翌朝、また隣に先生の姿はなかった。
 ベッドを使った様子はないし、玄関に靴もなかった。やはり昨夜は戻って来なかったんだ。

 きっとこのまま出勤になるであろう先生の分もお弁当を作って、少し早めに病院へと向かった。

 "お疲れ様です。今は院内にいらっしゃいますか?"とメッセージを送ると、仮眠室にいると言うのでお弁当を届ける事にした。

 ほとんど来たことのない医局の奥にある仮眠室まで行き、周りを見て誰もいない事を確認してから中へと入ると、先生はベッドに横になりスマホを見ていた。

 「お疲れ様です。すみません、こんな所までお邪魔して。お弁当を渡したくて...」

 「優茉、ありがとう。昨日は帰れなくてごめん」

 「いえ、お疲れ様です。あの、朝ご飯は食べましたか?」

 「いや、少し仮眠をとって今起きたところなんだ」

 「もし良ければ、これ、食べてください」

 きっと朝ご飯は食べていないと思い、お弁当のほかにおにぎりとスープジャーに温かいお味噌汁を入れて持って来た。

 「ありがとう、嬉しいよ。でも朝ご飯まで用意させてごめん」

 「先生はきっと食べていないんじゃないかと思いまして...」

 「そうだな、きっと優茉が持って来てくれなかったら食べていない」 と苦笑いしながら白状する先生。

 そして、立ち上がってグーッと腕を上げて少しストレッチをした彼は、同じく立ち上がってそろそろ行こうとする私の腕を掴んでグッと引く。

 「あっ」

 急な事で前に躓きそうになった私をぎゅっと抱き止めて「少しだけ。パワーちょうだい」そう言ってさらに強く、苦しいくらいぎゅうっと抱きしめられた。

 紺色のスクラブを着た先生は、いつもと少し違う消毒や病院特有の匂いがする。

 「せ、先生? 誰か来たら大変です!」

 少し小声でそう訴えると「そうだな、俺は構わないけど」そう言い終わってから、ゆっくりと三秒ほど数えて腕が解かれ、少し乱れた服を直す。

 「もう行きますね。ちゃんとご飯食べてくださいね」

 恥ずかしくなり俯きがちにそう言ってからすぐに部屋を出て、足早にロッカー室へと向かった。

 深呼吸をして心を落ち着けながら着替えを済ませ、いつものように申し送りが始まり、昨夜運ばれた患者さんの情報共有がなされる。
 山岸康太さん三十六歳男性、事故による脳挫傷でオペ。

 先生が昨夜オペに入った患者さんだ。脳挫傷自体は珍しいものではないけれど、その検査の際に腫瘍が見つかったそうで、山岸さんは別の持病もあり、難しいオペが予想された。
 当直だったのは三年目の先生。同じく当直の水島先生が別の処置で手が離せなかった為、一人だと不安があり香月先生を呼んだのだそう。

 午前中に家族が来る事になっているそうなので、入院に関する書類などを用意しておく。
 山岸さんのご家族がみえたのは、それから一時間ほどしてからのことだった。天宮さんは別の対応をしていたので、私と昨日オペをした香月先生が説明に入る事になった。

 まずは先生が病状や今後のリハビリに関する事を説明し退室された所で、今度は私が入院に関する諸手続きを進めていく。
 同意書や書類に奥さんが記入されている間、横に座っていた五歳くらいの男の子は俯いてじっとしている。

 先ほど先生が病状を説明されていた際、奥さんは涙を流していた。突然の事故と緊急オペ。気が動転していてもおかしくない。
 きっとこの子は、母親の涙をみて、幼いながらも事の重大さを感じているのだろう。

 山岸さんは幸いにも命の危険はほとんどなく、時間はかかるかもしれないけれどリハビリをすれば元のような生活に戻れるはずだと聞いた。
 きっと不安な気持ちでいるだろうこの子にも、それを教えてあげたいな...

 気休めかもしれないけれど、ある事を思い出して少し席を外し、自分の引き出しに入れてある物を持って戻る。
 
 書類が多く、奥さんはまだ記入している最中だったので、思い切って男の子に声をかけてみた。

 「これ、やった事ある?」

 私が持って来たのは折り紙。自分もこの子と同じくらいの頃、これで元気をもらえたから、少しでも気分転換になればと思った。
 こちらを見て、うんと首を縦に振る男の子。

 「じゃあ、一緒にやってみない?」

 そう言って緑色の折り紙を差し出すと、少し不思議そうにしながらも受け取ってくれた。

 私が折りたかったのは四葉のクローバー。
 四等分した折り紙を組み合わせて作るものなので、私が一つお手本に折って見せるとそれを真似して上手に折ってくれた。
 最後に四枚を組み合わせるとクローバーが出来上がり、男の子は「あっ」と初めて声を出した。

 「これ、何かわかった?」

 「うん!四葉のクローバーだ!すごい!」と無邪気な顔で笑ってくれた。

 「そうだよ!四葉のクローバーはね、プレゼントした人もされた人も、お願い事が叶って幸せになれるんだよ。だから、お父さんにプレゼントしてあげたらきっと元気になるんじゃないかな?」

 キョトンした表情に、まだ少し難しかったかな?励ましになっていなかったかな?と不安に思ったけれど、次第に笑顔になって「うん!これパパにあげる!お姉ちゃん、もう一つ作りたい!」と言ってくれた。

 「もう一つ?いいよ」

 「もう一つ作ってママにもあげたい!そしたらみんな幸せになるんでしょ?」

 予想外の反応に少し驚いたけれど、男の子の優しい気持ちに奥さんは再び涙をため、それを見た私も涙が溢れそうになるのをグッと堪えて笑顔を作った。

 「そうだね!とっても素敵だと思うよ。もう一つ何色がいい?」

 「ママが好きなピンクにする!」

 そう言ってもう一度見本を見せてあげると、先ほどよりももっと上手にあっという間に完成した。

 先ほどまで涙を見せていた奥さんも、笑顔でそれを受け取り「パパにもあげようね」とぎゅっと彼を抱きしめていた。