そんな状態が続いたある日、そろそろ休憩に入ろうかという時間帯に予想外の来客があった。
私たちが座る受付カウンターに、病院にはとても不釣り合いな強い香水の香りが漂った。
顔を上げると、そこには一目でブランド品だと分かるコートを羽織ったスラッと背の高い女性が立っている。
面会のご家族でも病院関係者や外部のメーカーさんでもなさそうな雰囲気に、すぐに言葉が出てこなかったけれど、とにかく要件を伺おうとカウンターの前に出る。
すると、その女性は見下ろすようにして私の名前を口にする。
「あなたが宮野優茉さん?」
「はい、そうですが...。あの、ご用件をお伺いしても?」
「私は加賀美 麗奈(かがみ れな)。加賀美製薬社長の娘よ。そして、香月先生の婚約者でもあるわ。ここまで言えば分かるかしら?」
加賀美製薬...? 社長の娘...
じゃあ、もしかしてこの人が、先生のお見合い相手...?
いや、待って。でもなんでお見合い相手が私の事を知っているの...?
それに婚約者って...?まだお見合いもしていないんじゃ...?
次々に疑問が湧き黙っていると、「あなたに話があるのよ。ちょっと付き合ってもらえる?」
そう言われて、ここで話をされても困るので天宮さんに許可をもらい、先にお昼休みに入らせてもらう事にした。
絶対に周りに聞かれてはいけない話だろう。迷ったけれど、中庭の端にあるベンチへと誘った。
「あの、どうして私の事を?」
まず一番気になっていた事を尋ねてみるけれど...
「そんなの、お父様の秘書に頼めばすぐよ。あなたが先生のマンションに転がり込んでるって事も知っているわ。
でも、どうして先生とお付き合いできたの?あなたみたいなただの地味な事務員さんが」
当然の様に敵意を剥き出しにされた。
私、何て言ったらいいんだろう...
突然襲ってきた修羅場のような状況に、頭がまだ追いついていない。
「まぁいいわ、先生も気の迷いを起こす事くらいあるわよね。でも、すぐに別れてもらうわ。
あなた知らないの?先生はもうすぐ私と結婚する事になっているのよ?」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。うちのお父様も香月先生の事を気に入っているし、この病院にとっても良いお話のはずよ?
今は院長先生がご不在のようだけど、戻られたらこの話はすぐにまとまるわ」
...そう、だったの?
でも先生は、先に私を院長に会わせてお見合いを断るって言っていたよね...?
麗奈さんの話を鵜呑みにするつもりはないけれど、あまりに認識の違う話に困惑する。
「あの、麗奈さんは香月先生の事を、よくご存知なんですか...?」
「もちろん。結婚相手として先生以上に好条件な人はいないもの。その上あんなにイケメンなんて、なかなかいないでしょ?写真をみて一目惚れしたのよ」
...確か先生は、顔も知らないと言っていた。
写真を見てという事は、きっと麗奈さんも会ったことはないんだよね?
私が知らないうちに、二人の間でそういう話になっていた訳では、ないんだよね...?
「それに、院長はこの話を断らないはずよ。この病院にとって、加賀美製薬を敵に回すとどうなるかって事くらい分かるはずだもの。次期院長の香月先生だって、それが分からないほどバカじゃないでしょ?」
「じゃあ、病院のために、先生はあなたと結婚すると...?」
「そうよ。院長になる為には、業界大手のうちとの関係は絶対に必要よ。
あなたと結婚しても、何のメリットもないでしょ?ご両親もいなくて、小さなお弁当屋を営んでいる祖父母に育てられたようなあなたじゃ」
......そんな事まで、調べられていたの?
勝ち誇ったような顔でそう言う麗奈さんは「わかったでしょ?先生の為にもすぐに別れてちょうだい。あなたなんて、一時の遊びにすぎないわよ。それとも家政婦さん代わり?あのマンションからもすぐに出て行ってよね。もしかして、自分のお家ないの?」と挑発するような目でこちらを見ている。
どうして見ず知らずの人にそこまで言われなくてはいけないのかと、少し苛立ちすら覚えたけれど、ここで言い返しては彼女の思うつぼだろう。
何も言わない私に、麗奈さんはつまらないと言いたそうな顔をしている。
「ふっ。とにかく、先生はもうすぐ私のものなの。後腐れなく別れてよ?じゃあ、また来るわね」
一方的にそう言って、再び強い香水の香りを撒き散らしながら去って行った。
そのまましばらくそこで考え込んでしまい、お弁当を食べる事も忘れた。コートも着てこなかったので、ブルっと身体が震えるのを感じ我にかえる。
休憩時間が終わり戻ると、心配そうな顔で天宮さんはこちらを見ている。きっと疑問に思うことがたくさんあるはずだけど、今は何も話すことは出来ない...。
「優茉ちゃん、顔色良くないけど大丈夫...? 何か事情があるんだろうけど、私で良ければいつでも相談にのるからね」
本当は不安で、すぐにでも話してしまいたいけど、ぐっと我慢し「すみません、ありがとうございます」とだけ言って、なんとか笑顔をつくった。
彼女の事が頭から離れないけれど、午後の仕事もこなして帰路に着く。