その夜、家に帰っていつも通りのルーティンを済ませてから、荷物の整理を始めた。

 足りない物があれば取りに戻ればいいし、身の回りの物だけでいいよね?旅行用のスーツケースを引っ張り出して、必需品を詰めていく。

 部屋が余っているって言っていたけれど、どのくらいの広さなんだろう。住所は病院の近くだったけど、やっぱりすごい所に住んでいるのかな...?
 ぼんやり考えて手が止まっていると、スマホが着信を知らせた。

 誰だろう?と見てみると、まさに今まで考えていた香月先生からだ。

 っえ? 電話? ...何の、話だろう?

 ドッドッドッと鼓動が高まってきて、少し震える指で通話をタップした。

 「も、もしもし?」

 「ごめん、もう寝てた?」

 時刻は二十二時半すぎ。寝てはいないけれど、ドキドキして声が上擦ったのと出るのが遅かったからだろう。

 「い、いえ。大丈夫です。起きていました」

 「よかった。今は家にいる?少し話してもいい?」

 「はい、お家にいます。香月先生は外ですか?」

 少しだけ車や信号機の音が聞こえている。
 
 「うん、病院を出て家まで歩いているところ。いつもは車なんだけど、今日は何となく外を歩きたい気分で」

 「今お帰りですか?遅くまでお疲れ様です」

 「ありがとう、優茉もお疲れ様。今は何をしていたの?」

 「えっと...荷物を、整理していました」

 「さっそく用意してくれていたんだ。急な話でごめん。
 実は今朝早くに父親から連絡が来たんだ。明日から三週間ほど出張で海外に行く事になっているから、帰ってきて落ち着いたら三人で会おうって。
 だから、あと一ヶ月ほどしかないだろうから、早い方がいいと思ってね」

 「そ、そうなんですか。あの、ちなみにですけど、院長の秘書の方ってどんな感じの方ですか...?」

 「昔から付いてくれている人で、林さんという確か40代後半の男性だよ。いつもスーツにメガネをかけていて、背はあまり高くなく痩せ型かな。どうして?」

 やっぱり...。実は今日何度も同じ男性が、病棟を歩いていたり窓際の椅子に座っていたりしたのを見かけた。
 誰だろうと思いながらも、この場所に慣れている雰囲気から関係者だろうと判断して声はかけずにいた。

 でも、途中である事を思い出した。「院長が秘書を使って俺たちの事を探り始める」という香月先生の言葉を...。

 でもまさか、と思いあまり気にしないようにしていたけれど、今聞いた特徴は今日何度も見かけた男性の見た目と一致している。

 「実は今日、病棟で何度も同じ男性を見かけたんです。病院の関係者だろうとは思っていたんですけど、たぶん秘書さんだったと思います...」

 「そうか、やっぱり...。嫌な思いをさせて申し訳ない。優茉に迷惑がかからないよう注意しておくから」

 「いえ、特に迷惑になるような事はないのですが。少し気になったので...」

 「本当にごめん。俺はナースステーションにいる事があまりないから気づけなかった、申し訳ない。今後も何かあればすぐに教えて欲しい。何があっても必ず優茉を守るから」


 ドクンッ

 必ず守る... そんな事、初めて言われた...


 二次元の世界でしか聞いたことがないようなセリフだったけれど、実際に言われるとこんなにドキドキするものなんだ...

 落ち着かない鼓動を悟られないように「い、いえ。あ、ありがとうございます」となんとか声を振り絞る。

 やがて電話の向こうは先ほどまでの道路の音は消え、何かを操作する音が聞こえた後でシーンと静かになった。

 「お家に、着きましたか?」

 「うん、いま部屋に入ったところ。優茉がこの家に来てくれる日を楽しみにしているよ。遅い時間に電話してごめん、じゃあおやすみ」

 「い、いえ。おやすみなさい」


 必ず守るからとか、楽しみにしてるとか...

 仮でも婚約者だから?ただのフリでも一緒に住むから、二人の雰囲気をそれらしくするためにってこと、だよね?そんなに優しい言葉をかけてくれるのは。

 ...そうだよね。あんな言い方されたら勘違いしそうになったけれど、絶対にだめ。
 香月先生はお見合いを断るためにやっているだけなんだから。甘い雰囲気を出すために、努力してくれているだけ。

 ドキドキしている場合じゃない。香月先生のために私も頑張らなきゃ。