柊哉side

 「...あの日、優紀子は朝から頭痛がすると言っていたんだ。だから私は、彼女に頭痛薬を渡して仕事に行った」

 優紀子とは母さんのこと。たしかに、俺も覚えている。あの日の朝、少し体調が悪そうで、それでも学校へ行く俺を笑顔で見送ってくれていた。

 「優紀子の死因は、覚えているか?」

 「... 脳梗塞」

 そう、ずっと頭に残っていた"のうこうそく"という言葉の意味を知ったのは、多分中学生になった頃だ。
 そしてそれは、俺が脳神経外科医を目指した理由でもある。

 「ああ。頭痛薬を飲んでから、買い物に行ったらしい。その帰り道、車の運転中に意識を失った」

 「...その時の、状況は?」

 「...状況といっても、私もその場に居たわけではないからな。病棟で回診中に、優紀子が運ばれてきたと救急から連絡が入って駆けつけた時には、もう、心肺停止の状態だった」

 「...その事故の、被害者の事は?」

 なぜそんな事を聞くんだと言わんばかりに、顔を顰める。

 「...女性が一人、亡くなったのをお前も知っているだろう?」

 「その女性の、死因は?」

 「...なぜ、そんな事を知りたい?」

 「知っているなら、教えて欲しい」

 すると父さんは、はぁーと深くため息をつき、静かに目を閉じる。

 「...優紀子が運ばれてきたすぐ後に、もう一台救急車が止まって、三十代くらいの女性と赤ちゃんが運ばれてきた。
 女性は赤ちゃんを庇ったようで、その子はほんの擦り傷程度だった。おそらく、倒れた時に手を付かなかったんだろう。頭部の出血がひどく、意識不明の重体だった。すぐに緊急オペになり...、私が執刀した」

 「え..?父さんが...?」

 母さんが心肺停止で運ばれてきた直後に、その事故の被害者である患者のオペを...?

 「...そうだ。優紀子は、死亡が確認されていたし、その時オペに入れたのは私か、まだ二年目の若い先生しかいなかったからな。まぁ...結局助ける事はできなかったが」

 突然最愛の人を失い、その被害者も自らオペに入ったが救う事が出来なかった...。

 もしも俺が父さんの立場だったら、きっと、自力では立ち上がれないほど心に深い傷を負っただろう。そして、それを癒す術もなく、その後も残酷なほどに襲ってくる変わらない日常を、一人過ごしていかなければならなかったとしたら...

 「父さんは...すごいな。俺なら、きっと、父さんのようには...」

 「ふっ、馬鹿だな。俺だって人間だ。いまだに思い出すだけでも恐ろしいよ。だからあの時の記憶はこれくらいだ。
 今もこうやって生きてこられたのは...、お前がいたからだ。もしも俺一人だったら、身を持ち崩していただろうな」

 ははっと自傷気味に笑う父さんは、今まで見てきたどんな姿よりも人間的だった。

 「それで?お前は何が知りたかったんだ?」

 「...その女性の、名前や家族のことは覚えている?」

 「名前は...昔は覚えていたが、思い出せないな。家族は、旦那さんとその赤ちゃんとご両親くらいしか記憶にない」

 「俺はその当時、その女性の家族に会う機会はあった...?」

 顎に手を当て、しばらく考える様にしてから頷く。

 「...あったな。その女性の葬儀に、お前も連れて行っているはずだ。
 まぁ、本来なら加害者の家族が参列する事は許されないだろうが、俺がオペした事や優紀子が病気で事故を起こした事を知って、旦那さんが許してくれたんだ」

 ...じゃあ、あの時の親子に対する既視感は、その時のものなのか?

 今まで知らなかった、知ろうともしていなかった当時の事は少し分かった。しかし、俺の仮説を立証するほどの決定的なものは得られていない。

 「話してくれて、ありがとう。もう時間だから、仕事に行ってきます」

 「待て柊哉。なぜ今になって被害者の事を知りたかったんだ?お前が確かめたかった事とはなんだ?」

 「...今は言えません。まだ、確証を得ていませんから」

 「確証...?」

 怪訝そうな父さんの声を背中に聞きながら、院長室を後にした。

 あとは、伊織からの連絡を待つしかない。