出会って、こんな風に孤独が埋められて。

こんな僕でも、人を愛することを。

その幸福を許されるのなら。

世の中は案外、捨てたものじゃないのかもしれない。

そう思ったとき、僕は初めて世界が色鮮かに見えた。

これまで僕にとってこの世界は、モノクロに等しかった。

だけど、今僕は初めて、世界はこんなに美しかったのだと知った。

スクルトみたいな人に出会えて、その人を愛して愛されて、共に明るい未来を望めるのなら…。

僕がこの世界に生まれてきたことも、あながち不幸ではなかったのかもしれない。

「…ありがとう、スクルト」

「いいえ、どういたしまして」

スクルトは僕達の未来が明るいと言った。

それは『赤』い未来で、保証された運命であると。

だから僕は、すっかり安心しきっていた。

罪人の身に許された初めての幸福を、一身に受け止め。

これからは希望を持って生きて良いんだ。僕も人並みの幸せを手に入れることが出来るんだ。

僕にもその権利があるんだ…。

そんな風に思い込んで、僕は自分が咎を負うべき存在であるということを忘れた。

…だけど、運命は。

僕に課せられた宿命は。

僕が贖罪の義務を勝手に放棄することを、決して許さなかった。







…僕がスクルトをこの手で殺してしまったのは、その日の夜のことだった。





…ここまで話し終えると、シュニィ・ルシェリートは衝撃の展開に目を見開いていた。

「どうして…いきなりそんなことに…?」

当然の疑問だね。

…正直なところ、それは僕の方が聞きたいよ。

でも、あのとき…僕とスクルトの身に何が起きたのか、ある程度推察することは出来る。

「スクルトが僕を許してくれたものだから、僕は勝手に、自分の罪そのものから許された気になっていた。…その報いを受けたんだよ」

スクルトは僕を許してくれた。

でも、冥界の同胞達は、運命の神様は、僕を許してはくれなかった。

それどころか、勝手に許された気になって贖罪の気持ちを忘れてしまった僕に、天誅を下すかのように。

…僕のこの手で、スクルトを殺させたのだ。

「…自分でもほとんど無意識だった。前触れなく、突然身体が燃えるように熱くなって…」

人間に『変化』していることが出来なくなった。

何かの衝動に突き動かされるかのように、獣の姿に『変化』した。

そして、突然の豹変に狼狽え、逃げる暇も余裕もなかったスクルトに襲い掛かり…。

「…気がついたら、彼女の胴体が繋がってなかった」

僕の…ケルベロスの爪に引き裂かれた、無惨な姿に変わっていた。

僕が正気に戻ったときには、スクルトは既に息絶えていた。

あの傷の深さじゃ、恐らく即死だっただろう。

誰がどう見ても、彼女はもう手遅れだった。

どうすることも出来なかった。

僕は自分の身に何が起きたのか、スクルトの身に何が起きたのか分からなかった。

ただ、背筋が凍るほどの恐怖を感じていた。

自分の意志で豹変した訳じゃなかった。それだけは分かっていた。

でも同時に、スクルトを引き裂いたのもまた自分であることも分かっていた。

僕が殺したのだ。理由は分からないけど。

突然身体が熱くなって、頭の中が湧き立って、本能に突き動かされるままにスクルトを引き裂いた。

身体の中の魔力が暴走して、歯止めが効かなかった。

「…気がついたら、彼女は僕に殺されて死んでいた」

「…何故…?」

と、シュニィ・ルシェリートは尋ねた。

何故なんだろうね。

その理由は、僕にも推し量ることしか出来ない。

誰も答えをくれるほど、優しくはないから。

「スクルトが許して、僕が自分を許しても。それでも僕は許されなかったんだよ」

結局のところ、理由はそれだけだろう。

「どんな気休めを口にしても、僕は結局獣だった。バケモノだったんだ。神は、僕が贖罪を忘れることを許さなかった」

そんな僕に罰を与える為に、僕の手でスクルトを殺させたのだ。

「どうやら僕は、人間の傍に長くは居られないらしい」

スクルトに出会う前は、ずっと一人で生きてきた。

一人で生きている間は、あんな風に豹変したことはなかった。

だけど、スクルトをこの手で引き裂いてしまってから、ようやく気づいた。

僕にかけられた呪いは、この禍々しい異形の姿だけではなかったのだ。
僕が贖罪を忘れ、己の罪を忘れ、許された気になることを許さない。

愛する人を作り、居場所を作ることを許さない。

僕は自分の身の程も知らず、生意気にもスクルトという居場所を作ってしまった。

そのせいで、天誅が下ったのだ。

他でもないこの手で、スクルトを殺してしまった…。

…。

…幸せな、未来なんて。

僕達にはなかったのだ。何処にも。

それどころか僕はやはり、天下の何処にも居場所なんてない。

居心地の良い居場所なんて作ろうものなら、また天誅が下り、魔力が暴走してしまう。

その結果、僕は自分の居場所を自分で壊してしまうのだ。

お前のその罪を、脳裏に焼き付けろと言わんばかりに。

…スクルトをこの手で殺してしまってから、よく分かった。

「僕は幸福になることを許されない。居場所を持つことを許されない。そんな幸福は、バケモノのこの手には余るんだ」

だからこそ、他ならぬこの手で破壊することを強要されるのだ。
 
僕が決して、己の罪を忘れないように。

もっと早く、このことに気づけば良かった。

スクルトを殺してしまう前に、もっと早く気づけば良かったのに。

「可哀想なスクルト。こんなバケモノに殺されて。僕なんかと出会わなければ、彼女は死なずに済んだのに」

僕と出会ってしまったせいで、僕の隣に居たせいで、殺される羽目になった。

怖かっただろうに。痛かっただろうに。

さぞや無念だったろうに。

「スクルトの顔は、深い憎しみと怒りに染まっていた。…僕を恨んで死んでいったんだ」

「…」

「僕なんかと一緒にいなければ良かったって、そう思いながら…」

あんな思いをするくらいなら。

この世で一番大切な人を、自分の手にかけるくらいなら。

…ずっと孤独なまま、誰からも石を投げられ、唾を吐きかけられて生きるべきだった。

そうすれば、誰も死なずに済んだ。

…僕だってそうだ。

最初から、愛なんて、居場所なんて知らなければ。

この世にあれほど、心安らぐ場所があるなんて知らなければ。

…それらを全て失った後、胸を灼くほどの絶望感に襲われずに済んだのに。





「…だから、僕は絶対に幸せになっちゃいけない。バケモノにそんな権利はないんだ」

いずれ自分の手で壊してしまう幸福なら、いっそ最初から、不幸を押し付けられていた方がマシだ。

自分の意志で生きるなんてとんでもない。

獣は大人しく、鎖に繋げられ、鞭で打たれるべき。

だからこそ僕は、アーリヤット皇国の皇王に、顎で使われる立場に甘んじているのだ。

…もう決して、二度と、身に余る幸福なんて望まずに生きられるように。
「…」

シュニィ・ルシェリートは無言だった。

言葉を発する代わりに、彼女はぽろぽろと涙を流していた。

…おかしな人だ。

「…何で、君が泣くの?」

「だって…だって、そんなの…あんまりじゃないですか。いくらなんでも…辛過ぎる」

本当に、おかしな人だね。

「人間の身にはそうかもね。でも…僕はバケモノだから」

人間でも魔物でもない、どっちつかずの半端者。

幸福になることを、居場所を求めることを許されない罪人。

そんなバケモノには、これくらいの扱いが丁度良いだろう?

「これで分かったでしょう?」

僕に居場所なんてあっちゃいけない。許されてはいけない。

…だから、そんな風に優しい言葉をかける必要はないんだ。

僕の為に涙を流す必要なんてないんだ。

僕は…口汚く罵られ、唾を吐きかけられるべき立場であって…。

「永遠に…ずっと一人で…生きていくべき存在なんだよ」

決して夢なんて見ない。希望なんて持たない。

大切にしていた全てを、自分の手で八つ裂きにする。

あの深い絶望感に襲われるくらいなら、いっそ僕は…。



…それなのに。



シュニィ・ルシェリートは、涙に濡れた瞳で僕を見つめ。

「…本当に、あなたは憎まれていたんですか?」

「…え?」

突然、僕にそんな質問をした。
――――――…マシュリさんに打ち明けられた、彼の過去のお話。

マシュリさんと…スクルトさんのお話を聞いて。

私はそのあまりの悲しさに、涙が止まらなかった。

マシュリさんが何を悪いことをしたと言うのでしょうか。

彼は何も悪くないのに、その身に余るほどの苦しみを背負わされて…。

愛する人を、他でもない自分の手で殺させるなんて…。

何故なんですか。

人を愛することは、そんなに悪いことですか?

マシュリさんがあまりにも気の毒で、可哀想で…。

何とか彼に分かってもらいたい。恐ろしいほどの絶望感や罪悪感に襲われている彼に。

それでも、自分の生きるこの世界を信じて欲しいと。

下手な慰めなど、マシュリさんにとっては無意味だということは分かっていた。

彼の経験してきた苦しみが、あまりに大きくて。

私が何を言っても、私ごときの薄っぺらな言葉では、マシュリさんの心には響かないだろう。

彼に何を言うべきか、考えて、考えて…。

思いついたのは、マシュリさんではなく…彼を愛していたであろう、スクルトさんのことだった。

スクルトさんも辛かったでしょうね。

遺されるマシュリさん以上に、彼女もまた辛かっただろうと思った。

これがもし自分だったら、愛する人と死に別れたのが自分だったらと考えて。

そして、思ったのだ。

果たしてスクルトさんは、本当にマシュリさんを恨んで死んだのだろうか、と。

だって、それじゃおかしくありませんか?

「一体…何のこと…?」

「スクルトさんのことです…。彼女は本当にあなたを憎んでいたんでしょうか」

「…」

突然意表を突いた質問をされて、マシュリさんは狼狽えていた。

それとも私に指摘されて、思い出したのでしょうか。

スクルトさんの、無惨な最期の姿を。

思い出させてしまったのなら、申し訳ないです。

でも、今一度思い出して欲しい。

だって…もし、私がスクルトさんの立場だったら…。

「スクルトさんは、あなたを恨んで亡くなったんですか…?」

「…そうだって言ってるだろ。信じていた相手に突然殺されたんだから…。憎んでるに決まってる」

マシュリさんは、苦しそうに唇を噛み締めてそう言った。

…。

…本当に、そうなんですか?

「…よく思い出してください、マシュリさん」

「…さっきから何なんだ?何回思い出したって、過去が変わる訳じゃない」

「そうですね。今更私達が何を言っても、起きてしまった事実は変わらない…」

スクルトさんはマシュリさんの手で殺されてしまった。

この事実に変わりはないでしょう。

でも、今一度思い出して欲しい。

マシュリさんの説明では、腑に落ちないことがある。

「…だけど、スクルトさんには未来が見えたんですよね?」

スクルトさんは、未来視の能力を持っていた。

「それなら、自分がマシュリさんに殺される運命だったことを知っていたのでは…?」

「…それは…」

と、マシュリさんは戸惑ったように口ごもった。

やっぱり。

マシュリさんは、自分の罪の深さに溺れてしまっている。

そのせいで、自罰的な思い込みをしているように見えるのだ。
「あなたに殺される未来が見えていた。それでもマシュリさんの傍を離れなかった…」

「…何が言いたいの?」

…私が言いたいのは。

「スクルトさんは、あなたを憎んでなんかいない。あなたと一緒にいられて…スクルトさんもまた、幸せだったんじゃないですか?」

マシュリさんの手にかかって、殺されたとしても。

それでも悔いはないと思えるほどに、スクルトさんもまたあなたを深く愛していた。

そうじゃないんですか?

「あなたに殺される未来が見えたことも、マシュリさんには何も言わなかったのでしょう?」

未来を見て知っていたはずなのに、スクルトさんはマシュリさんに何も言わなかった。

運命の成り行きに任せて、何もせずに死を受け入れた…。

考えなしに、スクルトさんがそのような選択をしたとは思えない。

「…『青』く見えていただけなのかもしれない。変えられる未来だと思って…」

マシュリさんは、苦し紛れにそう言った。

分かりませんね、それは。スクルトさんに尋ねた訳じゃありませんから。

でも、そうだとしてもおかしい。

「変えられる未来なら、なおのこといくらでも対策出来たはずじゃないですか。マシュリさんの傍を離れてしまえば、それで解決です」

「…」

隣にいる人が自分を殺す未来が見えたのなら、その人から離れてしまえば、簡単に解決する。

あるいは…殺される前に殺す、でも良かったかもしれない。

それなのに、スクルトさんは逃げなかった。マシュリさんにその恐ろしい未来が見えたことも話さなかった。

ただ大人しく、やって来る運命を受け入れた。
「これは推測ですが…恐らく、スクルトさんがマシュリさんに殺される未来は『赤』…。つまり確定した運命だったのでしょう」

逃げても抵抗しても、自分が殺される運命は変わらない。

そんな恐ろしい未来が見えて、スクルトさんがしたことは何か?

マシュリさんにその未来を告げず、変わらずマシュリさんの傍に居続けることだった。

まるで、自分が殺される運命を受け入れたかのように。

「でも、スクルトさんはあなたに何も言わなかった。あなたの未来は明るいと、幸福な未来だと、そう仰ったんですよね」

「…嘘だ。何でそんなこと…。殺される未来が見えてたなら、何で…」

さぁ、何でなんでしょうね。

それはスクルトさんに聞いてみなければ分かりません。

でも、愛する人に殺される運命を知ったスクルトさんが、何故逃げようともせずマシュリさんの傍に居続けたのか。

その理由は、私にも理解出来る気がします。

もし私がスクルトさんと同じ立場だったら、きっと私も同じことを考えるでしょうから。

「自分を殺したその先で、愛する人に幸福な未来が待っているのだとしたら…」

スクルトさんはきっと、未来を見たのでしょう。

自分が殺される未来を。

そしてその先で、ずっとずっと先の未来で…。

いつかマシュリさんが自分の過去を克服して、スクルトさんの死を乗り越えて。

本当に自分の居場所を見つけて、幸せに生きている未来を。

愛する人に、そんな美しい未来を与えられるのなら。

自分の死が何だと言うのだ。

私がスクルトさんだとしても、きっと同じように考えたでしょう。

自分の命なんかより、自分の未来なんかより、大切なものがこの世にはある。

そして、マシュリさん。

あなたもまた、誰かにとって自分の命より大切な存在だったんです。

それを、スクルトさんが証明してくれたんですよ。

「あなたに殺されることなんて、惜しくも何ともなかったんでしょう」

それが異形の姿なのだとしても、自分の愛する人である事実は変わらない。

だからこそスクルトさんは、マシュリさんに殺される運命を受け入れたのでしょう。
これらは全て、私の憶測でしかない。

スクルトさんが本当は何を考えていたかなんて、それはスクルトさんにしか分からない。

本当はマシュリさんの言う通り、スクルトさんはマシュリさんを憎んでいたのかもしれない。

恨みながら死んでいったのかもしれない。

でも、そんなことは今更、誰にも分からない。

生きている者に出来るのは、愛する人を信じ、その死を乗り越えて。

その人の分まで、幸福に生きることだけだ。

私だったらきっと、そうして欲しいと思うから。

きっとスクルトさんも、そう思ったんじゃないだろうか。

「でも…でもあのとき、スクルトは憎悪に歪んだ顔をして…」

マシュリさんは頭を抑えて、必死に声を絞り出した。

そうですか。…もしかしたら、そうだったのかもしれませんね。

でも、私にはそうは思えない。

「本当にそうですか?よく思い出してください…。あなたは罪悪感のあまり、自分の記憶を歪めているんじゃないでしょうか」

スクルトさんがマシュリさんを憎んでいたんじゃない。

マシュリさん自身が、スクルトさんに憎まれたい、恨まれたいと思って。

最期の瞬間、スクルトさんが憎しみに歪んだ顔をしていたと思い込んでいるのでは?

許されるより、憎まれる方が遥かに楽だから。

私は、マシュリさんに都合良く考え過ぎだろうか?

本当にスクルトさんは、マシュリさんの言う通り、マシュリさんを恨んでいたのだろうか?

分からない。

分からないけど、そうであって欲しくないと思う。

愛し合っていた者同士が、最後は憎み合って死ぬなんて。

そんなの…そんなの、あまりにも悲し過ぎるじゃないですか。

スクルトさんが死んだ事実は変わらない。

それならせめて、その思い出だけは美しいものであって欲しい。

綺麗事かもしれないけど、私はそう思うのだ。