公爵家の隠し子だと判明した私は、いびられる所か溺愛されています。

 思い出すのは、幼きあの日々のことである。彼女がいなくなったことで、俺の心には穴が開いた。大きな穴が開いたのだ。
 しかし、家の事情なら仕方ない。そう思っていた俺は、とある違和感に気づいてしまった。父親の様子がおかしいことに、気づいてしまったのだ。

「……ふっ」

 そこまで思い出してから、俺はゆっくりと目を覚ました。
 最近は、こんな夢ばかり見る。ルネリアがこの公爵家に来てからは、ずっとそうだ。
 彼女にあの人の面影を見ているのだろうか。だとしたら、それは愚かなものである。

「それに関しては、既に決着をつけたはずだというのに……」

 俺の心に空いた穴は、既に埋まっているはずだ。少なくとも、自分ではそう思っている。もうその思いは、断ち切ったはずだ。
 それなのに、まだあの夢を見る。それは、どういうことなのだろうか。



◇◇◇



 俺の目の前には、父親がいる。ラディーグ・ラーデイン、それがその男の名前だ。
 彼は、愚かな男である。酔っ払ってメイドに手を出して、彼女との間に子供を作った無責任な貴族だ。

「それで、話とは何かな?」
「あなたには、そろそろこの公爵家から出て行ってもらいたい」
「出て行くか……」

 俺は、父親のことを憎んでいる。しかし、それは私怨だ。それによって、父親を排斥しようとは思わない。
 だが、この父が公爵家の当主であるという事実は、その私怨を抜きにしても放っておけることではないのだ。
 このような男が、当主であると他の貴族から舐められる。それは、ラーデイン公爵家として許容できないことなのだ。
 故に、彼には出て行ってもらう。それは、今の俺達の心情的にも、丁度いいことだ。

「別荘を用意してあります。そこで、暮せばいいでしょう。生活に不自由はないように手配します」
「そうか……そうだね」

 俺は、父親に対して淡々と事実を告げる。
 これ以上、この男が公爵家に関わって欲しくはない。はっきりと言って、彼はもう邪魔者なのだ。
 別荘で、一人で隠居してもらう。それが、一番いい形である。体裁的にも、心情的にも。

「すまないね、アルーグ。君には、迷惑をかけてしまう」
「……」
「君は随分と立派になったものだ。私の情けない背中を見ていたというのに、ここまで成長してくれるなんて、私は嬉しいよ」
「そうですか」

 父の言葉に、俺は冷たく声を出すだけだった。
 いつからだろうか。彼の言葉にこのような反応を示すようになったのは。
 いや、それは考えるまでもない。あの人がいなくなった日から、俺は父に対して冷たい態度を取るようになっていたのだ。
 それは、憎しみや失望からくるものだった。俺はあの日から、父親を父親だと思えなくなっていたのだ。
 あの日から、俺の心には大きな穴が開いていた。その穴を埋めてくれたのは、まず間違いなく彼女であろう。
 彼女との出会いは、劇的なものという訳ではなかった。ただお互いの親が決めた婚約者として、出会っただけだ。

「カーティアです。よろしくお願いします」
「ああ、よろしく……頼む」

 カーティアと名乗ったその少女は、とても無表情だった。
 挨拶の際、俺が思ったのはそんなことだ。その表情に一切動きがない。まるで鉄仮面のように動かないその表情に、俺は奇妙であるという感想を覚えたのである。
 だが、その時の感想などというものは、彼女の次の行動で吹き飛んだ。
 いや、最終的には奇妙と思ったので、吹き飛んだというのは正しくないのかもしれない。色々と印象は変わったが、彼女が奇妙であるという結論に関しては、変わることがなかったのだ。

「いえい」
「……何?」

 自己紹介の直後、彼女は親指を立てた手をこちらに伸ばしながら、珍妙な言葉を放ってきた。
 それに俺は固まった。まったくもって、意味がわからなかったからである。

「私は、表情を作るのが苦手です。ですから、こうやってジェスチャーで、心を伝えるように心がけているのです」

 そんな俺の様子に、カーティアはそんなことを言ってきた。
 その理屈は、わからない訳ではない。表情で感情を出せないなら、動きで出せばいいという考えは、そこまでおかしいものではないだろう。
 だが、問題はそのジェスチャーが万人に伝わるものではないということだ。意味が通じなければ、それは奇妙な動きでしかないのである。

「……それで、今の動きはどういう意味なのだ?」
「婚約できて光栄ですという意味です」
「……それを言葉に出した方が早かったんじゃないのか?」
「でも、この顔でそれを言われて、アルーグ様はすぐに信じてくれますか? 何言ってんだこいつ、みたいに思いませんか?」
「どの道世辞には変わらないだろう」
「まあ、確かにお世辞ではありますが」
「……」

 カーティアと話していて、俺は自分の調子が崩れるのを感じていた。
 その無表情も相まって、彼女は不思議な雰囲気の女性だ。その雰囲気に、俺は飲まれてしまったのかもしれない。

「それじゃあ、意味もわかったことですし、アルーグ様も一緒にしましょう。いえい、と」
「やらん」
「そんなことを言わないで、やってみてください。癖になりますよ」
「ならん」

 俺はしばらくの間、カーティアとそんなやり取りを続けていた。
 その時にわかったことは、彼女と話すのは疲れるということだけだった。こんな婚約者で、これから先大丈夫なのか。俺はそんなことを思っていた。
 だが、実際の所、俺とカーティアは相性が良かったのかもしれない。今の彼女との関係を考えると、そんな気がするのだ。
 かつての俺は、大切な人を突然失い、かなり落ち込んでいたのだろう。
 いや、落ち込んでいたというのは正しくない。不貞腐れていたという方が、あの時の俺には似合うだろう。

「アルーグ様、私達は婚約関係になりました。という訳で、お互いのことを知っていかなければならないと思うのです」
「……ああ、確かにそれはその通りだな」
「という訳で、まずは趣味の話でもしませんか? アルーグ様には、何か趣味はございますか?」
「趣味か……」

 そんな俺に、婚約者ができた。表情が乏しい彼女は、俺に趣味を聞いてきた。
 趣味といわれても、俺にはそんなものはない。だが、ここでそれを正直に言っても話は進まないだろう。

「強いて言うなら、読書か」
「読書ですか。例えば、どんな本を?」
「ジャンルは問わないな。流行りの本などを読むと言った所か」
「なるほど」

 俺は、とりあえず趣味らしきことを言ってみた。
 読書というものが、別に好きと言う訳ではない。しかし、話の種になるので、流行りものなどは読むようにしているのだ。
 それが、ここでも役に立ったという所だろうか。これで、少しは会話も弾んだといえるだろう。

「アルーグ様は、見境なしということですね」
「待て、その言い方は語弊がある」
「あるでしょうか?」
「なんというか……感じが悪いだろう」

 カーティアは、まったく表情を変えず、俺が考えてもてもいなかったことを言ってきた。
 見境がない。確かに、それはそうかもしれない。だが、その言い方は、いくらなんでも語弊があるだろう。

「もっと他の言い方はないのか?」
「では、ミーハーとでも」
「ミーハー……」

 ミーハーというのは、あまりいい言葉ではない気がする。
 だが、確かに俺は流行りものに触れているだけだ。そういわれても、仕方はないのかもしれない。

「アルーグ様、そう落ち込まないでください。私は例え、あなたが話題作りのために流行りものだけ読んで、それを趣味だと言っていることに対して、何も思う所はありませんから」
「……」

 カーティアは、さらにそんなことを言ってきた。
 まさか、俺の心中は彼女に見透かされていたとでもいうのだろうか。それがわかっていて、あんなことを言っていたなら、こいつも中々いい性格をしている。

「……ふっ、なるほど、お前は中々面白い奴のようだな」
「余裕ぶっているんですか?」
「……」

 俺の言葉に対して、カーティアはすぐに反論してきた。
 なんというか、俺はこの時焦っていたような気がする。
 もしかすると、その時から俺は、こいつには敵わないと、そう思うようになったのではないだろうか。
 屋敷の庭に出て来て思い出すのは、やはり彼女のことだった。
 彼女は、花が好きだった。庭の花を見て、笑っている彼女の姿は、今でもはっきりと思い出せる。

「花というものは、綺麗ですね」
「ああ、そうだな……」

 そんな庭に、俺は婚約者と来ていた。
 彼女が、そうしたいと言い出したのだ。その意図はわからないが、断る理由もなかったので従ったのである。

「私の趣味は、強いて言うなら植物鑑賞でしょうか。こうやって花を見ていると落ち着きます」
「……そうか」
「ただ、にわかなので花の名前はなんだと聞かれたら、すぐに答えられません。だから、聞かないでくださいね」
「……お前は、それで俺にミーハーだのなんだと言ってきたのか?」
「ええ」

 俺の言葉に対して、カーティアは淡々と返答してきた。それは、まったく悪いと思っていないかのような態度だ。
 いや、それはその無表情が与えてくる印象なのだろうか。もしかしたら、少しはにかみながら言っているつもりなのかもしれない。
 だが、俺はなんとなくそうではない気がしている。その無表情を見ていると、はにかんでいる所か、あざ笑っているかのように見えてきたからだ。

「それで、お前は植物鑑賞が趣味だから、庭に出てきたのか?」
「ええ、そうですね。まあ、客室にいつまでも籠っているのは、なんだか息苦しかったという理由もありますが」
「そうか。なるほど、そういうことだったのか」

 そこで、俺はあることに気づいた。
 俺は、このカーティアという人物を大人しい人物であると思っていた。それは恐らく、その表情が要因だろう。無表情であるため、活発な性格とはあまり思えなかったのだ。
 だが、彼女は俺が想定していた性格と真逆な性格だったようである。活発でひょうきん、彼女はそういう性格なのだろう。

「……俺は勝手な印象を押し付けていたということか」
「どうかされましたか?」
「いや、なんでもない」

 俺は、カーティアに勝手な印象を押し付けていた。彼女は、自分で表情を作るのが苦手と言っていたにも関わらず、無表情だから大人しいと思っていたのである。
 それは、俺に非があったといえるだろう。彼女の言葉を噛み砕き、考えていればわかっていたはずだ。
 どうやら、俺もまだまだ未熟であるようだ。こんなことでは、この公爵家を継ぐ者として、やっていけないだろう。

「……お気になさらず、全ての非は、私にありますから」
「何?」

 そこで、カーティアはゆっくりとそう呟いてきた。
 それに、俺は驚いていた。なぜなら、その時の彼女の表情はまったく変わっていないにも関わらず、俺にはそれが落ち込んでいるように見えたからだ。
 夢というものは、現実とは違うものだ。その空想の中では、様々なことができる。現実では起こりえないことも、夢の中では可能なのだ。
 だが、俺の夢にそんな部分は微塵もない。夢を見る時、俺は決まって過去の光景をそのまま思い出すのだ。

「アルーグ様、どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」

 夢の中で俺は、最愛の女性と会話していた。
 最近思い出すのは、あの時のことばかりだ。彼女がいなくなってから、俺は彼女の夢ばかり見ていたのである。
 それは、未練がましいことだった。諦めて割り切るべきことをいつまでも引っ張っていた俺は、愚か者としか言いようがないだろう。

「アルーグ様は、照屋さんですね?」
「そんなことは……ないと思うのですが」
「でも、私といつも顔を合わせてくれませんよね?」
「それは……そうですが……」

 その時の思い出を、俺は思い出したくなかった。なぜなら、そんなことを思い出しても辛いだけだったからだ。
 断ち切りたいその未練は、俺の意思とは関係なく押し寄せてくる。それに、俺は複雑な思いを抱いていたのだ。

「……」
「……何?」

 しかし、その時の夢は突然切り替わった。あの思い出すのが辛い明るい日々から、つい昨日の場面に切り替わったのだ。
 俺の目の前には、婚約者がいる。無表情な婚約者は、俺をその鉄仮面で見てきていた。
 変わらないその表情を、俺はただ見つめ返す。すると、彼女の顔が歪む。夢の中だからか、彼女の鉄仮面に変化が起こったのだ。

「……お気になさらず、全ての非は、私にありますから」

 その歪んだ落ち込んだような表情で、彼女は俺にそう言ってきた。
 それは、つい昨日聞いた言葉だ。もしかしたら、彼女はその言葉を放った時、こんな顔をしていたのだろうか。その無表情の裏に、そんな感情が隠されていたのだろうか。

「……思えば、俺は何も知らない。あの無表情は、なんなんだ?」

 そこで、俺は疑問を覚えた。そもそも、カーティアの無表情とは、どういうものなのだろうか。
 生まれた時から、表情が乏しかったという可能性もある。だが、後天的なものであるというなら、そこには何か理由があるはずだ。
 俺は、それを知りたいと思った。あの時の彼女の様子や、今目の前にいる彼女がどうしてこんな表情をしているのか、その理由が知りたかったのである。

「だが……それは」

 しかし、そこには明確な問題が発生するだろう。
 そんな質問をするということは、彼女を傷つけることになるのではないだろうか。
 そう思ったため、俺は自らの考えを捨てようと考えた。だが、それもすぐに否定する。それが正しいことではないと思ったからだ。

「……後悔する訳にはいかん」

 俺は、ある女性のことを思い出した。彼女とのことに関して、俺は後悔してばかりだ。
 何も言わないでいることは、心に安寧を与えてくれる。だが、踏み込まなければ、後悔が残るのだ。
 故に、俺は踏み込むことにする。後悔しないためにも、俺は動くことを決めたのだ。
 俺は、再びカーティアと会っていた。彼女に、その無表情の理由を確かめるためである。
 それを聞くことで、彼女には不快な思いをさせるかもしれない。だが、それでも聞くべきだろう。婚約者となったからには、それは知っておくべきことだ。

「さて、今日はお前に聞きたいことがあるのだ」
「聞きたいこと? なんですか?」
「お前のその表情について、聞いておきたい」
「そのことですか」

 俺の質問に対して、カーティアは表情を変えない。
 だが、俺にはなんとなくわかる。彼女は、今少し困ったような表情をしていると。

「生まれつき、感情を表現するのが苦手だったのか?」
「いえ、そういう訳ではありません」
「それなら、何か理由があるのか?」
「はい、理由はあります」
「それを俺に聞かせてくれないか?」
「……」

 俺の言葉に、彼女は珍しく黙った。その沈黙は、話したくないということを表しているのかもしれない。
 俺が今知ろうとしていることは、彼女の繊細な部分の話なのだろう。それを話したくないと思うのは、至極全うなものである。
 だが、俺は知らなければならない。目の前の婚約者と向き合うためにも、彼女の心中を知っておきたいのだ。

「アルーグ様、それなら私からも交換条件を提示してもよろしいでしょうか?」
「交換条件? なんだ?」
「私も、アルーグ様のことを知りたいと思っています。あなたは、一体いつも何を考えているのですか?」
「……どういうことだ?」
「わかりにくかったですよね? それは、申し訳ありません。実の所、私はアルーグ様に対して、とある感想を抱いていました。あなたは、いつも遠くを見ていると」
「それは……」
「心当たりがあるようですね? それなら、私が知りたいのはそれということになります。あなたの心中を聞かせていただけますか?」

 俺に対して、カーティアは交換条件を提示してきた。俺の心中、それはつまり彼女の話をしろということだろう。

「わかった。ならば、俺の話をしよう」
「いいのですか? 恐らく、話したくないようなことだと思っていたのですが」
「ああ、そうだな……俺にとって、これは話したくないことだ。だが、俺は今お前に同じことを要求している。それなら、俺も覚悟を決めるべきだろう。お前に要求しておいて、自分は隠そうとするなど、許されることではないからな……」
「アルーグ様……」

 俺の言葉に、カーティアは驚いているような気がした。恐らく、彼女は俺がそれを了承するとは思っていなかったのだろう。
 しかし、俺は既に覚悟を決めている。そのため、迷うことは一切なかった。
 こうして、俺はカーティアに誰にも打ち明けていない自らの屈折した思いを打ち明けることになったのだった。
 俺は、カーティアに全てを打ち明けた。俺のあの人に対する思いの全てを、包み隠さず話したのである。

「なるほど、アルーグ様にとって、それは苦い思い出という訳ですか」
「ああ、そういうことになるな……」

 彼女にとっては、婚約者の初恋の話など面白いものではなかっただろう。
 だが、それでも彼女は真剣に話を聞いてくれた。そのおかげか、俺の心はほんの少しだけ軽くなった気がする。
 話したくないことだと思っていたが、人に聞いてもらうだけでも、心というのは楽になるものらしい。願わくは、カーティアも同じように楽になって欲しいと思うばかりである。

「あなたの事情は、よくわかりました。詰まる所、アルーグ様は、私という存在がありながら、他の女性に思いを馳せていたということなのですね?」
「な、何?」
「私と一緒にいるのに、他の女性のことを思うなんて、失礼だとは思いませんか?」
「いや、それは……すまなかった」

 カーティアは、少し怒っている気がした。それがどうしてなのか、俺にはよくわからない。
 もちろん、失礼なことをしたことは確かである。だが、俺達は、所詮親同士が決めた婚約者でしかない。彼女がここまで怒るのは、いささかおかしいのではないだろうか。
 いや、そういうものなのだろうか。例え、相手が思い人でなかったとしても、他の女性を思い浮かべていたと言われれば、かなり不快になるものなのかもしれない。

「まあ、それはいいとして。次は、私のことを話さなければなりませんね」
「……ああ、よろしく頼む」

 俺が謝ったことで少し落ち着いたのか、カーティアは自らの話をするつもりになってくれた。
 それは、俺が一番聞きたかったことである。彼女に何があったのか、それを知ることで、俺は彼女と正面から向き合うことができるようになるのだろう。

「といっても、私のこの無表情には、そこまで深い理由があるという訳ではありません。単純な話で、私は表情の作り方を忘れてしまったのです」
「忘れた?」
「貴族というものは、他人の顔色を窺うものでしょう? そのために、作り笑いだとか、そういう表情を作るということは多いと思います」
「確かに、それはその通りだな……」
「ある時、私はその表情がわからなくなりました。皆、仮面を被っているかのように張り付いた笑顔に見えるようになったのです。それから、鏡で自分の顔を見ていると、表情が固まっていました。私は、今のようになってしまったのです」
「なるほど、そういうことだったのか……」

 彼女が表情を作れなくなったのは、恐らく貴族の性質が原因なのだろう。
 俺達は、多かれ少なかれ他人の顔を窺って生きている。状況によって表情を作り変えるなど、よくある話だ。
 だが、それは本当の表情ではない。他人の思いを操作するための仮面だ。
 その仮面のことを恐ろしく思い、彼女は表情がわからなくなった。そういうことなのだろう。
「お前の事情は、よくわかった。詰まる所、お前は貴族の体裁を保つための表情が、怖くなったということなのだな?」
「ええ、多分そういうことなのだと思います。自分でも、よくわかっていませんが」
「そして、お前はそれを情けないことだと思っている。そういうことだな?」
「……え?」

 俺の新たなる質問に、カーティアはまた驚いていた。
 彼女の表情は、まったく変わっていない。しかし、今の俺にはなんとなくわかる。
 それを考えると少しおかしく思えた。自分達が被っている仮面というものが、どれだけ愚かなものかを理解したからだ。

「庭での会話の時、お前は少し落ち込んでいた。それは恐らく、その無表情に引け目を感じているからなのだろう?」
「それは……」
「だが、それはお前のせいではない。愚かなる貴族社会というものが、悪いのだ」

 俺は、はっきりとそのように思っていた。
 仮面を被り、人の顔色を窺う。それはなんとも愚かなことだ。お互いに本心でないと思いながらする会話に、一体どれ程の価値があるというのだろうか。
 無論、それは貴族の性だ。それが変えられるものではないということは、理解している。
 だが、少なくともその忌まわしき性の犠牲になった素直な女性が、そこに引け目を感じる必要があるとは到底思えない。それが、俺が出した結論だ。

「カーティア、お前は素直な性格なのだろう。俺にも、随分と好き勝手言ってくれる」
「素直……そうかもしれません」
「貴族として、それは不利なことなのかもしれない。だが、俺はそんなお前の性格を好ましく思う。虚構に塗れた人間よりも、お前のような素直な人間の方が、俺は好きだ」
「なっ……!」
「む?」

 俺の言葉に、カーティアはまたも驚いているような気がする。しかし、俺はそんなにおかしなことを言っただろうか。
 いや、彼女の今までの人生において、こんなことを言う奴はいなかったのかもしれない。それに驚いているというのは、そこまでおかしなことではないのだろうか。

「アルーグ様と出会って、時々思っていたのですが、あなたは少し鈍感な所がありますね?」
「鈍感? それは、どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です。どうか、気にしないでください」

 カーティアは、俺に対して少し呆れているような気がした。鈍感、その言葉の意味することとは、一体なんなのだろうか。

「でも、あなたの言葉は嬉しかったです。ありがとうございます、アルーグ様」
「……いや、気にするな」

 そこで、カーティアは俺にお礼を言ってきた。
 お礼を言われるようなことをした覚えはない。だが、その時の彼女は笑っているように思えた。
 喜んでもらえているなら、それでいいのだろう。そう思いながら、俺は彼女との話を終えるのだった。
 カーティアの真実を知ってから、俺は和やかな日々を送っていた。
 彼女との関係も、良好である。恐らく、俺達はこのまま婚約者として過ごし、そのまま夫婦になるのだろう。
 その未来は、きっと明るいはずだ。俺はそのように考えるようになっていた。
 最近は、あの人のことを思い出すことも少なくなっている。俺の心に開いていた穴は、カーティアや他の家族との日常によって、埋まってきているのかもしれない。

「いやあ、アルーグ君も随分と大きくなったものだな。見違える程、立派になって、なんだか私まで感動してしまったよ」
「そう思っていただけているなら、こちらとしては嬉しい限りです」

 そんな俺は、ある機会にアルバット侯爵と話していた。
 彼は、父とは旧知の仲であり、俺もよく知っている人物だ。元々は、祖父の友人だったそうで、俺からすれば遠い親戚のような、そんな感覚の人物である。

「そうだ。ラディーグ君は、最近どうかね? 元気にやっているか?」
「ええ、父も何事もなく過ごしています」
「そうか……ふむ?」
「どうかされたのですか?」
「いや……少し気になることがあってね」
「気になること……?」

 アルバット侯爵の言葉に、俺は少し引っかかりを覚えた。
 彼は、明るい顔をしていない。ということは、その気になることというのは、何か暗い話なのだろう。
 俺は、少し身構える。アルバット侯爵が直接関係ある訳ではないが、彼の家に行ったきり、あの人が帰ってこなかったという事実があるからだ。
 だが、それが侯爵が気になっていることと関係しているとは限らない。そう思いながら、俺は自らの心にあった不安を振り払う。そうやって不安を拭えるようになったのは、俺の心の穴が埋まったからなのかもしれない。

「かれこれ、もう七、八年前になるか……君の父が、私の元を訪ねて来たんだ」
「七、八年前ですか?」
「ああ、まあ、昔のことだから、君は覚えていないだろうね。それで、その時、私は彼と酒を飲んだ。知っているかもしれないが、私は酒が好きでね。まあ、彼にも勧めたのだが……なんというか、予想以上に酔っ払ってしまってね」
「予想以上に?」
「ああ……まあ、あの時は私も酔っていたから気づかなかったが、あれは明らかに飲み過ぎていたか。しかも、その酔っぱらい二人が、使用人も酒を勧めてね。あの時、ついて来ていたメイドにも、結構な量を飲ませてしまった……うむ、まあ、情けない話だ」

 アルバット侯爵の話に、俺は少し震えていた。
 彼は覚えていないと言っているが、俺ははっきりと覚えている。七、八年前に父がとあるメイドとともにアルバット侯爵の元を訪ねたことを。
 俺は、ゆっくりと息を呑む。どうやら、俺はまたも彼女と向き合わなければならないようだ。