「なにも…、覚えていらっしゃらないのですか…?」


「…そのようだ」



記憶喪失だなんて、実際に目にしたのはもちろん初めて。

彼がどこまで本当のことを言っているのか分からないけれど、ここでも話を膨らませてあげられない自分に嫌気がさす。



「…が、ハル、とだけ」



堅苦しい口調と比べ、声帯はどこか爽やか。

心地よく鼓膜をつついてくる。


────ハル、様。


せめて教えられた名前を小さくつぶやくと、少し驚いてからぎこちなく「きみの名を教えてもらえるか」と、返される。



「かずさ、です。花江…一咲」


「…かずさ」


「あ…、こう書きます」



そばにあったメモとボールペン。

これもまた何も気にせず漢字を書くだけで「…すごいな」と、なぜか泣きそうな顔で褒められた。


きっと記憶喪失だから何もかもが初めてで、感動するんだ。