ルネリアが私をどう思っているかわかってから、私は再度キルクス様の元を訪ねていた。彼に、お礼が言いたかったからである。
「本当にありがとうございました。おかげさまで、私はルネリアの気持ちがわかりました」
「ふむ……それは、よかった。よかったのだが、流石にそこに至るまでの惚気が長すぎないか?」
「え? いや、それは……すみません」
私のお礼に対して、キルクス様は少し疲れたような声を出していた。その顔は、喜び半分、呆れ半分といった感じだ。
最初にお礼を言ってから、私はことの経緯を説明した。それが長すぎて、彼は疲れてしまったようだ。
確かに、嬉しすぎて長く話した自覚はある。彼からすれば、それはあまり面白い話ではなかったかもしれない。
「しかし、お前と妹の関係性は不思議なものだな……」
「え? そうですか?」
「ああ、隠し子や妾の子といった存在とそのような仲になるというのを、俺は聞いたことがない。お前達の関係性は、特別なものだといえるだろう」
キルクス様の言葉に、私は少し考える。確かに、それはそうだろう。隠し子や妾の子、そういった存在がどう扱われるか、私も知らない訳ではない。
だが、私からしてみれば、そちらの方が不思議である。どうして、そんな風にできるのか、むしろ理解できない。
「ふっ……理解できないというような表情をしているな?」
「え? まあ……そうですね。私からしてみれば、そういう不当な扱いは理解できません」
「そうか……素晴らしい心掛けだ。やはり、お前が俺の婚約者でよかったと、そう思う」
私に対して、キルクス様は笑みを浮かべた。それは、少し恥ずかしい言葉だ。本人は、あまりそう思っていないようだが。
「……私も、キルクス様が婚約者でよかったと思っていますよ?」
「む……?」
その仕返しではないが、私も自分の素直な思いを打ち明けてみた。すると、彼は少し面食らったような表情になる。
その直後、彼が私から視線を外したのを見て、私は少し笑う。
「……ふむ、そうだ。お前に一つ頼んでもいいか?」
「え? はい、なんですか?」
そこで、キルクス様はそのように切り出してきた。それは、少し強引な話題転換のように思える。それ程、恥ずかしかったのだろうか。
「お前の妹に、俺も会わせてくれないか? 未来の義妹に、挨拶しておく必要があるだろう?」
「……それも、そうですね。それでは、よろしくお願いできますか?」
「ああ、もちろんだ」
私の言葉に、キルクス様はしっかりと頷いてくれた。
こうして、婚約者に新たなる妹を紹介することが決まったのである。
私は、イルフェアお姉様と一緒に王城に来ていた。
なんでも、お姉様の婚約者が私に挨拶しておきたいそうなのだ。
私が公爵家に来る前に決まっていた婚約だったため、他の人には一通り挨拶しているらしい。それなのに、私に挨拶していないのは変だから、挨拶をしたいということのようだ。
今は、客室にて、その第二王子を待っている。お姉様の婚約者は、この国の王子様なのだ。
「王子様か……」
「ルネリア? どうかしたの?」
「あ、いえ、その……今まで、雲の上の存在でしたから、その人に挨拶をされるというのも変な感じで……」
「ああ、そういうことなのね……」
正直な話、私はとても緊張していた。これから会うのは、お姉様の婚約者で、王子様である。そんな人物と会うのに、心穏やかでいられるはずはない。
「でも、大丈夫よ。キルクス様は、優しい方ですから」
「そう……ですよね」
「え?」
「イルフェアお姉様の顔を見ていれば、わかります。キルクス様がいい人だということは……」
キルクス様は、いい人である。それは、もうわかっていることだ。イルフェアお姉様の彼を語る時の顔が、それを教えてくれている。
そもそも、私に挨拶をしておきたいという時点で、その人が真面目で誠実であるということは確実だ。普通なら、突然現れた隠し子に挨拶しようなんて、思わないだろう。
「……失礼する」
「あっ……」
そんなことを話していると、部屋に一人の人物が入ってきた。
その人は、目つきの鋭い若い男性だ。なんというか、思っていたよりも顔は怖い。
「待たせてしまって申し訳ない。そもそも、本来ならこちらから出向くべきことであるというのに……」
「あ、えっと……お気になさらないでください」
私に向けて放たれた言葉に、私は困惑した。緊張で、なんと言えばいいかよくわからなくなったからだ。
なんとか、言葉を発することはできたが、これで合っているのだろうか。イルフェアお姉様もキルクス様も何も言わない所を見ると、特に問題はなかったように思えるのだが。
「さて……私の名前は、キルクス・アルヴェルド。このアルヴェルド王国の第二王子だ」
「ルネリア・ラーデインです」
「ふむ……知っての通り、私は君の姉の婚約者だ。これから、どうかよろしく頼む」
「は、はい……よろしくお願いします」
キルクス様は、私に対してとても穏やかに対応してくれた。
初めは怖いと思っていたその顔も、だんだんと優しく見えてきた。それは、実際に話して、彼がとてもいい人だとわかったからなのかもしれない。
私は、しばらくの間キルクス様と話した。
話してみてわかったのは、彼がいい人であるということである。
イルフェアお姉様との相性も多分いいのだろう。二人のやり取りから、なんとなくそれは理解できた。
何はともあれ、無事に王子との会合が終わって一安心である。
「む……?」
「キルクス様、どうかされたのですか?」
「二人とも、すまない。少しだけ待ってくれ」
話も終わったので、私達は帰ることになった。
馬車まで送っていくと言ってくれたキルクス様は、王城内の廊下で声をあげた。よくわからないが、何かに気づいたようだ。
「サガード、隠れていないで出てこい」
「……兄上、ばれていたのか」
キルクス様の呼びかけに、物陰から私と同い年くらいの男の子が出てきた。
態度からして、彼は王族の一人だろう。そうでなければ、キルクス様にこんな口の利き方ができる訳がない。
「そんな所に隠れて、何をしていた?」
「別に、なんでもいいだろう?」
「お前は、客人に無礼を働いたということを理解していないのか?」
「それは……」
キルクス様の言葉に、サガードと呼ばれた少年は怯んだ。流石に、私達を隠れて見ていたことが悪いことであるということは、理解しているらしい。
「キルクス様、私もルネリアも気にしていませんよ」
「その気遣いはありがたい。しかし……」
「サガード様も、別に悪気があった訳ではないと思います。恐らく、彼はただ……」
「ただ?」
イルフェアお姉様は、キルクス様を諫めていた。
彼女は、なんだか楽しそうな笑みを浮かべている。口振りからして、お姉様は彼がどうして私達の様子を窺っていたか、わかっているのだろうか。
「サガード様、私の口から言っても構いませんか?」
「え? いや、その……」
イルフェアお姉様に呼びかけられて、サガード様は焦っていた。何故かわからないが、彼は顔を赤くしている。もしかして、お姉様が美人で見惚れてしまったのだろうか。
気持ちはわかるが、それはいけない。なぜなら、お姉様は彼にとって兄の婚約者だからだ。
「その……お前」
「え? 私、ですか?」
「ああ、お前だ」
私がそんなことを考えていると、サガード様は私に話しかけてきた。
これは、どういうことだろうか。私は、彼に何もしていないと思うのだが。
「……俺の名前は、サガードという。お前の名前を教えてくれないか?」
「えっと……ルネリアです」
「そうか……その、良かったら、これからよろしく頼む」
「え? あ、はい。よろしくお願いします」
挨拶をされたので、私は挨拶を返した。すると、彼は満足したように頷き、そのまま踵を返した。
その様子に、私は困惑する。これは、一体なんだったのだろうか。
わかったことは、イルフェアお姉様が笑っていて、キルクス様がやれやれというような表情をしていたことだ。なんというか、二人は私が知らないようなことを知っているような気がする。
公爵家の貴族として生を受けたことが不幸だったといえば、きっと誰もが怒るだろう。
平民と比べれば恵まれているのだし、その生活や地位に憧れを持つ者からすれば、俺の言っていることは腹立たしいはずだ。
でも、俺はそれでもそう思っている。もっと自由に生きたかったと。
「時々、俺は自分が籠の中の鳥なんじゃないかと思うんだよ」
「気でも狂ったのかしら?」
婚約者であるクレーナは、俺の発言に怪訝そうな顔をしていた。
いや、これは明らかに引いている。俺が何を言っているのかさっぱりわからないというような顔だ。
「貴族というものには、自由がないだろう。こうやって、決められた婚約者と婚約して、決められた道を歩んで行くだけだ。それはつまり、籠の中にいる鳥と同じなんじゃないかと俺は思う訳だ」
「ふーん」
俺が説明すると、クレーナは興味なさそうな返事をした。なんというか、滅茶苦茶冷たい。
「まあ、お前には理解できないのかもしれないが、俺はそう思っている訳だ」
「そう……それで?」
「それで?」
「その悩みを抱えているあなたは、一体何をしようというのかしら?」
「いや、それは……」
クレーナは、俺を睨んできていた。どちらかというと少しきつい顔つきをしている彼女に睨まれるのは、結構怖い。
しかし、どうして俺はこんな視線を向けられなければならないのだろうか。あまり、よくわからないのだが。
「私からすれば、あなたの言っていることは贅沢な悩みとしか思えないわ」
「それは、わかっているさ。でも……」
「わかっていないから、そんなことが言えるのよ? あなたのそのねじ曲がった性根を私が叩き直してあげましょうか?」
「いや、それは……」
クレーナは、滅茶苦茶怖かった。一体、俺が何をしたというのだろうか。
「……そういえば、あなたには新しい妹ができたそうね?」
「え? ああ、ルネリアのことか?」
「ええ、確か、その子は平民として暮らしていたと記憶しているのだけれど?」
「そうだが、それがどうしたというんだ?」
「それなら、彼女に聞いてみなさいな。平民の生活というのが、どのようなものなのかということを……」
クレーナの言葉に、俺は少し考える。俺は、貴族に生まれたくなかった。ということは、平民に生まれたかったということになる。
そんな平民が、どのようなものなのか、クレーナは俺に学ぶべきだと言っているのだろう。
彼女は、俺の言葉に厳しい態度をしている。つまり、俺はルネリアから何かを学ばなければならないということだろう。
「……わかった。そうしてみるよ」
「ええ、そうしてみなさいな」
「ああ……」
それによって、俺の認識は変わるのだろうか。俺は、そんな疑問を抱きつつ、クレーナの言葉にゆっくりと頷くのだった。
俺は、ラーデイン公爵家の屋敷内を歩いていた。クレーナに言われたことを実行するために、ルネリアを探しているのだ。
昨日、クレーナと会ってから、その隙を俺はずっと窺っていた。ただ、昨日はその隙がなく、今日こそは彼女と話をしたい所である。
「さて、それでどこにいるんだか……」
ただ、彼女は中々見つからない。部屋に行ったがいなかったし、兄弟にも聞いたが、誰もどこにいるか知らなかった。
屋敷の中を見回ったが、どうもいそうにない。そう思った俺は、もしかしたら庭にいるかもしれないと庭に出ることにした。
「おっ……」
すると、予想通りルネリアを見つけた。どうやら、庭に出ていたようである。
しかし、何をしているのだろうか。あそこは確か、花壇の辺りだったような気がする。ということは、花でも見ているということだろうか。
「……うん?」
だが、俺はあることに気づいて、自分の予想が間違っていたと理解した。
なぜなら、ルネリアはスコップ等を持っているからだ。それは、花を見るためには必要なものではないだろう。
よく見てみると、彼女の隣には庭師のダルギスさんがいる。彼と何かを話しながら、ルネリアは作業をしているようだ。
「ルネリアお嬢様、本当によろしいのですか? こんなことをして……」
「大丈夫です、お母様からも許可は得ていますから」
「そうですか……しかし、私の立場からしてみると、お嬢様がこうやって土をいじるのは、どうにも違和感があるといいますか……」
「まあ、そうですよね……でも、私は元々農民でしたから、こういうことには馴染みがあるんです」
「ふむ……」
俺は、二人の会話に耳を傾けてみた。どうやら、ルネリアは、花壇の整備を手伝っているようだ。
そういえば、彼女は元々農家の出身だった。そういうことには、確かに馴染みはあるのかもしれない。
「正直、信じられないことではあるんですよね……だって、去年まではこうやって土と格闘していた訳ですから」
「家のお手伝いをされていたのですね? 立派なことです」
「ええ、まあ、農民としては当たり前のことですから」
「いえいえ、私なんて、家の手伝いが嫌で逃げ出したりしていましたから、きちんと手伝っていたというのは、ご立派なことです」
「そうなんですね……ダルギスさん、結構やんちゃだったんですね?」
「ええ、恥ずかしながらそうなのです」
俺は、二人の会話に足を止めていた。なんというか、そこに自分が寄っていくことができない気がしたからだ。
今、二人は平民の世界の話をしている。それは、貴族である俺の知らない話だ。
俺は、そんな身分に生まれたかったといった。だが、それがどういうことであるのか。俺は改めて考える。
「毎日、早起きして、一日中作業して……大変でした。今の生活にも苦労はありますけど、あの頃に比べると随分と豊というか、なんというか……」
「それは、そうでしょう。やはり、貴族ですからね」
「ええ、でも、私、こうやって土が恋しくなる程には、あの時に愛着があったのかなと、今になってそう思うんです」
「そうですか……それは、いいことだと思います。ルネリアお嬢様は貴族ではありますが、その時のことを忘れないでいてくれるというのは、平民の私からすると、嬉しいことです」
「そうなんですか?」
「ええ、そういうものなのです」
ルネリアの昔を懐かしむようなその言葉に、俺は拳を握っていた。そこには、彼女の平民としての苦労が滲み出ていたからだ。
ダルギスさんの言葉もそうである。平民としての思いが溢れている。
俺は、そんな身分になりたかったと言った。だが、それを本当に理解していたのだろうか。
そう自分に言い聞かせた時、答えはすぐに出た。それによって、俺は震える。自分が情けないと。
「……どうやら、わかったようね」
「え?」
そんな俺に、誰かが呼びかけてきた。ゆっくりと振り返ると、そこにはクレーナがいる。
どうして、彼女がここにいるのだろうか。その疑問はあった。
だが、今はそんなことはどうでもいい。俺はもっと大事なことを彼女に言わなければならない。
「クレーナ、俺は自分が情けない。平民になれば、自由が手に入るなんて、そんな訳がないのに……」
「そう……そうね。まあ、今までのあなたはとても見っともなかったというか、貴族の傲慢というか、そんな感じだったわね。でも、今はいい顔になっているわ。少なくとも、高慢な貴族は卒業といった所かしら?」
「……ああ、そうなりたいと思っている」
俺の言葉に、クレーナは笑ってくれていた。
その笑顔を見て、俺は思う。彼女は、なんと優しいのだろうかと。
「ありがとう、クレーナ……俺は、お前のおかげで大事なことを理解できた」
「お礼なら、私ではなく……いえ、まあ、それはいいかしら? そんなことより、この程度で理解したなどとは思わないで欲しいものね。今から、あなたにもっと教えてあげるから、支度をしなさい」
「支度?」
「出かける支度よ」
「……わかった」
俺はクレーナの言葉に、ゆっくりと頷いた。
彼女が、何を考えているかはわからない。だが、俺はそれでいいと思った。
今なら、確信できる。彼女は、俺に何か重要なことを教えてくれようとしているのだ。それなら、俺はそれに従うだけである。
こうして、俺は身支度のために屋敷の中に向かうのだった。
屋敷の方に向かうウルスドお兄様を、私はダルギスさんと一緒に見つめていた。
彼が屋敷の中に入ってから、クレーナさんがこちらを向いた。彼女は、笑みを浮かべている。それは、嬉しそうな笑みだ。
「二人とも、今回はありがとうございました」
「い、いえ……」
「ええ、お役に立てたなら何よりです」
こちらに来たクレーナさんは、私達二人にゆっくりと頭を下げてきた。
実の所、私達は彼女からあることを頼まれていた。それは、つい昨日頼まれたことである。
◇◇◇
私は、昨日もダルギスさんと土いじりをしていた。
「ええ、でも、私思うんです。こうやって土が恋しくなる程には、あの時の愛着があったのかなあって」
「なるほど……それは、いいことだと思います。平民の私からすると、貴族のルネリアお嬢様がその時のことを忘れないでいてくれるというのは、嬉しいことです」
「そういうものなのですか?」
「ええ、そういうものなのです」
その時、私達はそんな会話を交わしていた。今日と同じようなことを言っていたのである。
「……お二人とも、少しよろしいでしょうか?」
「え?」
「おや……」
そこに偶々通りかかったのが、クレーナさんだった。彼女は、廊下の窓から身を乗り出して、私達に話しかけてきたのだ。
私達は、驚いていた。まさか、そんな所から誰かに話しかけられるとは、まったく思っていなかったからである。
「こんな所から、申し訳ありません。少し、失礼しますね」
「え?」
「ああっ……」
クレーナさんは、廊下の窓を飛び越えてこちら側に来た。
それは、中々に華麗な跳躍である。貴族としては、大いに問題であるとは思うが。
「本来なら、こういうことはあまりよくありませんが、今は少し時間がないのでどうかお許しください。さて、まずは自己紹介から、私はクレーナ・トルキネスといいます」
「確か、ウルスドお兄様の婚約者さんですよね?」
「ええ、そうです」
私の言葉に、クレーナさんはゆっくりと頷いた。その時の彼女は、少しだけ焦っているように思えた。今にして思えば、それはウルスドお兄様に見つからないかを気にしていたのだろう。
「不躾な頼みではありますが、私はお二人に先程の話をもう一度して欲しいのです」
「え? もう一度?」
「ええ、あの話はとても素晴らしい話でした。それを私は、ある人物に聞かせて欲しいのです」
「ある人物ですか……」
私とダルギスさんは、クレーナさんの言葉に顔を見合わせた。それから、彼女とウルスドお兄様との間で何があったのかを聞かされたのである。
◇◇◇
「結果的に、上手くいきましたけど……結構、緊張しました」
「ええ、自然な感じにできるか、中々不安でしたね……」
「まあ、大丈夫でしょう。彼も、ああして心を入れ替えた訳ですから」
私達の言葉に、クレーナさんは笑っていた。なんというか、嬉しそうで満足そうな笑みである。
もしかして、彼女はウルスドお兄様のことが結構好きなのではないだろうか。その笑顔を見て、私はそんな感想を抱くのだった。
俺は、クレーナに連れられてある場所に来ていた。
そこには、行列ができている。その先には、食料のようなものが配られている。
「ここは……」
「今ここでは、配給が行われているのよ」
「配給……」
「ええ、貧しくて食べ物にありつけていない人達に、食料を配給しているの。ここに来ている人達は、皆そういう人達なのよ。当然、その多くは平民……皆、色々な事情があって、ここに来ることになっている」
クレーナの言葉に、俺は固まっていた。知識として、そういうことがあることは知っていた。だが、実際に見てそれに抱く印象はまったく違う。
俺は、ゆっくりと息を呑んだ。この光景を見て俺は改めて自分が情けない人間であることを理解した。拳をゆっくりと握りしめながら、俺はそれを噛みしめる。
「私はね……貴族というものはこういう人達の上に立っているということを理解していなければならないと思っているの。私達は、ここにいる人達がした苦労のおかげで生まれて育った。それをこの身に刻んでいなければならないと思っているの」
「……ああ、そうだよな。確かに、その通りだよ」
「私は、あなたにもそういう人になって欲しいと思っているわ。私の夫になる人が、貴族としての矜持も何も持っていないなんて、そんなのは耐えられないから……」
「悪かった……」
俺は、クレーナに頭を下げた。
彼女が、最初に俺の話を聞いた時、どうしてあんな顔をしたのか。それが、今ならわかる。
「こんな俺でも、お前はまだ見捨てないでいてくれるか?」
「……あなたのことはよく知っているわ。透き通るように純粋なあなたは、何も知らなかったから、あんなことが言えたのだと私は思っているの。これからのあなたは、もちろん違うのよね?」
「ああ、当然だ。俺はこれから、貴族としてしっかりと生きたいと思っている」
「そう……それなら、いいのよ。人は誰でも間違いを犯すもの……その間違いを正すことができるかどうかが、私は大切だと思っているわ。あなたは、それをしようとしている。それなら、問題はないわ」
クレーナは、そう言って俺に笑顔を見せてくれた。
その明るい笑顔に、俺は見惚れていた。彼女は、なんて優しく心が広いのだろうか。俺には、勿体ない程にできた婚約者だ。
「……まあ、あなたが役割を果たして、次の世代にそれを託せたとしたら、自由に生きるというのも悪くはないかもしれないわね」
「それは……」
「それまで、二人で頑張るとしましょうか」
「……ああ」
差し出されたクレーナの手を、俺はしっかりと握りしめた。
こうして、俺は自らの甘い認識を妹と婚約者のおかげで、改めることができたのである。
クレーナさんがウルスドお兄様と合流して出かけて行くのを見届けてから、私はダルギスさんとの土いじりを再開していた。
恐らく、二人はもう大丈夫だろう。きっと、ウルスドお兄様の中にあった憂いも、帰ってきた頃には完全に消え去っているはずだ。
「……ルネリアお嬢様、あれは」
「ダルギスさん? どうかしたんですか?」
そんなことを考えていると、ダルギスさんが少し驚いたような声で話しかけてきた。
私は、彼の見ている方を見てみる。すると、そこには見知った顔があった。
「サ、サガード様?」
「え? ルネリア? どうしてこんな所に……?」
それは、サガード様だった。公爵家の門の方から、この国の王子様が歩いて来ていたのだ。
彼は、庭の花壇にいる私に驚いている。しかし、驚きたいのはこちらの方だ。どうして、彼がこんな所にいるのだろうか。
「えっと……私は、ここで少し園芸をしているんですけど、サガード様こそどうしてこちらに? ラ、ラーデイン公爵家に何かご用事ですか?」
「あ、いや、その……」
私の質問に対して、サガード様は目をそらした。なんというか、彼は照れている。
この反応からして、何か恥ずかしがる理由で、彼はここに来たということだろう。もしかして、イルフェアお姉様に会いに来たとかだろうか。
「お前に、会いに来たんだよ」
「え? 私に?」
「ああ……せっかく、友達になったんだから、遊びに行くのもいいかもしれないと思ったんだ」
「友達……」
私は、サガード様と先日交わしたやり取りを思い出していた。
確か、私達はこれからよろしくと挨拶をしたはずだ。あれは、友達としてということだったようである。
つまり、彼は友達の元に遊びに来るのが恥ずかしかったということだろうか。そう思って、私は理解する。あの王城での出来事も、そういうことだったのかと。
彼は、同年代の友達がいなかった。それで、私に声をかけてきた。恐らく、そういうことなのだろう。
「事前に連絡もしなかったのは、悪かったと思っている。ただ、なんというか、そこまで気が回らなかったというか……」
「いえ、気になさらないでください」
私は思った。王子様という立場の彼は、きっと色々としがらみがあったのだろう。それで、友達ができなかったのかもしれない。
そんな彼の初めてできた友達、それが私なのだろう。それに彼は、とても喜んでいる。喜び過ぎて、ここまで来たくらいには。
「えっと……とりあえず、中に入りますか?」
「あ、そうだな……いいのか? それを続けなくて」
「ええ、大丈夫です」
私は、彼と一緒に遊ぼうと思った。これ程まで喜んでいる彼を無下にするなんてことはできない。
そもそも、私だって貴族になってから友達はいなかった。だから、そういう存在は大歓迎である。
相手は王子様だ。でも、今は同年代の友達と思うことにしよう。色々なしがらみは、ここでは無用である。
こうして、私はサガード様と友達として接することに決めたのだった。