かつての俺は、大切な人を突然失い、かなり落ち込んでいたのだろう。
いや、落ち込んでいたというのは正しくない。不貞腐れていたという方が、あの時の俺には似合うだろう。
「アルーグ様、私達は婚約関係になりました。という訳で、お互いのことを知っていかなければならないと思うのです」
「……ああ、確かにそれはその通りだな」
「という訳で、まずは趣味の話でもしませんか? アルーグ様には、何か趣味はございますか?」
「趣味か……」
そんな俺に、婚約者ができた。表情が乏しい彼女は、俺に趣味を聞いてきた。
趣味といわれても、俺にはそんなものはない。だが、ここでそれを正直に言っても話は進まないだろう。
「強いて言うなら、読書か」
「読書ですか。例えば、どんな本を?」
「ジャンルは問わないな。流行りの本などを読むと言った所か」
「なるほど」
俺は、とりあえず趣味らしきことを言ってみた。
読書というものが、別に好きと言う訳ではない。しかし、話の種になるので、流行りものなどは読むようにしているのだ。
それが、ここでも役に立ったという所だろうか。これで、少しは会話も弾んだといえるだろう。
「アルーグ様は、見境なしということですね」
「待て、その言い方は語弊がある」
「あるでしょうか?」
「なんというか……感じが悪いだろう」
カーティアは、まったく表情を変えず、俺が考えてもてもいなかったことを言ってきた。
見境がない。確かに、それはそうかもしれない。だが、その言い方は、いくらなんでも語弊があるだろう。
「もっと他の言い方はないのか?」
「では、ミーハーとでも」
「ミーハー……」
ミーハーというのは、あまりいい言葉ではない気がする。
だが、確かに俺は流行りものに触れているだけだ。そういわれても、仕方はないのかもしれない。
「アルーグ様、そう落ち込まないでください。私は例え、あなたが話題作りのために流行りものだけ読んで、それを趣味だと言っていることに対して、何も思う所はありませんから」
「……」
カーティアは、さらにそんなことを言ってきた。
まさか、俺の心中は彼女に見透かされていたとでもいうのだろうか。それがわかっていて、あんなことを言っていたなら、こいつも中々いい性格をしている。
「……ふっ、なるほど、お前は中々面白い奴のようだな」
「余裕ぶっているんですか?」
「……」
俺の言葉に対して、カーティアはすぐに反論してきた。
なんというか、俺はこの時焦っていたような気がする。
もしかすると、その時から俺は、こいつには敵わないと、そう思うようになったのではないだろうか。
屋敷の庭に出て来て思い出すのは、やはり彼女のことだった。
彼女は、花が好きだった。庭の花を見て、笑っている彼女の姿は、今でもはっきりと思い出せる。
「花というものは、綺麗ですね」
「ああ、そうだな……」
そんな庭に、俺は婚約者と来ていた。
彼女が、そうしたいと言い出したのだ。その意図はわからないが、断る理由もなかったので従ったのである。
「私の趣味は、強いて言うなら植物鑑賞でしょうか。こうやって花を見ていると落ち着きます」
「……そうか」
「ただ、にわかなので花の名前はなんだと聞かれたら、すぐに答えられません。だから、聞かないでくださいね」
「……お前は、それで俺にミーハーだのなんだと言ってきたのか?」
「ええ」
俺の言葉に対して、カーティアは淡々と返答してきた。それは、まったく悪いと思っていないかのような態度だ。
いや、それはその無表情が与えてくる印象なのだろうか。もしかしたら、少しはにかみながら言っているつもりなのかもしれない。
だが、俺はなんとなくそうではない気がしている。その無表情を見ていると、はにかんでいる所か、あざ笑っているかのように見えてきたからだ。
「それで、お前は植物鑑賞が趣味だから、庭に出てきたのか?」
「ええ、そうですね。まあ、客室にいつまでも籠っているのは、なんだか息苦しかったという理由もありますが」
「そうか。なるほど、そういうことだったのか」
そこで、俺はあることに気づいた。
俺は、このカーティアという人物を大人しい人物であると思っていた。それは恐らく、その表情が要因だろう。無表情であるため、活発な性格とはあまり思えなかったのだ。
だが、彼女は俺が想定していた性格と真逆な性格だったようである。活発でひょうきん、彼女はそういう性格なのだろう。
「……俺は勝手な印象を押し付けていたということか」
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」
俺は、カーティアに勝手な印象を押し付けていた。彼女は、自分で表情を作るのが苦手と言っていたにも関わらず、無表情だから大人しいと思っていたのである。
それは、俺に非があったといえるだろう。彼女の言葉を噛み砕き、考えていればわかっていたはずだ。
どうやら、俺もまだまだ未熟であるようだ。こんなことでは、この公爵家を継ぐ者として、やっていけないだろう。
「……お気になさらず、全ての非は、私にありますから」
「何?」
そこで、カーティアはゆっくりとそう呟いてきた。
それに、俺は驚いていた。なぜなら、その時の彼女の表情はまったく変わっていないにも関わらず、俺にはそれが落ち込んでいるように見えたからだ。
夢というものは、現実とは違うものだ。その空想の中では、様々なことができる。現実では起こりえないことも、夢の中では可能なのだ。
だが、俺の夢にそんな部分は微塵もない。夢を見る時、俺は決まって過去の光景をそのまま思い出すのだ。
「アルーグ様、どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」
夢の中で俺は、最愛の女性と会話していた。
最近思い出すのは、あの時のことばかりだ。彼女がいなくなってから、俺は彼女の夢ばかり見ていたのである。
それは、未練がましいことだった。諦めて割り切るべきことをいつまでも引っ張っていた俺は、愚か者としか言いようがないだろう。
「アルーグ様は、照屋さんですね?」
「そんなことは……ないと思うのですが」
「でも、私といつも顔を合わせてくれませんよね?」
「それは……そうですが……」
その時の思い出を、俺は思い出したくなかった。なぜなら、そんなことを思い出しても辛いだけだったからだ。
断ち切りたいその未練は、俺の意思とは関係なく押し寄せてくる。それに、俺は複雑な思いを抱いていたのだ。
「……」
「……何?」
しかし、その時の夢は突然切り替わった。あの思い出すのが辛い明るい日々から、つい昨日の場面に切り替わったのだ。
俺の目の前には、婚約者がいる。無表情な婚約者は、俺をその鉄仮面で見てきていた。
変わらないその表情を、俺はただ見つめ返す。すると、彼女の顔が歪む。夢の中だからか、彼女の鉄仮面に変化が起こったのだ。
「……お気になさらず、全ての非は、私にありますから」
その歪んだ落ち込んだような表情で、彼女は俺にそう言ってきた。
それは、つい昨日聞いた言葉だ。もしかしたら、彼女はその言葉を放った時、こんな顔をしていたのだろうか。その無表情の裏に、そんな感情が隠されていたのだろうか。
「……思えば、俺は何も知らない。あの無表情は、なんなんだ?」
そこで、俺は疑問を覚えた。そもそも、カーティアの無表情とは、どういうものなのだろうか。
生まれた時から、表情が乏しかったという可能性もある。だが、後天的なものであるというなら、そこには何か理由があるはずだ。
俺は、それを知りたいと思った。あの時の彼女の様子や、今目の前にいる彼女がどうしてこんな表情をしているのか、その理由が知りたかったのである。
「だが……それは」
しかし、そこには明確な問題が発生するだろう。
そんな質問をするということは、彼女を傷つけることになるのではないだろうか。
そう思ったため、俺は自らの考えを捨てようと考えた。だが、それもすぐに否定する。それが正しいことではないと思ったからだ。
「……後悔する訳にはいかん」
俺は、ある女性のことを思い出した。彼女とのことに関して、俺は後悔してばかりだ。
何も言わないでいることは、心に安寧を与えてくれる。だが、踏み込まなければ、後悔が残るのだ。
故に、俺は踏み込むことにする。後悔しないためにも、俺は動くことを決めたのだ。
俺は、再びカーティアと会っていた。彼女に、その無表情の理由を確かめるためである。
それを聞くことで、彼女には不快な思いをさせるかもしれない。だが、それでも聞くべきだろう。婚約者となったからには、それは知っておくべきことだ。
「さて、今日はお前に聞きたいことがあるのだ」
「聞きたいこと? なんですか?」
「お前のその表情について、聞いておきたい」
「そのことですか」
俺の質問に対して、カーティアは表情を変えない。
だが、俺にはなんとなくわかる。彼女は、今少し困ったような表情をしていると。
「生まれつき、感情を表現するのが苦手だったのか?」
「いえ、そういう訳ではありません」
「それなら、何か理由があるのか?」
「はい、理由はあります」
「それを俺に聞かせてくれないか?」
「……」
俺の言葉に、彼女は珍しく黙った。その沈黙は、話したくないということを表しているのかもしれない。
俺が今知ろうとしていることは、彼女の繊細な部分の話なのだろう。それを話したくないと思うのは、至極全うなものである。
だが、俺は知らなければならない。目の前の婚約者と向き合うためにも、彼女の心中を知っておきたいのだ。
「アルーグ様、それなら私からも交換条件を提示してもよろしいでしょうか?」
「交換条件? なんだ?」
「私も、アルーグ様のことを知りたいと思っています。あなたは、一体いつも何を考えているのですか?」
「……どういうことだ?」
「わかりにくかったですよね? それは、申し訳ありません。実の所、私はアルーグ様に対して、とある感想を抱いていました。あなたは、いつも遠くを見ていると」
「それは……」
「心当たりがあるようですね? それなら、私が知りたいのはそれということになります。あなたの心中を聞かせていただけますか?」
俺に対して、カーティアは交換条件を提示してきた。俺の心中、それはつまり彼女の話をしろということだろう。
「わかった。ならば、俺の話をしよう」
「いいのですか? 恐らく、話したくないようなことだと思っていたのですが」
「ああ、そうだな……俺にとって、これは話したくないことだ。だが、俺は今お前に同じことを要求している。それなら、俺も覚悟を決めるべきだろう。お前に要求しておいて、自分は隠そうとするなど、許されることではないからな……」
「アルーグ様……」
俺の言葉に、カーティアは驚いているような気がした。恐らく、彼女は俺がそれを了承するとは思っていなかったのだろう。
しかし、俺は既に覚悟を決めている。そのため、迷うことは一切なかった。
こうして、俺はカーティアに誰にも打ち明けていない自らの屈折した思いを打ち明けることになったのだった。
俺は、カーティアに全てを打ち明けた。俺のあの人に対する思いの全てを、包み隠さず話したのである。
「なるほど、アルーグ様にとって、それは苦い思い出という訳ですか」
「ああ、そういうことになるな……」
彼女にとっては、婚約者の初恋の話など面白いものではなかっただろう。
だが、それでも彼女は真剣に話を聞いてくれた。そのおかげか、俺の心はほんの少しだけ軽くなった気がする。
話したくないことだと思っていたが、人に聞いてもらうだけでも、心というのは楽になるものらしい。願わくは、カーティアも同じように楽になって欲しいと思うばかりである。
「あなたの事情は、よくわかりました。詰まる所、アルーグ様は、私という存在がありながら、他の女性に思いを馳せていたということなのですね?」
「な、何?」
「私と一緒にいるのに、他の女性のことを思うなんて、失礼だとは思いませんか?」
「いや、それは……すまなかった」
カーティアは、少し怒っている気がした。それがどうしてなのか、俺にはよくわからない。
もちろん、失礼なことをしたことは確かである。だが、俺達は、所詮親同士が決めた婚約者でしかない。彼女がここまで怒るのは、いささかおかしいのではないだろうか。
いや、そういうものなのだろうか。例え、相手が思い人でなかったとしても、他の女性を思い浮かべていたと言われれば、かなり不快になるものなのかもしれない。
「まあ、それはいいとして。次は、私のことを話さなければなりませんね」
「……ああ、よろしく頼む」
俺が謝ったことで少し落ち着いたのか、カーティアは自らの話をするつもりになってくれた。
それは、俺が一番聞きたかったことである。彼女に何があったのか、それを知ることで、俺は彼女と正面から向き合うことができるようになるのだろう。
「といっても、私のこの無表情には、そこまで深い理由があるという訳ではありません。単純な話で、私は表情の作り方を忘れてしまったのです」
「忘れた?」
「貴族というものは、他人の顔色を窺うものでしょう? そのために、作り笑いだとか、そういう表情を作るということは多いと思います」
「確かに、それはその通りだな……」
「ある時、私はその表情がわからなくなりました。皆、仮面を被っているかのように張り付いた笑顔に見えるようになったのです。それから、鏡で自分の顔を見ていると、表情が固まっていました。私は、今のようになってしまったのです」
「なるほど、そういうことだったのか……」
彼女が表情を作れなくなったのは、恐らく貴族の性質が原因なのだろう。
俺達は、多かれ少なかれ他人の顔を窺って生きている。状況によって表情を作り変えるなど、よくある話だ。
だが、それは本当の表情ではない。他人の思いを操作するための仮面だ。
その仮面のことを恐ろしく思い、彼女は表情がわからなくなった。そういうことなのだろう。
「お前の事情は、よくわかった。詰まる所、お前は貴族の体裁を保つための表情が、怖くなったということなのだな?」
「ええ、多分そういうことなのだと思います。自分でも、よくわかっていませんが」
「そして、お前はそれを情けないことだと思っている。そういうことだな?」
「……え?」
俺の新たなる質問に、カーティアはまた驚いていた。
彼女の表情は、まったく変わっていない。しかし、今の俺にはなんとなくわかる。
それを考えると少しおかしく思えた。自分達が被っている仮面というものが、どれだけ愚かなものかを理解したからだ。
「庭での会話の時、お前は少し落ち込んでいた。それは恐らく、その無表情に引け目を感じているからなのだろう?」
「それは……」
「だが、それはお前のせいではない。愚かなる貴族社会というものが、悪いのだ」
俺は、はっきりとそのように思っていた。
仮面を被り、人の顔色を窺う。それはなんとも愚かなことだ。お互いに本心でないと思いながらする会話に、一体どれ程の価値があるというのだろうか。
無論、それは貴族の性だ。それが変えられるものではないということは、理解している。
だが、少なくともその忌まわしき性の犠牲になった素直な女性が、そこに引け目を感じる必要があるとは到底思えない。それが、俺が出した結論だ。
「カーティア、お前は素直な性格なのだろう。俺にも、随分と好き勝手言ってくれる」
「素直……そうかもしれません」
「貴族として、それは不利なことなのかもしれない。だが、俺はそんなお前の性格を好ましく思う。虚構に塗れた人間よりも、お前のような素直な人間の方が、俺は好きだ」
「なっ……!」
「む?」
俺の言葉に、カーティアはまたも驚いているような気がする。しかし、俺はそんなにおかしなことを言っただろうか。
いや、彼女の今までの人生において、こんなことを言う奴はいなかったのかもしれない。それに驚いているというのは、そこまでおかしなことではないのだろうか。
「アルーグ様と出会って、時々思っていたのですが、あなたは少し鈍感な所がありますね?」
「鈍感? それは、どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です。どうか、気にしないでください」
カーティアは、俺に対して少し呆れているような気がした。鈍感、その言葉の意味することとは、一体なんなのだろうか。
「でも、あなたの言葉は嬉しかったです。ありがとうございます、アルーグ様」
「……いや、気にするな」
そこで、カーティアは俺にお礼を言ってきた。
お礼を言われるようなことをした覚えはない。だが、その時の彼女は笑っているように思えた。
喜んでもらえているなら、それでいいのだろう。そう思いながら、俺は彼女との話を終えるのだった。
カーティアの真実を知ってから、俺は和やかな日々を送っていた。
彼女との関係も、良好である。恐らく、俺達はこのまま婚約者として過ごし、そのまま夫婦になるのだろう。
その未来は、きっと明るいはずだ。俺はそのように考えるようになっていた。
最近は、あの人のことを思い出すことも少なくなっている。俺の心に開いていた穴は、カーティアや他の家族との日常によって、埋まってきているのかもしれない。
「いやあ、アルーグ君も随分と大きくなったものだな。見違える程、立派になって、なんだか私まで感動してしまったよ」
「そう思っていただけているなら、こちらとしては嬉しい限りです」
そんな俺は、ある機会にアルバット侯爵と話していた。
彼は、父とは旧知の仲であり、俺もよく知っている人物だ。元々は、祖父の友人だったそうで、俺からすれば遠い親戚のような、そんな感覚の人物である。
「そうだ。ラディーグ君は、最近どうかね? 元気にやっているか?」
「ええ、父も何事もなく過ごしています」
「そうか……ふむ?」
「どうかされたのですか?」
「いや……少し気になることがあってね」
「気になること……?」
アルバット侯爵の言葉に、俺は少し引っかかりを覚えた。
彼は、明るい顔をしていない。ということは、その気になることというのは、何か暗い話なのだろう。
俺は、少し身構える。アルバット侯爵が直接関係ある訳ではないが、彼の家に行ったきり、あの人が帰ってこなかったという事実があるからだ。
だが、それが侯爵が気になっていることと関係しているとは限らない。そう思いながら、俺は自らの心にあった不安を振り払う。そうやって不安を拭えるようになったのは、俺の心の穴が埋まったからなのかもしれない。
「かれこれ、もう七、八年前になるか……君の父が、私の元を訪ねて来たんだ」
「七、八年前ですか?」
「ああ、まあ、昔のことだから、君は覚えていないだろうね。それで、その時、私は彼と酒を飲んだ。知っているかもしれないが、私は酒が好きでね。まあ、彼にも勧めたのだが……なんというか、予想以上に酔っ払ってしまってね」
「予想以上に?」
「ああ……まあ、あの時は私も酔っていたから気づかなかったが、あれは明らかに飲み過ぎていたか。しかも、その酔っぱらい二人が、使用人も酒を勧めてね。あの時、ついて来ていたメイドにも、結構な量を飲ませてしまった……うむ、まあ、情けない話だ」
アルバット侯爵の話に、俺は少し震えていた。
彼は覚えていないと言っているが、俺ははっきりと覚えている。七、八年前に父がとあるメイドとともにアルバット侯爵の元を訪ねたことを。
俺は、ゆっくりと息を呑む。どうやら、俺はまたも彼女と向き合わなければならないようだ。
「それで、その日はふらつきながら、メイドとともに部屋に戻って行ったんだが……その次の日、メイドが慌てて屋敷を出て行ってね。なんでも、実家に問題があったらしいとか」
「……ええ、そのことは覚えています」
「おお、そうか……まあ、それでそのメイドには悪いことをしてしまったと思い、後日謝罪しようと思ったのだ。だが、次に彼と会った時に聞いたら、そのメイドはやめてしまったと聞いてね。彼も落ち込んでいたようだが……」
「……そうですか」
アルバット侯爵の話に、俺は違和感を覚えていた。
いや、それは彼の話に対する違和感ではない。正確には、もっと前から抱いていた違和感だ。
あの人は、実家に問題があったから使用人をやめた。実際に、彼女の家は父親の借金で押し潰されたらしいため、それは間違いではない。
問題は、それを彼女がいつ知ったのかということだ。アルバット侯爵の屋敷で、その知らせを受けるなんて、妙な話だと思っていたのである。
「そして、その後一杯誘ったのだが、断られてしまってね。禁酒したらしいね?」
「ええ、そうです」
「うむ。まあ、あの時の私も愚かだったな。あんなことがあったのに、酒を勧めるなんて……それから、私も自分の行いを反省して、酒はあまり飲まなくなったのだが、まあそれはどうでもいいことか」
「いえ、ご立派な心掛けだと思います……すみません、私の父のせいで」
「いやいや、悪いのはこちらだよ」
アルバット侯爵との会話に、俺はあまり力を入れられなかった。色々な事実が気になって、それが頭に入ってこなかったのだ。
あの人がいなくなった理由。俺は、ずっとそれを考えていたのである。
「アルーグ君、そのメイドさんは今どうしているか知っているかね? ずっと気になっていたんだが、ラディーグ君には、中々聞けなくてね。知っていたら、是非教えて欲しいのだ」
「彼女は……亡くなったと聞いています」
「……そうか。すまない、嫌なことを聞いてしまったね」
「いえ……」
俺には、ずっと引っかかっていることがもう一つあった。それは、あの人がどうなったのかということだ。
彼女は、父親の心中に巻き込まれて亡くなったと聞いている。だが、その焼け跡から発見された遺体の数が合わなかったと聞いたこともあるのだ。
それを警察は、骨まで燃え尽きたのだろうと考えたらしい。だが、そんなことは普通はあり得ないそうだ。
だから、俺は思っていた。彼女は、どこかで生きているのだろうと。願望かもしれないが、そう考えていたのだ。
アルバット侯爵と話してから、俺は彼女について調査をすることにした。
父の公爵家の仕事を手伝っている内に、俺も直属の部下といえるような者達ができた。その者達に頼んで、調べることにしたのである。
それは、過去に決着をつけるためだった。結局の所、俺は彼女のことから目をそらし続けていたのである。だが、それはもうやめなければならない。
なぜなら、俺は未来に進まなければならないのだ。婚約者や他の家族とともに紡いでいくこれからのために、過去のことは一度全て区切りをつけたいのである。
「もっとも、俺に未練があるというだけなのかもしれないが……」
「……アルーグ様、よろしいでしょうか?」
「ああ、入ってくれ」
調査結果は、思っていたよりも早く出た。俺は今から、それを伝えられるのだ。
正直、緊張している。長年抱えてきたこの屈折しきった思いが、俺の心を縛り付けてくるのだ。
「簡潔に、事実だけをお伝えします。件の女性……セリネアさんは生きています」
「そうか……」
部下の最初の言葉に、俺は安心した。彼女が生きている。その事実は、朗報だ。
だが、それだけではないのだろう。部下の顔が明るくない。それは、何かしらの暗い事実があることを示している。
「警察も、そのことはある程度理解していたようですが、男爵家の執事に懇願されて、彼女を死亡したとみなしたようです。借金がありましたから、彼女にとっては、その方が都合が良かったということなのでしょう」
「なるほど、そういうことか……彼女も良き、使用人に恵まれたようだな。だが、それだけではないのだろう?」
「ええ……その、彼女には娘がいます」
「娘?」
部下の言葉に、俺は驚いた。だが、すぐに理解する。それが別におかしいことではないと。
彼女の年齢を考えれば、子供の一人や二人くらいいてもおかしくはない。新しい人生で出会った人と幸せに暮らしているなら、それでいいではないか。
「そうか……幸せに暮らせているなら、何よりだ」
「……それが、その娘はどうやらラディーグ様との間にできた子供のようです」
「……なんだと?」
先程とは違い、俺は部下の言葉にはっきりと驚くことになった。
あの人と父上の間の子供。それが何を言っているのか、俺にはまるでわからなかったからだ。
「……娘の年齢や状況を考慮して、密かに娘の毛髪を回収して、鑑定しました。彼女は、紛れもなくラディーク様の子供です」
「……そうか」
俺は、部下に力なく頷くことしかできなかった。
本当の所、俺は少しだけ考えていた。父と彼女の間に、何かがあったのではないかと。
酔っ払った二人の間に何かしらがあっても、おかしくはない。状況から考えると、その方が自然。そんな考えはあった。
だが、それが本当であるというのは、色々と心にくるものがある。様々な感情が入り混じり、俺は訳がわからなくなるのだった。