それは、絶対にキスなんて言えるものじゃなかった。
とはいえ、そんな偽物でも、奴にとって証明にはなったようだ。

でも。


「……下手くそ」


怒ってはいなかったし、そんなに呆れ果てたって声でもなかったけど。
キスした相手にそう言われるのは、やっぱりショックだ。


(……なんで……)


ここは、激怒されなかっただけ有り難いところだ。
家賃の振込を返せと言われなければ、もうそれだけでいい……はずなのに。


(……傷ついてる……? )


「っ、お、に……ん……」


知らない間に俯いていて、離したはずの唇がこんなに近くになっていることに気づかなかった。
びっくりして、つい出そうになった「お兄ちゃん」をそのまま優しく塞がれる。


(な……な……)


「いつもは俺からだけど。この機会に、しばらくまゆりからキスしてもらうようにしようかな。練習」


(な……!? )


「でも、これも可愛いからいいか。……ありがとな」


(なに……!?!? )


そう頭をポンポンして、ぎゅっと抱きしめられた。


「気が済んだ? 金輪際、まゆりの周辺うろつくのやめて。……次に見かけたら、それなりの対応をさせてもらう」


「婚約者」に自分からしておいて「キスされた意味が分からない」って顔を自分の胸に隠しながら、お兄ちゃんが凄む。


「……っ」


何事かありがちな悪態と、走り去る足音の後。
ふっと溜息が降ってきた。


「そのままでいいよ。通行人、ゼロじゃないし」


お兄ちゃんが今度は背中を軽く叩いて、ドアが閉まる。


「……すみません」


運転席に戻り車が発進しても、姿勢を低くしたままなのは、他人に見られて恥ずかしかったわけじゃない。
バックミラーに映りたくなかったからだ。


「その話は後で」


ぴしゃりと言われた気がして、肩が竦む。
確かに語気がいつもよりもやや強くて、ちょっと怖かった。
でも、勝手にキスしておいて、そんなこと思う方が悪い。


「……違うよ。キスしてくれたこと自体は、嬉しかった」

「え……」

「だから、詳しくは後で」


「しまった」って感じで間が空いたけど、この件でお兄ちゃんは何も悪くない。
嫌みのひとつでも言われて当たり前なのに、そんな嘘は限りなく甘かった。




・・・




「落ち着いたか? 」



お兄ちゃんの家に着いて、ソファに座って。
作ってくれたホットミルクは、昔のままにものすごく甘い。
昔、砂糖大量に入れてたの、覚えててくれたんだ。


『……それ、牛乳の味する? 』


って言いながら、親の目を盗んでこっそりと。
叱られて泣いてた時は、いつもこれだったな。
今の私には甘すぎるけど、おかげで少し笑えて、落ち着いてきた。


「巻き込んでごめんなさい。今日、遅くなるって言ってたのに」

「朝、ちょっと様子おかしかったから、気になって。予想してたんだろ。ああいうことは、すぐに相談して。そしたら、もっと他にやりようあったかもしれないし」

「……本当にごめんなさい」


お兄ちゃんが来れないって言われて、そんなに不安そうにしてたのか。
無意識に頼ってしまっただけじゃなく、気づかせて予定を変更させてしまうなんて。
おまけに、心配と善意で来てくれたのに、あんな馬鹿げたことに巻き込んだばかりか、キスまで奪うとか最悪すぎて、どう謝ればいいんだろう。


「俺にキスするのを勢いで選べるほど、嫌な相手なんだから。経緯は聞くつもりないけど、気をつけろよ」

「……嫌な思いさせてごめんね」


確かに勢いではあったけど、他の誰かでもできたのかな。
他に思い当たる人物はいないとはいえ、誰でもよかったわけじゃない。
だって、ファーストキスだったんだ。
それに、今のところ、セカンドが起きる予定はない。
それでも、申し訳なく思いつつも後悔してないのは、どうしてなのかな。