公爵家の隠し子だと判明した私は、いびられる所か溺愛されています。

 部屋で寝ていた僕の耳に、戸を叩く音が聞こえてきた。
 どれくらい寝ていたのだろうか。そう思って窓の外を見ると、夕日が沈んでいた。どうやら、結構眠っていたようだ。
 こんな時間に、誰かが僕の部屋を訪ねて来るなんて珍しい。そう思いながら、僕はゆっくりとベッドから体を起こす。

「えっと……誰ですか?」
「あ、エルーズお兄様、ルネリアなんですけど……」
「ルネリア?」

 戸の先にいる人の名前を聞いて、僕は驚いていた。
 ルネリアが部屋を訪ねて来るなんて、初めてである。それに、僕は動揺していた。今の僕の姿を、彼女に見られたくはなかったからだ。
 僕は、彼女に自分のことを話していない。ここに来たばかりの頃、彼女はとても落ち込んでいた。そんな状態の彼女に、僕のことを話して余計な気を遣わせたくはなかったからである。
 そして、そのまま僕は話していなかった。僕自身、それをあまり話したいとは思っていなかったからだ。

「頃合いかもしれない……いや、そうじゃない。彼女がここに来たということは……」

 ルネリアは、少し鈍感な所がある。例えば、僕の状態を気づいていない部分とかがそうだ。
 だが、同時に彼女は聡い部分もある。きっかけがあれば、僕がどういう状態なのかもわかるだろう。
 そしてきっと、それがわかったらここを訪ねて来るはずだ。多分、今がそういうことなのではないだろうか。

「入っていいよ」
「はい、失礼します」

 ルネリアは、ゆっくりと部屋の中に入って来た。その表情は、少し暗い。
 彼女は、ベッドの上にいる僕を見て少し驚いたような表情をした。だが、すぐにその表情は変わる。それは、やはりというような表情だ。

「僕のことを知ったんだね……」
「知ったという訳ではありません。サガードの話を聞いて、もしかしたらそうなのかもしれないと思ったのです」
「それを確かめに来たんだね……」
「はい……一度その疑念を抱いたら、聞かなければならないと思ったのです。それを抱えたままでは、今まで通りエルーズお兄様と接することはできないと思ったので……」
「うん、そうだね……」

 ルネリアは、ここに来た意図を話してくれた。
 確かに、僕がどういう状態なのかということの予測ができているのに、それを知らない振りするというのは変だ。それなら聞いた方がいいと思う彼女の考えは、間違っていない。
 僕に関しても、いつまでも隠しておけることではないとわかっていたことだ。多分、これがいい機会なのだろう。

「そこに座ってくれるかな? 僕のことを話すから」
「はい……」

 僕は、ベッドの傍の椅子にルネリアを座らせた。
 こうして、僕は彼女に事情を話すことにするのだった。
「僕は、生まれた時から体が弱かったんだ。人よりも体力がないし、すぐ風邪を引くし……それは、生まれ持った性質みたいなんだ」
「そうだったのですね……」

 僕は、ルネリアに自分の事情を打ち明けた。
 それは、口に出すと辛いことだ。なぜなら、今目の前にいるルネリアのように悲しそうな表情をされるからだ。
 それを見ていると、心が痛くなってくる。彼女のこんな顔は、できれば見たくなかった。それは、仕方ないことなのかもしれないけれど。

「……治らないんですか?」
「わからない。治るかもしれないし、治らないかもしれない」

 ルネリアが最初に聞いてきたのは、そんなことだった。
 治らないのか。その質問は、中々に答えにくい。
 お医者様から、治療やリハビリを頑張れば治るかもしれないと言われている。
 つまり、治るかどうかはわからない。可能性はあるといった所だろうか。

「可能性でしかないんだ。治療とかリハビリとか、色々すれば治るのかもしれない。その程度でしかないんだよ」
「エルーズお兄様……」

 僕の紡ぎ出した言葉に、ルネリアは震えていた。
 自分でも少し語気が荒くなっているのは自覚している。こういうことを言う時、僕は穏やかではいられないのだ。
 彼女には、少し酷なことかもしれないが、これには耐えてもらいたい。後少しで、いつも通りの僕に戻れると思うから。

「……ルネリア?」

 そこで、ルネリアは僕の手を握ってきた。その手は、とても力強い。
 彼女の温もりが、僕に伝わってくる。しかし、何故彼女は急に手を握ってきたのだろうか。

「どうしたんだい? 急に?」
「あっ……ごめんなさい」
「いや、別にいんだけど……」

 ルネリアは、自分の行動に驚いていた。つまり、彼女にとってこれは無意識の行動だったようである。
 どうして、彼女はそのような行動をしたのだろうか。それが、僕にはわからない。きっと、ルネリア自身にもそれはわからないのだろう。

「えっ……?」
「エルーズお兄様? どうかされましたか?」
「な、なんでもないよ……」

 そこで、僕はルネリアの顔をはっきりと見た。今で、自分のことに気を取られていて、彼女の顔を見られていなかったのだ。
 ルネリアの目からは、涙が流れていた。一筋の涙が、ゆっくりと彼女の頬を伝っていたのである。
 それも、彼女は気づいていないのだろう。無意識の内に、彼女は涙を流していた。それは、どういうことなのだろうか。
 わからないことは多い。だが、一つだけわかることがある。それは、僕の言動が、彼女にそうさせたということだ。
「……その、ルネリア、大丈夫かい?」
「大丈夫……?」
「少し……顔色が悪いような気がするんだ。僕が、変な話をしたからかな。そうだったとしたら、ごめん。その……僕は、大丈夫だから」

 僕は、ルネリアが安心するようにゆっくりと話しかけた。
 僕は馬鹿だった。いくら自分の境遇が悲惨であると思っているとしても、それを態度に出して妹を泣かせていいはずはない。
 僕は、彼女の兄である。アルーグお兄様やウルスドお兄様のように、彼女の前では気高き姿を見せなければならないのだ。

「……ごめんなさい。多分、お母さんのことを思い出していたんだと思います」
「え?」

 そんなことを考えている僕に、ルネリアは驚くべきことを言ってきた。
 お母さん、彼女がそう呼ぶのは僕達の母親ではなく、彼女の実の母親だ。
 僕は、今までの自分の言動を改めて思い返す。そうするとわかる。僕は、まるで生を諦めているかのようだったと。
 それが、僕の本心かどうかなんてどうでもいい。重要なのは、そんな僕の態度がルネリアにどう思われていたかだ。

「ルネリア、君は……」
「エルーズお兄様?」
「ごめん、僕は……僕は」

 僕は、ルネリアの手を力強く握り返した。
 益々自分が情けなくなってくる。僕は、彼女の一番辛い記憶を引き出してしまったのだ。
 それは、許されることではない。僕は兄失格だ。

「……大丈夫だよ、ルネリア」
「え?」
「僕は、大丈夫だから」

 僕は、ゆっくりとそう呟いた。
 それは、今までの大丈夫とは違うものだった。



◇◇◇



 ルネリアとの話を終えてから、僕はお母様の部屋に来ていた。お母様に言いたいことがあったからである。

「それで、話とは一体何かしら?」
「お母様、僕は治療を受けたいと思います」
「エルーズ、あなた……」

 僕の言葉に、お母様は目を丸めていた。それは、当然だろう。なぜなら、今まで僕はそれをずっと避けていたのだから。

「先程、ルネリアと話しました。彼女を見ていて思ったのです。妹を泣かせたくないと……僕は、あの子に安心してもらいたい」
「エルーズ……」

 お母様は、ゆっくりとこちらに歩いてきた。そのまま、僕は抱きしめられる。お母様の体は、少し震えていた。

「あなたがそう言ってくれて嬉しいわ」
「お母様……」
「頑張りましょう、エルーズ」
「はい……」

 僕は、お母様の体をゆっくりと抱きしめた。
 これから大変かもしれない。でも、頑張りたいと思う。
 妹を泣かせたくない。その一心を胸に抱き、僕は奮起するのだった。
 ルネリアがこのラーデイン公爵家に来てから、色々なことが変わった。
 私と夫との関係はもちろんのこと、彼女は兄弟達にも影響を与えている。イルフェアは最近以前にも増して明るくなったし、ウルスドは慈善事業や貴族としての役割に興味を持つようになった。さらに、エルーズも自身の体質を改善しようと努力するといってくれた。
 私にとって、それらは嬉しいことばかりだ。

「手紙?」
「ええ、そのようです」

 そんな風なことを思っている私の元に、とある知らせが届いてきた。それは、ルネリアがかつていた村から届いた知らせだ。

「つまり、あの子の母親が残していた手紙が見つかったの? その手紙の宛名が……」
「はい、奥様に宛てた手紙であるようです」
「なんてことなの……」

 メイドから伝えられた事実に、私は動揺していた。
 正直言って、私はルネリアの母親にはいい印象を抱いていない。あの子のことは別だと割り切れても、流石に彼女の母親まで許容できる訳ではないのだ。
 そんな彼女が、私に手紙を残していた。それに、私は混乱する。どうして、そんなものを書いたのだろうか。私に何を伝えようというのだろうか。

「……その手紙を、こちらに渡してもらえるかしら?」」
「奥様、大丈夫ですか?」
「ええ……大丈夫よ」
「……それでは、こちらです」
「ありがとう」

 私は、メイドから手紙を受け取った。封筒に包まれたその手紙には厚い。どうやら、それなりの文章量のようだ。
 その手紙を読まないという選択肢もあるだろう。しかし、私はその手紙を読むべきだと思った。
 理由は、自分でもよくわからない。もしかしたら、私の中にもう会うこともない因縁の相手に対する興味が、そうさせたのかもしれない。

「席を外してもらえるかしら?」
「……はい、失礼します」

 メイドが部屋を出るのを見届けてから、私はゆっくりと椅子に座る。

「アフィーリア様へ、ね……え?」

 私は、思わず手紙の封筒を二度見していた。そこには、私の名前が刻まれている。別におかしなことではない。私に宛てた手紙なのだから、私の名前があるのは当然だろう。
 しかし、疑問がある。この手紙の書いたルネリアの母親は、どうしてわざわざ私の名前を書いたのだろうか。例えば、ラーデイン公爵夫人と書くこともできたはずなのに。
 そもそも、彼女はどうして私の名前を知っているのだろうか。調べたのかもしれないが、わざわざそんなことをするだろうか。

「まあ、些細なことよね……」

 色々と疑問はあったが、私は手紙の中身を見てみることにした。もしかしたら、その疑問の答えが、そこにあるかもしれないからだ。
 少し緊張しながらも、私は封筒を開ける。すると、何枚もの紙が入っていた。これが全て、私への手紙なのだろうか。かなりの量である。

「……なんですって?」

 私は一番上に入っていた手紙を読んだ。そして、そこに書いている内容に驚愕する。
 そこには、ルネリアの母親の素性が記されていた。彼女の名前は、私がそれまで聞いていた名前とは異なるものだった。
 そして、その名前は私がよく知っている名前だったのだ。
 ラーデイン公爵家に仕えてから、早いものでもう二年にもなる。
 初めてこの屋敷に来た年に生まれたオルティナ様が、もうすぐ二歳になるというのは、正直信じられないことだ。
 時が流れるのが早くて困る。そんなやり取りを奥様と交わしながら、私は今日も業務に励む。
 メイドとして過ごすというのは、案外私の性に合っているのかもしれない。男爵家の令嬢ではあるが、こうやってせっせと働く方が私という人間にとっては幸福なのではないか。最近は、そう思っている。

「セリネア、少しいいかな?」
「はい、なんでしょうか?」
「実は今日、アルバット侯爵に会いに行くんだ。ついて来てもらえないだろうか?」
「私が、ですか?」
「ああ、メイド長がそろそろ君にもそういう経験を積ませたいそうなんだ。いい機会だと思ってね」
「そうですか……わかりました」

 そんな私に、旦那様が話かけてきた。どうやら、出かける用事があって、そこに私がついて行かなければならないようだ。
 正直、少し緊張した。だが、ここは頑張り所だと思った。そういうことを任せてもいい。メイド長がそう思ってくれているという事実を胸に、私は奮起する。
 こうして、私は新たなる仕事をすることになったのだった。



◇◇◇



 朝起きて身支度をしてから、私は筆を取っていた。一枚の紙に、私はゆっくりと書き記していく。公爵家のメイドをやめるという旨を。

「……」

 昨日、何があったのか。私は正直あまりよく覚えていない。
 酔ったアルバット侯爵と旦那様に酒を勧められて、それを断り切れず飲んだ所までははっきりと覚えている。
 しかし、その辺りのことは定かではない。だが、朝起きた時の状況は、何が起こったかをわかりやすく示していた。

「もう、ここにはいられない……」

 辞表を書き終えてから、私は部屋を出ることにした。
 頭の中には、色々な感情が混ざり合っている。ただ、一つわかることは、もう奥様に合わせる顔がないということだ。
 こんな形で去ることは、正しいことではないかもしれない。しかし、他にいい方法も思いつかない。何より、私にそんなことを考える余裕がないのである。

「とにかく、家に帰るしかない、か……」

 これからどうすればいいのか、それはよくわからなかった。
 男爵家に帰った私が温かく迎え入れられるとは思えない。公爵家の使用人を急にやめて帰ってくる。それが、すんなりと受け入れられることなどないだろう。
 しかし、他に行く場所も思いつかない。だから、男爵家に帰るしかないのだ。
 男爵家に戻った私は、目の前の光景に驚愕していた。
 慣れ親しんだ男爵家の屋敷は、燃えている。燃え盛る炎を現実だと思いたくない。だが、その熱がそれを嫌でも現実だと実感させてくる。

「お、お嬢様、どうしてこちらに……」
「ゼペックさん……これは、一体?」

 私の元に駆け寄ってきたのは、執事のゼペックさんだった。彼は、蒼白な顔をしている。状況的に考えて、それは当然だろう。

「だ、旦那様が火をつけたのです」
「お父様が? どうして、そんなことを……?」
「どうやら、旦那様は博打によって借金を抱えていたそうです……」
「なっ……」

 ゼペックさんの語ることに、私は困惑していた。父が、そんなことをしていたなんて、信じられないことである。
 だが、私が生まれた時からいる執事のゼペックさんが言っていることだ。それに、間違いはないのだろう。
 それに、少し後ろの方にいる他の使用人達も、ゼペックさんの言葉に何も言わない。ということは、やはりこれは紛れもない現実なのだろう。

「お嬢様、お逃げください」
「え?」
「旦那様は、借金を返せていません。その借金取りは、親族であるあなたを狙うでしょう。あなたは、名前を変えて違う人生を歩むべきだ」
「で、でも……」
「これを……」
「これは……」

 ゼペックさんは、自分の首にかかっていたペンダントを私に差し出してきた。それは、彼が家族から贈られたといっていたものだ。確か、魔よけのお守りだと聞いている。

「今、私が渡せるのはこれだけです。ですが、これだけでもあなたがしばらく生きていけるだけの資金になるはずです」
「そ、そんなことできません。だって、これは……」
「いいのです。あなたの命の方が、私にとっては大切だ」

 ゼペックさんは、私に優しく笑いかけてきた。
 私は、ペンダントを受け取るべきか悩む。こんな大切なものを、私が生きていくためだけに受け取っていいのだろうか。
 ゼペックさんは、そんな私の手を取り、その手にペンダント握らせてくる。その手には、力が籠っている。

「お嬢様、どうかご無事で……」
「ゼペックさん、ありがとうございます……それに、ごめんなさい」
「謝らないでください」

 私の言葉に、ゼペックさんは首を振ってくれた。
 彼の思いに、私は応えるべきなのだろう。ここまでしてくれた彼の願いを無下にしてはならない。そう思った私は、ゆっくりとペンダントを握りしめる。

「さようなら、ゼペックさん。それに、皆さんも……」
「ええ……」

 私は、その場を去ることにした。
 こうして、私は一瞬にして仕事も帰る家も失ったのだった。
 私は、途方もなく歩いていた。一体自分がどこに向かっているのか、自分でもわからない。
 わかっていることは、私に帰る場所がないということだ。ラーデイン公爵家にも、男爵家にも帰れない。私は全てを失ったのである。

「これから一体、どうすればいいんだろう……」

 ゼペックさんと話していた時は、生きなければならないと思っていた。だが、私は一体何を目標に生きればいいのだろうか。

「ここは……」

 私は、気づけば谷の近くまで来ていた。この近くには、それなりに有名な谷がある。そこでは、多くの者が身投げしているらしい。
 気を確かに持たなければならないことはわかっているつもりだ。しかし、私の足はどうしてそちらに向かおうとしている。

「……お嬢さん、おやめなさい」
「え?」

 そんな私に、声をかけてくる者がいた。後ろから、何者かが声をかけてきたのだ。
 そこには、先程まで誰もいなかったはずである。しかし、振り返ってみるとそこには確かに人がいた。眼鏡をかけた青年が、立っていたのだ。

「あ、あなたは……?」
「私のことなんて、どうでもいいのです。今重要なのは、あなたがどこに向かおうとしているかということです」
「それは……」

 青年は、私の目を真っ直ぐに見つめてきた。その瞳には力がある。私は思わず息を呑む。

「この先には何もありません。それをあなたは知っていますか? もし知らないのなら、この先に向かうべきではありません。もし知っているなら、私はあなたを止めようと思います」
「……あなたには、関係がないことです」

 私は、青年に対して語気を強めていた。そうすることで、彼が退いてくれると思ったからだ。
 だが、彼はまったく怯まない。その力のある瞳は、未だに私を真っ直ぐに見据えているのだ。

「確かに、私とあなたは関係がないでしょう。ですが、私も無垢な命が費えるのを見過ごすことはできません」
「そんなのは……あなたの自己満足ではありませんか」
「そうかもしれません。ですが、あなたにはまだ生きる理由があるのではありませんか?」
「何を根拠にそんなことを?」
「気づいていませんか? 先程から、あなたはずっと……」
「え?」

 青年の指摘に、私は驚いた。無意識の内に、私は腹部に手を当てていたのだ。
 最近になって、私はあることを察していた。この身に、新たな命が宿っているということを。

「……」

 その命は、私が望んだものではない。だが、どうしてだろうか。私はその子のことが、気になって仕方がないのだ。
 私は、先程までの勢いを失っていた。彼の言葉を聞いて、自分の心と向き合って、どうするべきかを理解したからだ。
 私は、この身に宿った新たな命を守りたいと思っている。私自身のことではどうでもいい。だけど、私の身勝手でこの無垢なる命を費やすことが、私には正しいとは思えないのである。
 ゆっくりと涙を流しながら、私はそう思っていた。そんな私に、青年は手を差し伸べてくる。

「……ついて来てください」
「え?」
「私に当てがあります。ですから、いきましょう」

 私は、ゆっくりと青年の手を握る。根拠はないが、そうするべきだと思ったのだ。
 こうして、私は見知らぬ青年にどこかに連れて行かれることになったのだった。
 私は、青年にとある村に連れて来られた。そこは、農民達が集う村だ。特に何の変哲もない村のように思える。

「リオネクス、つまりこの人をこの村の一員に加えてもらいたいということか?」
「ええ、そういうことになります」
「なるほど、見た所、訳ありという感じだな?」
「正しく、そうなのです」

 青年は、この村のまとめ役らしき人と会話を交わしていた。初老の男性は、リオネクスというらしい青年の言葉に、考えるような仕草をしている。
 私は、訳ありだ。そんな私を村に受け入れていいのか。彼はそれを悩んでいるのだろう。
 普通に考えて、面倒ことは避けたいものである。私を受け入れてくれる可能性の方が、低いはずだ。

「よしわかった。それなら、何も聞かないさ」

 しかし、私の予想に反して、彼は快く受け入れてくれた。
 それに私は驚いた。本当に、それでいいのだろうか。

「本当にいいんですか? 私がどんな人間かもわからないというのに……」
「……お嬢ちゃん、別に過去なんてものを俺達は重視しない。人間なんだから、色々とあるのは当然だからな。俺達が求めるのは一つ。お嬢ちゃんが、助け合えるかどうかということだけだ」
「助け合えるかどうか……」
「この村では、それが一番重要だ。誰かが困っていたら助ける。ただそれだけだ」

 困惑する私に対して、まとめ役の男性はそう言い切ってきた。
 その目は、とても真っ直ぐだ。嘘をついているとは思えない。
 本当に、この村では過去なんて重要ではないのだろう。助け合えるかどうか、それだけが大切なことなのだ。

「……どうか、よろしくお願いします」
「ああ、もちろんだ」

 私は、ゆっくりと頭を下げた。この村の人達の善意に、私は甘えることにしたのだ。
 私のような厄介者は迷惑をかけるかもしれない。だが、今の私には誰かの助けが必要である。この体に宿る新たな命のために。
 だから、この村の人達の善意に甘えようと思う。その結果かけた迷惑は、彼らを助けることで償うことにする。

「ああ、そうだ。そういえば、お嬢ちゃんの名前をまだ聞いていなかったな」
「名前ですか? それは……」
「彼女の名前は、ラネリアです」
「ラネリア? そうかい」

 私は、少し驚いていた。リオネクスさんが、私の代わりに名前を教えたからだ。
 しかも、その名前は私の本当の名前ではない。彼は、偽名を堂々と宣言したのである。
 そもそも、私はリオネクスさんに自己紹介すらしていない。そのため、彼に私の名前がわかる訳がないのだ。
 それなのに、彼は答えた。それも、偽の名前を。これは一体、どういうことなのだろうか。

「まあ、それが本当かどうかはわからないが……とりあえず、お嬢ちゃんはこの村ではラネリアということだな?」
「あっ……」

 まとめ役らしく男性の言葉で、私はやっと気づいた。
 リオネクスさんは、私の素性が判明するかもしれない名前を隠してくれたのだと。
 確かに、それは必要なことだった。焦って忘れていたが、止めてもらえて本当によかった。

「あの……」

 私は、リオネクスさんにお礼を言おうと思った。だが、彼は首を横に振る。
 それでわかった。ここでお礼を言う必要はないのだと。なぜなら、私はラネリアだからだ。お礼を言えば、その前提が覆ってしまう。

「……」

 だから、私は何も言わなかった。そんな私に彼は、笑みを浮かべる。その笑みは、とても優しい笑みである。
 こうして、私はラネリアとなった。新しい場所で、新しい名前を得て、生きていくことになったのである。
 村の人達は、本当に優しい人ばかりだった。皆、私を気遣い助けてくれるような人ばかりだったのだ。
 この世界にこんなに優しい場所があるなんて驚きだ。そんなことを思いながら、私は村での生活を送っている。
 日にちが経つにつれて、私のお腹はどんどんと大きくなっていった。事前に村の人達には伝えていたので、それに驚かれることはなく、皆新たな命の誕生を祝福してくれていた。
 私自身も、それは同じである。不思議なことに、この身に宿る命が無事に生まれてきてくれることに、私は喜びを感じるようになっていたのだ。
 そして、私が絶望の淵に立たされてから、実に一年近くもの月日が流れて、希望が生まれてきたのである。



◇◇◇



「お母さん!」

 そう言って私に笑いかけてくるのは、私の娘のルネリアだ。
 彼女が生まれてから早いもので、もう八年もの月日が経っている。ここまで、色々なことがあった。本当に、色々なことがあり過ぎたのだ。
 だが、今の私の感情というものは、ただ一つである。毎日が楽しい。ただ、それだけなのだ。

「どうかしたの?」
「いいえ、なんでもないのよ」

 私は、ルネリアと一緒に農民として働いている。村の人達が分け与えてくれたこの家と畑で、最愛の娘と暮らすという生活は、私にとって幸せでしかない。
 過去のことなんて、今の私にとってはもうどうでもいいことである。この幸せが続いてくれるならそれでいいのだ。

「ラネリア、ルネリア、調子はどうだい?」
「あ、村長、おはようございます。今日も、絶好調ですよ」
「うん! 私も元気だよ!」
「そうかい、それは何よりだな」

 村長さんや村の人達とも、もう随分と長い付き合いになる。彼らの助けがあったからこそ、私は今ここにいられる。そんな彼らに、私は感謝の気持ちでいっぱいだ。

「それにしても、ルネリアも随分と大きくなったなあ。この間生まれたばかりだと思っていたのに……」
「そうですね……子供の成長とは、早いものです」
「うん?」

 私と村長の会話に、ルネリアは首を傾げていた。彼女にとって、八年という月日は長いものだっただろう。その時間のギャップが、ルネリアにはまだわからないのだ。

「さて、それじゃあ、俺はそろそろ行くよ。今日も、頑張りな?」
「はい」
「うん!」

 村長は、私達に笑顔で手を振ってから去って行った。
 この村は、皆こんな感じだ。温かい人達ばかりなのである。ここに来られて、ここで生きられて、私は本当に幸運だ。

「さて、ルネリア、それじゃあ今日も頑張って働きましょうか」
「うん! お母さん!」

 私の言葉に、ルネリアは大きく頷いてくれる。彼女の笑顔が、私に力をくれる。彼女こそが、私の希望なのだ。