公爵家の隠し子だと判明した私は、いびられる所か溺愛されています。

 僕は、お父様の部屋を訪ねていた。彼と話したいことがあったからである。
 お父様の部屋は、少し暗かった。それは、実際の明るさの話ではない。なんだか、雰囲気が暗いのだ。

「エルーズ、僕に何か用かな?」
「お父様に聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと? 何かな?」
「……お父様は、生きる希望を失ったの?」
「……」

 僕は、お父様に質問した。
 もしも僕の予想が正しければ、お父様はとんでもないことを考えているはずだ。
 そうでないことを願っている。本当にそうだったなら、それは悲しすぎるから。

「……お父様は知っているとは思うけど、僕は昔から体が弱かったんだ」
「……ああ、もちろん、知っているよ」

 僕の質問にお父様は何も答えなかった。
 そのため、僕は話をすることした。それは、僕の話だ。
 僕は、お父様にこの人生を知ってもらいたかった。僕がどんな考えで生きてきたのか。それを語ることが、今のお父様にとっていいことになると思うからだ。

「僕は、いつも体調を崩していた。よく風邪を引いていて、そうでなくても体がだるくて……いつもいつも辛かった」
「……」
「生きる希望なんてない。僕は、いつしかそう思うようになっていた。このままベッドの上で過ごすんだって、そう思っていたんだ」

 お父様は、僕の言葉を悲痛な面持ちで聞いていた。
 その気持ちは、なんとなくわからない訳ではない。子供がこんなことを言うのは、きっと親にとって辛いことなのだろう。
 だけど、僕はそれを語らなければならない。お父様の心を溶かすためには、それが必要なのだ。

「それでも、僕は生きたいと思うようになったんだ。前を進みたくなったんだ。ルネリアのおかげで……彼女の言葉で、僕は変わったんだ」
「ルネリアが……」
「今でも、僕は体が弱い。でも、もう後ろを向いたりはしないよ。リハビリを頑張って、健康になってルネリアの笑顔を見たい。皆の笑顔が見たい。それが今の僕の生きる希望なんだ」
「エルーズ……」

 僕は、お父様に笑顔を見せた。
 その笑顔は、彼に力を与えられているだろうか。
 そんなことを少し気にしながら、僕は次の言葉を考える。今のお父様に最適な言葉が何かをゆっくりと熟考する。

「お父様、僕は元気になりたいと思っているんだ。生きたいと思っているんだ。だから……健康に生まれてきたあなたが、僕をずっと見てきたあなたが、そんな安易な方法に頼るなんて、間違ってもしないで欲しい」
「……」

 僕は、お父様の目をはっきりと見ていた。
 彼は、とても悲しい目をしている。それは、何を悲しんでいるのだろうか。
 そう思った直後、お父様の表情が変わった。真剣なその顔には、しっかりとした意思が宿っている。
 凛々しいその表情を見ていると、もう大丈夫なように思える。なぜなら、それ程の力が、その表情には宿っているからだ。

「エルーズ……すまない。そして、ありがとう」

 お父様は、僕に短くそう言ってきた。
 それに対して、僕は笑みを浮かべる。その確実な言葉に、僕はやっと心から安心できたのだ。
 お父様との一件も終わり、僕は再び庭に出てきていた。
 木陰で休みながら、風に当たるのはやはり気持ちいい。これだけで、心が安らぐ。

「エルーズ」
「あれ? アルーグお兄様……」

 そんな僕の元に、アルーグお兄様がやって来た。
 お兄様は、ゆっくりと僕の横に腰を下ろす。恐らく、何か話したいことがあるのだろう。

「父上から、事の成り行きは聞いている。お前のおかげで、父上はある程度立ち直れたようだ。感謝する」
「……別に、僕はそこまで特別なことをした訳ではないよ。ただ、僕の素直な気持ちを伝えただけだから」
「それがありがたいのだ」

 アルーグお兄様は、僕にお礼を言ってきた。
 お父様のことで、お兄様がお礼を言う。ということは、事情をわかっていたということだ。
 それは、なんとなく察していたことである。きっと、お兄様はそのために僕を呼んだのだろう。

「お前を呼んで、本当に良かった。お前でなければ、この役目は果たせなかったはずだ」
「そうなのかな?」
「ああ……少なくとも、俺では無理だった。情けない話だが、俺は父上に優しい言葉をかけることなどできない。私怨はあるし、そういう立場でもないからな」
「……そうかもしれないね」

 お兄様の言葉に、僕はゆっくりと頷いた。
 確かに、お兄様ではお父様にそんなことは言えないだろう。
 多分、それはお兄様の役目ではないのだ。あくまでお兄様は厳しい立場であり、僕が優しい立場を取る。その役割分担が大切なのではないだろうか。

「お兄様も、色々と大変なんだよね……」
「……どうしたんだ? 急に?」
「立場とか、私怨とか、色々あって雁字搦めになって……大変なんじゃないかなって、思ったんだ」

 アルーグお兄様は、いつも公爵家を引っ張っている。
 それは、大変なことだろう。今回のことも、大変だったはずだ。

「心配はいらない。それが、俺の役割だ。それより、お前の方が大丈夫か?」
「え?」
「疲れたりはしていないか? 重要な役割を背負わせてしまったからな……」
「それは……まあ、少し疲れたかな」

 アルーグお兄様の質問に、僕は素直に答えることにした。
 今日は、少し疲れた。普段はしないことをしたからだろう。
 これを隠しても意味はないことはわかっている。体の弱い僕が、そういうことを隠すのはよくないことだ。

「アルーグお兄様、少し膝を貸してもらってもいい?」
「膝?」
「今日は温かいし、ここで昼寝したいんだ」
「俺の膝などでいいのか?」
「アルーグお兄様の膝がいいんだ」
「そうか。それなら、来い」
「うん……」

 僕は、アルーグお兄様に膝枕をしてもらうことをした。
 今日は頑張ったので、少しご褒美をもらおうと思ったのだ。
 普段、お兄様にこんなことはしてもらえない。だから、かなり特別感がある。
 こうして、僕はアルーグお兄様の膝の上で眠りにつくのだった。
 僕は、公爵家の別荘で過ごしていた。
 せっかくなので、しばらくはここで過ごすことにしたのだ。
 忙しいので、お兄様は本家に戻っている。という訳で、ここには僕とお父様と使用人達しかいない。

「ふぅ……」

 別荘は、本家に加えてとても静かである。この静けさは、少し寂しい。
 だが、お父様はいつもそれを体験しているのだ。そんな寂しさを紛らわしてあげたい。そんな思いもあって、僕はここに留まっているのだ。

「それでね、僕はルネリアの友達のケリーと知り合ったんだ」
「そんなことがあったんだね……」

 僕は、お父様に公爵家であったことを話していた。
 今話しているのは、ルネリアの友達であるケリーと出会った時のことだ。
 お父様は、それを楽しそうに聞いてくれている。その笑顔を見るだけで、僕も嬉しくなってくる。

「エルーズ、実の所、この別荘の近くには、ルネリアがかつて暮らしていた村があるんだ」
「え? そうなの?」
「ああ、そのケリーという少女も、そこにいるんだろう? もしよかったら、帰る時に少しそこに寄ってみても、いいんじゃないかな?」
「ルネリアのいた村か……」
「もちろん、エルーズは体のこともあるし、無理をしてはいけないけどね」

 お父様の言葉に、僕は少し考えることになった。
 ケリーとは、あの時会った限りだ。それ以来、会ってはいない。
 そんな繋がりで、彼女の元を訪ねていいのだろうか。それは少し、疑問だ。
 それに、僕は体調のこともある。あまり無理をするべきではないだろう。

「エルーズ、君はケリーさんに会いたいと思っているかい?」
「え?」
「その気持ちは、何よりも大切なものなのだと僕は思っているよ。会いたいと思うなら、会いに行くといい」
「……」

 お父様のさらなる言葉に、僕は再び考えることになった。
 しかし、結論はすぐに出てくる。僕は、彼女に会いたいと思っている。それは、明白だったからだ。
 僕は、彼女のことを友達だと思っている。もちろん、あの時会った限りの仲でしかないのだが、それでもそう考えているのだ。

「……答えは決まっているようだね。それなら、僕の方から使用人に言っておこう。最近、優秀な執事が来てね。彼になら、君も任せられる」
「お父様……ありがとう」

 僕は、ケリーに会いに行くことにした。
 それが、僕の素直な望みだったからである。
 せっかく滅多に遠出しない僕が、こんな所まで来たのだ。少しくらい、冒険してみてもいいだろう。
 こうして、僕はルネリアが生まれ育った村に行くことにするのだった。
 僕は、執事のゼペックさんとともに、ルネリアがいた村に来ていた。
 付き添ってくれるゼペックさんは、お父様から信頼できる人だと聞いている。
 その評価通り、彼はとてもできる人だ。対応も丁寧だし、とても優しい。最近、公爵家に雇われたそうだが、恐らく以前も執事として働いていたのだろう。

「さて、行きましょうか。連絡は既に入れてありますから、ご安心ください」「
「はい……」

 ゼペックさんに手を貸してもらいながら、僕は馬車から下りた。すると、僕達を待っていた人物が目に入って来る。
 一人は、この村の村長さんだ。以前、公爵家に来ていた彼は、少し緊張した面持ちでこちらを見ている。
 そして、もう一人僕達を待っている人がいた。それは、ケリーである。

「ケリー、久し振りだね」
「エルーズ様、こんにちは……」

 ケリーも、少し緊張しているようだ。その表情から、それは読み取れる。
 ただ、少なくとも僕の来訪を嫌がってはいないだろう。緊張しつつも、彼女は少し嬉しそうにしているからだ。
 もっとも、それは僕の願望なのかもしれない。本当は嫌がっている可能性もあるので、まだ安心することはできないだろう。

「びっくりしました。エルーズ様がこの村に来ると聞いて……どうしたんですか? 一体?」
「あ、うん。実は、この近く……といっても、距離は結構あるけど、そこに公爵家の別荘があってね。せっかくだから、ケリーに会いたいと思って」
「僕に、会いたかったんですか?」
「うん、そうだよ」

 僕の質問に、ケリーは目を丸めて驚いていた。
 そんなに意外なことを言ったつもりはない。だが、彼女にとってはそうではなかったようである。
 それはつまり、僕達の間に認識のずれがあるということなのだろうか。

「僕は、ケリーのことを友達だと思っているんだ。だから、会いに来たいと思ったんだ」
「僕が、エルーズ様と友達?」
「……嫌だったかな?」
「いえ、そういう訳ではありません。ただ、なんというか、恐れ多いというか……」
「恐れ多い……そっか、そうだよね」

 ケリーの言葉で、僕はあることに気がついた。
 僕は、公爵家の令息である。一方、彼女は平民だ。
 そこには、差がある。その差によって、僕達の認識が同じになるはずはないのだ。
 僕は、気軽にケリーを友達と呼べるだろう。しかし、ケリーは同じようにできない。僕の方が、立場が上だからだ。

「それじゃあ、今からでもいいかな?」
「え?」
「これから、僕達は友達……駄目かな?」
「……いえ、エルーズ様がいいなら、喜んで」

 僕の提案に、ケリーは笑顔を見せてくれた。
 こうして、僕は彼女と友達になったのだった。
 僕は、ケリーの家に招いてもらっていた。
 彼女の家は、農家であるそうだ。というか、この村で暮らしている人々は、ほとんど農民であるらしい。

「お父さんも、お母さんも今は働いているんです。本当は、僕も働かないといけないんですけど、今日は特別ということで……」
「そうなんだ、大丈夫なの?」
「ええ、大丈夫だと思います」

 ケリーのご両親は、農家としての仕事に勤しんでいるようだ。そのため、今は家の中に二人きりである。

「えっと……どうしましょうか? とりあえず、飲み物でも出しましょうか? といっても、水くらいしかないんですけど……」
「気を遣わないで大丈夫だよ?」
「まあ、でも、お客様ですから……」

 僕は、とある部屋に通されていた。ここは、ケリーの部屋であるらしい。
 ベッドと小さな机と椅子、それに本棚といった最低限のものしかないこの部屋は、二人でも少し狭いくらいだ。
 ただ、そう思うのは僕が貴族だからなのだろう。平民としては、このくらいの大きさの部屋は一般的なのかもしれない。

「少し待っていてくださいね。そのベッドの上に座っていてください。疲れているなら、転んでいてもいいので」
「あ、うん……」

 ケリーはそう言って、部屋を出て行った。恐らく、台所に行ったのだろう。
 とりあえず、僕はいわれた通り、ベッドに座った。すると、そこから軋む音が聞こえてくる。

「ふぅ……」

 そこで、僕はゆっくりとため息をつく。
 ここに来るまでの馬車の旅で、少し疲れてしまったようだ。
 少しはましになったとはいえ、僕はまだまだ体が弱い。馬車の旅というものは、中々体力を使うので、少し休んだ方がいいかもしれない。
 ケリーも、それをわかっているから、転んでいいと言ってくれたのだろう。ここは、その厚意に甘えた方がいいかもしれない。

「よいしょ……」

 僕は、ケリーのベッドに寝転がった。
 公爵家の高級なベッドとは違うので、寝心地はそこまでいいとはいえない。それは、わかっていたことだ。
 ただ、それでも寝転がると心が安らいでくる。

「うん……」

 僕は、ゆっくりと目を瞑った。眠るつもりはないが、ケリーが来るまではこうして休んでいようと思ったのだ。
 これから、僕は彼女と色々な話をしたい。そのために、少しでも体力を回復しておきたかったのだ。
 そうしていると、改めて思った。もっと、元気になりたいと。
 これからも頑張って元気になる努力をしよう。僕は、少しぼんやりとしながらも、そんなことを思うのだった。
「……うん?」
「あ、起きましたか?」

 僕は、ゆっくりと目を覚ました。
 最初に目に入ってきたのは、こちらを覗き込むケリーの姿である。彼女は、笑顔で僕のことを見ていた。その顔は、とても美しい。
 そんなことをぼんやりと考えて、僕はあることを理解した。僕はベッドに寝転がって、そのまま寝てしまったのだと。

「ごめん、ケリー。僕、寝ちゃったみたいだね……」
「別に大丈夫ですよ」
「でも、急に押しかけてきて、寝るなんて滅茶苦茶だし……」
「いえ、疲れていたんでしょうし、仕方ありませんよ。それに、エルーズ様の寝顔を見ているのも楽しかったですから」
「そうなの?」
「ええ、そうなんです」

 僕の謝罪に対して、ケリーはそんなことを言ってきた。
 確かに、彼女は先程笑顔で僕のことを見ていた。楽しかったという言葉に、嘘偽りはないだろう。
 ただ、それでも失礼なことをしてしまった。こちらから押しかけておいて、寝るなんてあってはならないことだ。
 それに、せっかく来たのに寝るなんて、時間がもったいない。時間は有限なのだから、無駄にしたくはなかった。

「……僕は、どれくらい寝ていたのかな?」
「十五分程でしょうか? そんなに寝てはいませんよ」
「そっか、よかった……」

 ケリーの言葉に、僕は少し安心する。
 一時間や二時間といった長い時間寝ていなくて、本当に良かった。十五分ならまだ時間はある。これから、ケリーとの時間を楽しめるのだ。

「……それにしても、エルーズ様は本当にお綺麗ですね」
「え?」
「寝顔を見ていたら、そう思ったんです。男の子にこんなことを言うべきではないのかもしれませんけど、とても美しくて思わず見惚れてしまいました」
「そうなんだ……ありがとう」

 ケリーは、僕を美しいと言ってきた。
 僕は、そういった旨のことをよく言われる。あまりよくわからないが、僕は他人からそう取られるようなのだ。
 こういう時になんと答えるべきなのだろうか。それは、難しい所である。とりあえず、お礼を言ったりするのだが、それであっているのだろうか。

「ケリーも、綺麗だよ」
「え? そうですか? それは、ありがとうございます……」

 僕は、お返しにケリーにも綺麗だと言っておいた。
 それは、素直な気持ちである。ケリーは、本当に綺麗だ。僕なんかよりも、余程美しい。
 そんな僕の言葉に、ケリーは顔を赤くしていた。どうやら、照れているようだ。
 彼女のそんな顔を見ていると、僕の中に別の感想が思い浮かんできた。可愛いとそう思ったのである。
「それで、ルネリアがね。僕の隣で寝ていて……」
「ルネリアらしいですね……」

 僕は、ケリーと話をしていた。
 彼女と話すのは、とても楽しい。こうやって、友達と話すのは初めての体験だ。こんなにも楽しいものだったなんて、まったく知らなかった。
 考えてみれば、僕はまだまだ知らないことばかりだ。これから、もっと色々なことが知りたい。彼女との話を経て、僕はまた強くそう思うようになった。

「失礼します」
「え?」
「エルーズ様、そろそろお時間です」

 ケリーと話をしていると、部屋の戸がゆっくりと叩かれて、そんな声が聞こえてきた。
 ゼペックさんには、帰る時間になったら教えて欲しいと頼んで、外に待機してもらっていた。どうやら、時間が来たようだ。

「もう時間が来たみたいだ。そろそろ帰らないといけない」
「そうですか……残念です」
「うん、僕ももう少し話していたいよ」

 正直な話、まだ帰りたくはなかった。
 だが、駄々をこねてはいけない。約束は約束だ。守らなければならない。

「ケリー、今日は本当に楽しかったよ。いつになるかはわからないけど、また来たいな」
「……今度は、私の方から公爵家を訪ねます。ルネリアにも会いたいですし……もちろん、ラーデイン公爵家が良かったら、ですけど」
「いつでも大歓迎だよ。お兄様もお母様も、邪険に扱ったりはしないだろうし、全然大丈夫だよ。あ、でも、そっちから連絡するのは大変だよね……今度、公爵家の方から連絡して、そっちの良い日を伝えてもらえるかな?」
「わかりました。それじゃあ、そうさせてもらいます」

 僕の言葉に、ケリーはゆっくりと頷いた。
 これで、ケリーも公爵家を訪ねられるだろう。今度彼女に会うのが、もう楽しみだ。それに、ルネリアの喜ぶ顔が見られるのも嬉しいものである。

「よし、それじゃあ、そろそろ帰るよ」
「はい……」

 僕は、ゆっくりと立ち上がり、部屋を出て行く。すると、ケリーもついてくる。送ってくれるつもりなのだろう。
 そのまま、僕達は玄関まで来て、家の外に出た。そこには、馬車が止まっている。ゼペックさんが手配してくれていたのだろう。

「ケリー、また会おうね」
「はい……エルーズ様、お元気で」
「うん、ケリーもね」

 僕は、ケリーと固く握手を交わした。彼女の温もりを、しっかりと確かめてから、ゆっくりと手を離す。
 こうして、僕は彼女と別れるのだった。ケリーは、馬車に乗ってからも、僕が見えなくなるまで、見ていてくれた。
 私は、サガードと恋人関係になった。
 それで正しいのかどうかはよくわからないが、正式な婚約をしていない以上、そう表現するしかないだろう。

「まあ、父上や兄上も、話は進めてくれているらしいんだが……」
「うん、お母様やお兄様もそんな感じで話してくれたよ」
「色々と大変なんだろうな……残念ながら、俺達にできることは、あまりない訳なんだが……」
「そうだね……」

 王族とラーデイン公爵家は、現在協議を重ねている。私とサガードが婚約できるかどうかは、そこで決まるのだ。
 私とサガードの婚約は、非常に難しい問題である。それは、イルフェアお姉様とサガードのお兄様であるキルクス様が婚約しているからだ。
 貴族と王族の婚約というものには、役割がある。政治的な面の影響力があるのだ。
 王族とラーデイン公爵家の婚約が二つ。それは、権力の偏りである。そのため、簡単ではないのである。

「上手くいってくれるといいよね?」
「ああ……というか、上手くいってくれないと困るというか……」
「そうだよね……まあ、逃げ道がないという訳でもないけど」
「逃げ道?」

 私の言葉に、サガードは目を丸めていた。
 今回の逃げ道、それを彼はわかっていないらしい。
 その逃げ道というのは、とても難しいものである。簡単なものではない。
 だが、逃げ道は確かにある。それを私は、知っているのだ。

「いざという時は、二人で逃げてもいいんだよ?」
「に、逃げる?」
「うん、駆け落ちというか、そういうこともできなくはないでしょう?」
「いや、それは……」

 サガードは、言葉を詰まらせていた。
 その反応は理解できる。駆け落ちなんて、とんでもないことだということは、私もわかっているからだ。
 ただ、それは確かな逃げ道である。いざとなったら、二人で田舎にでも行けばいいのではないだろうか。

「地位とかお金とか、そういうものがなくても、大好きな人と一緒なら、なんとかなるものだと、私は思っているんだ」
「大好き……?」
「お母さんと一緒に暮らしていたから、そう思うのかもしれないね。まあ、村での暮らしは、周りの人にも助けてもらっていた訳だけど……」
「……いや、お前の言う通りだよ。そうだよな、二人でいれば、なんとかなるものだよな」

 サガードは、私に対して笑顔を見せてくれた。
 その笑顔が、私にとってはとても嬉しいものだった。彼が、王子という地位を捨ててでも私と一緒にいたいと思ってくれていると、わかったからである。
 きっと、これなら大丈夫だ。私は、そう思うのだった。
 私とサガードの婚約関係は、思っていたよりも早く決まった。無事に婚約できることになったのだ。
 それは、お母様やお兄様、それにサガードのお父様やお兄様が尽力してくれたおかげである。色々な人の努力のおかげで、私達は結ばれることができるのだ。

「まあ、これで一件落着という訳だよな……」
「うん、そうだね」
「なんだか、あまり実感は湧かないが……」
「それは……私達自身は、何もしていないからかな?」

 私とサガードは、いつも通り客室でまったりと話をしていた。
 婚約が無事に決まったことは、嬉しいことである。
 ただ、サガードの言う通り、そこまで実感はない。
 そもそも、私達は事態がどれ程大きなものなのかも把握していないといえるだろう。ぼんやりとしかわかっていなかったといった所だろうか。

「でも、これで私とサガードは無事に夫婦になれる訳だし、安心だよね?」
「夫婦……そうか。そうなるんだよな」

 私の言葉に対して、サガードは微妙な反応をしてきた。
 なんというか、あまりよくわかっていないという感じだ。どうして、こんな反応なのだろうか。

「……わかっていなかったの?」
「いや……なんというか、随分と先のことだから、あまりピンと来ないというか……」
「先のこと……そっか、そうだよね」

 サガードに言われて、私は少しだけ理解した。
 確かに、夫婦になるというのは私達にとっては随分と先のことである。実感できなくても、仕方ないのかもしれない。
 ただ、夫婦になるのは確実である。それは、王家とラーデイン公爵家でも約束されていることだ。

「私達は、どんな大人になるのかな?」
「そうだな……それは、まったくわからないことだな」
「サガードは、キルクス様みたいになるのかな?」
「いや、俺と兄上は、結構違うんじゃないか?」

 私は、ふと気になった。私達は、どんな大人になるのだろうか。
 私達の周りには、素敵な大人がいっぱいである。そんな人達のようになれるのだろうか。

「でも、きっとサガードは優しいままだと思うな……」
「……ルネリアだって、きっと根本的なことは変わっていないんじゃないか?」
「そうかな?」
「ああ、そう思う」

 サガードは、私に向かって笑顔を向けてくれた。
 その笑顔が眩しくて、思わず見惚れてしまう。彼と夫婦になれる。その幸せな未来を、私は改めて実感していた。

 ラーデイン公爵家に来てから、本当に色々なことがあった。
 だけど、その日々を今は幸福だったと言い切れる。
 それは、私が周りの人に恵まれていたからだろう。家族にも、友人にも、愛する人にも、私は恵まれていたのだ。
 私の人生は、きっと幸せなものだろう。こんなにも素敵な人達に囲まれているのだから、それは確実だ。