急いだ足音が聞こえて、慌ててデスクから顔を起こした。
みんな気も漫ろで、会議どころじゃなかったのかもしれない。思ったよりもかなり早い終了だ。
「まゆり」
「哉人さん……ごめんなさ……」
ドア、ちゃんと閉まらなかったかも――それくらい哉人さんは周りを見ずに私の前まで来て、ぎゅっと抱きしめてくれた。
「お前は謝らなくていい」
「……あ、あの、誰か……」
急いで来てくれたのに、バタンと音を立てなかったのは気を遣ってくれたんだろうな。
私の不安や心細さを察してくれたんだ。
「今更? ……そんなの、どうだっていいよ」
お兄ちゃんの腕の隙間から、ドアが細く開いているのが見える。
私の視線に気づかないわけはなかったけれど、お兄ちゃんは意に介さず私を抱いたままだ。
「それより、変なことに巻き込んでごめん。俺の我儘に付き合ったから」
「あれ、我儘なんですか? ……本当のことになる予定だと思ってたのに」
恥ずかしかったけど、それとこれとは別だ。
あの人の嫌がらせと重なったのは、単にタイミングが悪かっただけ。
利用されてしまったのは、私の不注意だ。
「ありがとう。助かったよ」
「……どこがですか……。優しいにも程があります。あんなに最悪なのに、ふざけた展開ないですよ。酷すぎて、どう謝ったらいいのか分かりません」
お礼を言われて、また涙が込み上げてくる。
とてもシリアスな展開とは言い難いのに、ふざけすぎて笑うこともできないくらい馬鹿げてる。
「本当のことになる予定なんだろ。それとも、まゆりにとってはおふざけだったの? 寂しがりの奥さん」
「私は大真面目ですよ。だから、タチ悪いんじゃないですか……。馬鹿っぽすぎて、哉人さんの奥さんになれないです……」
涙声で語るには、これもまたお馬鹿な台詞。
それを聞いたお兄ちゃんは、優しく笑って背中を擦ってくれた。
「大人しくしてたら、哉人さんは自分で気づいて対処できたのに。余計なことばっかりした挙句、哉人さんの評判に傷つけまくって。そんな奥さんなんて……」
「そんなことない」
――要らない。
自分すら言えなかった言葉を、哉人さんははっきりと否定してくれた。
「それに、言っただろ。そんなのどうだっていいことだよ。奥さん溺愛して下がるほどの評価なら、元々大したことなかったってだけ。言わせたい奴には言わせておけばいい。それより、他には? 何もされなかったか? 」
「私は大丈夫です。そんなことより、が違います」
この後、哉人さんはどうなるんだろう。
ひそひそ言われるくらいで済むのかな。
「違わないよ。言われてみたら、確かに数字間違ってた。でも、それも大幅に違うんじゃなくて、ちょっとおかしいくらいの誤差だったから、まゆりが教えてくれなかったら大事になってたかもしれない。俺は助かったし、奥さんのお披露目が早まってよかったくらいだ」
そのどっちも、優しい嘘。
そう結論づけた私を、哉人さんはぐっと抱き寄せた。
「騒ぎになることだけは確かだから、たぶん、もうなかったことにはできないけど。……覚悟はいい? ダメって言ってもどうしようもないし」
――どうもしてあげないけど。
意地悪に囁かれて、反射的に目を瞑った隙に唇が重なる。
「……確かに、もうどうしようもないな」
咳払いの直後、呆れ声が後ろから聞こえて振り向くと、ほぼ閉まっていたはずのドアはいつの間にか開いていて。
「…………」
お兄ちゃんが苦い顔をして見据える先には、同じく複雑そうな表情の男性がいた。