公爵家の隠し子だと判明した私は、いびられる所か溺愛されています。

「えっと……まあ、それなら膝枕してもらっても、いいのかもしれないな。まあ、俺も……いや、なんでもない」
「うん?」

 色々と悩んだ後、サガードはそんな結論を出した。
 よくわからないが、彼は少し嬉しそうにしている。私に膝枕してもらうのが、嬉しいということなのだろうか。
 サガードに喜んでもらえるなら、こちらとしても嬉しい所だ。彼が安心してもらえるように、こちらも心掛けることにしよう。

「あ、サガード、ソファだけど大丈夫?」
「え?」

 そこで、私はあることに気がついた。よく考えてみれば、このソファで寝るというのは辛いことかもしれない。ベッドの方がいいのではないだろうか。

「まあ、別に問題はないさ」
「ベッドの方が良かったりしない?」
「いや、別にどっちでもいいけど……そもそも、そんなにがっつり寝たい訳ではないからな」
「そうなの?」
「いや、遊びに来たのにずっと寝て過ごすのは嫌だし……」
「そっか、それもそうだよね」

 サガードの言葉に、私は納得した。
 確かに、今日彼は私の元に遊びに来たのである。決して、休みに来た訳ではないのだ。
 そのため、眠りに関してはむしろ浅いくらいがいいのかもしれない。熟睡してしまったら、それはそれで困るということだろう。

「はい、それじゃあ、どうぞ」
「ああ、失礼する……重かったら、言ってくれよ」
「大丈夫だよ。そんなに重くないって、お姉様達もよく言っているし……」
「いや、それはルネリアが軽いからじゃないか?」
「そうなのかな?」

 サガードは、ゆっくりと私の膝に頭を落とした。
 彼の重さが膝に伝わってくる。ただ、そこまで重くはない。

「うん、やっぱり重くはないよ」
「そ、そうか……」
「サガード、どうかしたの?」
「いや……」

 サガードは、なんだか固まっていた。
 もしかして、私の膝は寝心地が悪いのだろうか。お姉様達の膝は、あんなにも寝心地がいいというのに。

「サガード……私の膝、寝心地が悪いの?」
「い、いや、そんなことはない……ただ、なんだか緊張するというか……」
「緊張する? どうして?」
「どうしてだろうな……?」

 サガードは、どうして固まっているのか自分でもわかっていないようだ。
 それなら、その緊張をほぐす方法はわからない。

「子守歌でも歌ってあげようか?」
「いや、流石にそれはいい……」
「そう?」
「ああ、なんだろうな……よくわからないんだけど、緊張するのと同じくらい安心もしているんだ。なんだか、眠たくなってきた」
「そっか……それなら、良かったよ」

 サガードは、いつの間にか目を瞑っていた。声も眠そうだし、本当に安心してくれているようだ。
 こうして、私はサガードに膝枕をしたのだった。
 私は、サガードに膝枕をしていた。
 彼は、私の膝の上で眠っている。そんな彼の寝顔を見ていると、なんだか心が落ち着いてきた。私も、少し眠くなってきたのだ。

「……でも、寝たら駄目だよね」

 しかし、ここで私が寝てしまったら大変である。寝返りで、この体勢が崩れたりしてしまったら、サガードが転げ落ちてしまう。
 ということで、私は気を引き締める。ただ、何もしていないとやはり眠気が襲ってくるので、何か気を紛らわすことをしなければならない。
 だが、ここから私は動くことができない。動ける範囲で、暇つぶしを見つけなければならないのだ。

「手元にはサガードしかない……」

 動ける範囲で見つかったのは、サガードだけだった。
 ただ、彼の顔を見ていると眠たくなるだけなので、これでは暇つぶしにならない。

「あ、そういえば……」

 そこで、私はあることを思い出した。
 そういえば、イルフェアお姉様やオルティナお姉様は、私の頭を撫でてくれていたのである。
 寝ぼけながら目覚める時、私はいつもそれを心地よく思っていた。こんな大事なことをどうして失念していたのだろうか。

「よし……」

 という訳で、私はサガードの頭を撫で始めた。
 すると、彼の表情が少し変わる。なんとなく、笑ってくれているような気がするのだ。

「意外と柔らかいんだね……」

 サガードの髪の触り心地は良かった。
 もっと固い印象だったのだが、意外とふわふわな毛並みだ。

「……うん?」
「あれ? ごめん、起こしちゃった?」

 そんなことを考えていると、サガードがゆっくりと目を覚ました。もしかして、頭の刺激で目覚めてしまったのだろうか。

「……何をしているんだ?」
「頭を撫でていたんだよ?」
「……何故?」
「何故……」

 目覚めてすぐに、サガードは私に質問してきた。
 その質問に、私は困った。何故撫でたのかといわれたら、それは暇つぶしだったからだ。
 ただ、それを素直に答えるというのはどうなのだろうか。流石に、まずいのではないだろうか。

「まあ、別にいいか……それより、重たいよな。そろそろ退くよ」
「あ、うん……」

 私が考えていると、サガードがゆっくりとその体を起こした。
 彼は肩を回して、体の調子を確かめている。その様子に、私は当初の目的を思い出す。

「サガード、少しは休めた?」
「ああ、おかげさまで大分楽になったよ」
「そっか、それなら良かった」

 サガードの言葉を聞いて、私は嬉しくなった。
 彼の疲れが少しでもとれたなら良かった。色々とあったが、当初の目的は達成できたようである。
「そういえば、そもそも話だけど……サガードは、一体何に疲れていたの?」
「うん? ああ、そのことか……」

 サガードは、私の隣で目を擦っていた。
 寝起きであるため、まだ少しぼんやりとしているのだろう。その表情は、少し眠そうだ。

「父上や兄上と色々と話したんだ。これからのこととか、色々と……」
「これからのこと?」
「ああ、俺の婚約のことさ……色々とややこしくなるから、どうするかはしっかりと話しておかなければならない。キルクス兄上にそう言われたんだよ」
「婚約……?」

 サガードの言葉に、私は少し混乱していた。
 まず混乱したのは、婚約という言葉だ。そういうことが、サガードにもある。その事実はわかっていたはずなのだが、それでも怯んでしまったのだ。
 さらに、彼の言っていることがよくわからないのも、混乱の原因である。色々とややこしくなるとは、どういうことなのだろうか。

「……あ、いや、その、別になんでもないんだ」
「なんでもない?」

 そこで、サガードは目を見開いて首を横に振った。
 先程までとは違い、その表情からは眠気が感じ取れない。どうやら、ここに来て完全に目を覚ましたようである。

「今言ったことは、忘れてくれ。これは、まだ秘密のことなんだ……」
「秘密……サガード、誰かと婚約するの?」
「いや、まだ決まった訳じゃない。あ、違う。なんでもない」

 サガードは、私の質問に反射的に答えてしまったようだ。まずいと思っているのが、その表情から伝わってくる。
 しかし、彼の婚約というのは、私にとっても気になることだ。それが、友人としてなのかどうかは、自分でもわからないが。

「寝ぼけているんだな……余計なことばかり、言ってしまう」
「ねえ、サガード、ここまで言ったんだから、もういいんじゃない?」
「え?」
「そんな風に言われると、こっちも気になるよ。話してくれないかな?」
「いや、それは……」

 私は、サガードから話を聞き出そうとしていた。
 それは、彼にとって困ることだということはわかっている。だが、それでも知りたいのだ。
 私は、その好奇心を抑えられない。いつもなら、引き下がる所だが、今回はそういう訳にはいかないのである。

「誰と婚約する予定なの?」
「さ、流石にそれは言えない。言ったら、大変なことになる」
「大丈夫、誰にも言わないから。サガードは、私のことが信用できないの?」
「そういう問題じゃないんだ。ルネリアに言うのが、そもそも駄目なんだよ」
「私に言うのが駄目? どうして?」
「どうして? それは、その……王族としての都合というか、なんというか……」

 サガードは、頑なに打ち明けてくれなかった。
 その様子に、私は少し違和感を覚える。
 何かがおかしいような気がするのだ。この感覚は一体、なんなのだろうか。
「ねえ、サガード。一つ聞いてもいいかな?」
「な、なんだ?」
「サガードが婚約する相手って、私だったりするの?」
「……何?」

 私の質問に、サガードは固まっていた。
 その反応は、どういうものなのだろうか。図星だったからか、それとも素っ頓狂な質問だったからだろうか。
 ただ、私は思ったのである。私に言うのが、そもそも駄目。彼の婚約者が私であるなら、それも成り立つのではないかと。
 いや、逆にそれ以外なら、どうして私に話すのが駄目なのだろうか。その理由がわからず、私はそんな結論しか出せなかったのである。

「違うのかな? それなら、私に言えない理由も納得できなくはないんだけど……」
「い、いや、そんなことはない……」
「そうなの? だったら、どうして私に話せないのか。その理由だけでも教えてくれない?」
「えっと、それは……」

 私の質問に、サガードはあたふたしていた。
 私の主観でしかないかもしれないが、それは理由を探しているように見える。

「サガード、どの道、それはまだ決まったことではないんだよね? それなのに、そんなに隠さないといけないの?」
「い、いや、別にそういう訳ではないんだが……」
「それなら、どういう訳なの?」
「……」

 サガードは、私の言葉にゆっくりと目を瞑った。
 それは、眠たいからではないだろう。表情からもわかるが、何かを考えるためにそうしているのだ。
 その後、サガードはゆっくりと目を開いた。その表情は、先程までとはまったく違う。真剣な表情である。

「ルネリア、お前の予測はあっている。俺の婚約者になるかもしれない人物、それはお前なんだ」
「やっぱり、そうなんだ……」

 サガードの言葉に、私の心は跳ねた。
 先程まで抱いていたもやもやが、晴れていくのを感じる。私は、彼の言葉に安心しているのだ。そして、同時にそれを嬉しく思っているのである。
 そのことに、自分でも驚いていた。この感情は、一体なんなのだろうか。それを私は考える。

「それをどうしてお前に話せなかったのか。その理由は単純だ。その婚約を言い出したのが……俺だからなんだ」
「え?」
「俺が頼んだんだ……いや、正確には違うな。俺の気持ちを察した兄上が父上に掛け合って、その結果俺が打ち明けることになったということなんだが」
「それって……」

 サガードは、ゆっくりと事情を話し始めた。
 それに対して、私は混乱する。彼の言っていることを総合すると、それはつまりそういうことなのではないかと思ったからだ。
「……」
「……」

 私とサガードの間には、沈黙が流れていた。
 先程の言葉から、彼は何も話さない。ただ、何かを話そうとする素振りはある。きっと、彼は今言葉を探しているのだろう。
 私は、それを待つことにする。言いたいことは色々とあったが、それを飲み込み、黙っていることにしたのだ。

「ルネリア、俺はお前のことが好きだ」
「サガード……」
「色々と考えたけどさ、結局これしか言葉は見つからなかった。それが、俺の素直な気持ちなんだ」

 サガードは、私の目を真っ直ぐに見つめてそう言ってきた。
 その言葉に、私はゆっくりと息を呑む。すぐに言葉は出て来なかった。だが、言葉を返さなければならない。彼のその勇気ある言葉に、私は応えなければならないのである。

「嬉しい……嬉しいよ、サガード」
「う、嬉しい?」
「うん、サガードがそう言ってくれて、私嬉しいんだ。嬉しいんだよ」

 私の口から出てきたのは、そんな言葉だった。
 それは、今の私の素直な気持ちである。とにかく嬉しかったのだ。彼にそう言ってもらえることが。

「私もね、サガードのことが好きだよ」
「え?」
「多分、そうなんだと思う。だって、こんなに嬉しいんだもん」

 私は、ゆっくりとそのような言葉を発していた。
 色々と考えた結果、私はそう思ったのである。
 サガードに好きだと言われて、私は温かい気持ちでいっぱいになった。とても嬉しくて仕方なかった。
 それは、彼のことが好きだからなのだ。漠然とした考えなのだが、私はそれを確信していた。迷うことはなく、これが答えであるとはっきりと思ったのである。

「ほ、本当か?」
「本当だよ。こんな時に、嘘なんてつかないよ」
「そうか……そうだよな」

 私の言葉に、サガードは笑顔を見せてくれた。
 彼も、嬉しそうである。それはまず間違いなく、告白が成功したからだろう。
 ただ、そこで私はあることに気づいた。貴族や王族の場合、これからどうなるのだろう。

「ねえ、サガード、質問なんだけど……貴族とか王族とかって、この後どうするの?」
「どうする?」
「いや、普通に考えたら、付き合ったりするんだと思うんだけど……」
「ああ、そういうことか……まあ、俺達の場合は、両家の承認待ちということになるかな? 事情は色々と複雑だけど、とりあえず家同士の話し合いがつかないとどうすることもできない訳だし……」
「そうなんだ」

 サガードの説明で、大体のことはわかった。
 要するに、私達がそういった関係になれるかどうかは、王家とラーデイン公爵家の判断次第ということなのだろう。
 それは、なんというか少しもどかしい。私達にできるのは、願うことだけということなのだろうか。
「エルーズ、お前に少し頼みたいことがあるのだ」
「頼みたいこと……? 僕に?」
「ああ、これはお前にしか頼めないことだと思っている。色々と考えた結果、そう思ったのだ」

 僕は、アルーグお兄様に呼び出されていた。
 こんな風に呼び出されて、正直驚いている。体の弱い僕に、お兄様が何かを言ってくることは少ない。言ってくるにしても、彼が部屋に訪ねて来るため、今日は本当に珍しいのだ。
 ただ、最近、僕はリハビリを頑張って、少し体質も変化している。そういう面も考慮して、お兄様はこのような形を取ったのかもしれない。

「アルーグお兄様、それでどんな内容なの?」
「お前に、俺と一緒に別荘に来てもらいたいのだ」
「別荘……?」

 アルーグお兄様の言葉に、僕はとあることを思い出していた。
 ラーデイン公爵家は、現在お兄様が取り仕切っている。当主であるお父様が、色々な失敗の責任で退いたからだ。
 そんなお父様は、今公爵家の別荘にいると聞いている。お兄様が言っているのは、恐らくその別荘のことだろう。

「お父様の所に行くということ?」
「ああ、そういうことだ」
「どうして?」
「父上の様子を見に行くのだ」

 アルーグお兄様は、淡々とそう言ってきた。その言葉は、とても事務的なように思える。
 前々から思っていたことではあるが、お兄様はお父様に少し冷たい。やはり、お父様の過ちが、そうさせているのだろうか。
 もちろん、お父様が許されないことをしたということは僕もわかっている。ただ、お兄様ももう少し手心を加えてあげてもいいのではないか。そう思わないこともない。
 僕達にとっては、たった一人のお父様である。少しくらい優しくしてもいい。お兄様のこういう態度を見ていると、僕はそんなことを思ってしまうのだ。

「もしかして……」
「どうかしたのか?」
「ううん、なんでもないよ」

 そこまで考えて、僕はとあることに気づいた。
 もしかしたら、お兄様はそういう僕の考えを見抜いているから、同行者に選んだのかもしれない。
 お兄様は、きっとお父様に厳しく接するだろう。そのため、バランスを取るためにお父様に優しくできる僕を求めているのかもしれない。

「エルーズ、体の方は大丈夫か?」
「うん、大丈夫。別荘って、そんなに遠くにある訳ではないんだよね?」
「ああ、公爵家の領地内にある。それ程、遠くはない」
「それなら、大丈夫だと思う」

 アルーグお兄様は、僕の体のことを心配してくれた。
 あまり長い旅なら、体調を崩してしまう可能性が高い。だが、それ程遠くないなら、問題はないだろう。
 お母様は、僕を止めるかもしれない。だけど、僕は行きたいと思う。
 お兄様の役に立ちたい。公爵家に貢献したい。そういった気持ちが、僕の中にもあるのだ。
 僕は、アルーグお兄様とともに公爵家の別荘にやって来ていた。
 別荘は、自然に囲まれた場所にあった。空気も美味しいし、なんだか気分がいい。
 もしかしたら、お兄様はそういう面も考慮してくれたのだろうか。僕の療養も、兼ねているという可能性は充分あるだろう。

「アルーグお兄様、空気が気持ちいいね」
「ああ、そうだな……」

 僕が話しかけると、お兄様はゆっくりと頷いてくれた。
 しかし、その顔は明るくない。それは、これから会う人物のことを考えているからだろうか。

「……来ていたのか、アルーグ。それに、エルーズも」
「あっ……」

 そんなことを思っていると、別荘の戸がゆっくりと開いた。
 中から出てきたのは、僕達のお父様である。ただ、僕の記憶の中にあるお父様とは、少し様子が違う。
 なんというか、少し痩せているのだ。こんな空気の澄んだ所で暮らしているのに、その顔色もいいとは言い難い。

「お久し振りですね、父上」
「ああ、久し振り……元気にしていたかい?」
「ええ」
「結婚式の日程が先日届いたよ。ただ、僕は参加しない方がいいんだよね?」
「はい」

 お父様の質問に対して、お兄様は淡々と答えた。
 その声色は、やはり冷たい。アルーグお兄様は、まだお父様をまったく許せていないようだ。
 こういう時こそ、僕の出番であるだろう。お兄様が冷たく接するなら、僕は温かく接するべきだ。

「お父様は、元気だった?」
「……ああ、元気だったよ。エルーズはどうだい? 最近、頑張っていると聞いているけど」
「うん、リハビリを頑張っているんだ。元気になりたいから」
「そうかい。それは、良かった」

 僕の言葉に、お父様は笑顔を見せてくれた。
 その笑みは、優しい笑みだ。以前と変わらないその笑みに、僕は少し安心する。
 ただ、まだ心配だ。お父様の様子は、明らかにおかしい。元気だと言っているが、それは多分嘘だろう。
 お兄様がどうして様子を見に来たか。それは、彼のそんな様子が関係しているのかもしれない。こんな姿になっていると報告を受ければ、いくらアルーグお兄様がお父様に冷たいといっても、実際に確認したくもなるだろう。

「お父様、ここは空気が綺麗だね……なんだか、心が落ち着くよ」
「……自然に囲まれているから、そう思うのかもしれないね」
「お兄様に誘ってもらって良かったよ。この空気が吸えるだけで、なんだか元気になりそうだもん」
「そうかい……それは、幸いだね」

 お兄様の意図やお父様の様子、色々と気になることはあった。
 とりあえず、僕は普通に振る舞うことにした。そうすることが、僕の役割だと思ったからである。
 僕は、公爵家の別荘で過ごしていた。
 別荘は、とても心地いい場所にある。空気も綺麗なので、僕は庭に出て風にあたっている。

「ふぅ……」

 ゆっくりと伸びをしながら、僕はこれからのことを考えていた。
 お父様とお兄様は、何か話をしている。それは、僕にはあまり聞かせたくないことであるらしい。
 その内容は、正直さっぱりわからないが、今の状況があまりよくないということはわかっている。
 お父様は、明らかに憔悴していた。あれは、一体どういうことなのだろうか。それが、僕は気になっているのだ。

「もちろん、色々なことがあった訳だし、精神的に参っていると理解できない訳ではないけど……」

 お父様は、かつての過ちによって、この別荘で暮らすことになった。
 それは、仕方ないことである。事実として、お父様はお母様を裏切ってしまったのだから。
 ただ、本人として、それが辛いことであるのは当たり前だ。そのため、疲労していてもおかしいことではない。
 だが、今のお父様は流石に顔色が悪すぎるだろう。いくら落ち込んでいるからといって、あそこまでなるものなのだろうか。

「僕のように、体が弱いという訳でもなかったよね……」

 お父様は、別に健康だったはずだ。
 それなのに、あそこまでなっているというのは、どうにも違和感がある。
 その理由がわかれば、何かできることがあるかもしれない。そう思って、僕は思考を働かせる。

「……そういえば、昔の僕はあんな感じだったのかな?」

 そこで僕は、ふと気になった。
 もしかしたら、昔の僕はあんな感じだったのではないかと。
 あの頃の僕は、生きる希望というものを持てていなかったような気がする。
 どうせこんな体からと諦めて、前を見ていなかった。絶望して、何事にもやる気を出せていなかった気がする。

「そんな僕は、ルネリアのおかげで前を向けるようになった……彼女の涙を見て、僕は決意したんだ。元気になって、生き抜いてみせると」

 ルネリアの涙は、今でも記憶に刻みついている。
 妹を泣かせるなんて、兄としては情けないことだ。あんな涙は、二度と見たくない。
 だから、僕は元気になりたいのである。健康になって、ルネリアや皆を安心させたい。それが、今の目標であり、生きる希望なのである。

「もしかして、お父様は生きる希望がなくなっているのかな……」

 そこまで考えて、僕はとある可能性に思い至った。
 いや、それは誤りかもしれない。僕はそれを頭の片隅に置きつつ、考えないようにしていたのだ。
 だけど、考えていく内に、その可能性が高いことを悟ってしまった。一度そう思ってしまったら、もう止まることはできない。
 こうして、僕は自らが何をするべきなのかを理解するのだった。
 僕は、お父様の部屋を訪ねていた。彼と話したいことがあったからである。
 お父様の部屋は、少し暗かった。それは、実際の明るさの話ではない。なんだか、雰囲気が暗いのだ。

「エルーズ、僕に何か用かな?」
「お父様に聞きたいことがあるんです」
「聞きたいこと? 何かな?」
「……お父様は、生きる希望を失ったの?」
「……」

 僕は、お父様に質問した。
 もしも僕の予想が正しければ、お父様はとんでもないことを考えているはずだ。
 そうでないことを願っている。本当にそうだったなら、それは悲しすぎるから。

「……お父様は知っているとは思うけど、僕は昔から体が弱かったんだ」
「……ああ、もちろん、知っているよ」

 僕の質問にお父様は何も答えなかった。
 そのため、僕は話をすることした。それは、僕の話だ。
 僕は、お父様にこの人生を知ってもらいたかった。僕がどんな考えで生きてきたのか。それを語ることが、今のお父様にとっていいことになると思うからだ。

「僕は、いつも体調を崩していた。よく風邪を引いていて、そうでなくても体がだるくて……いつもいつも辛かった」
「……」
「生きる希望なんてない。僕は、いつしかそう思うようになっていた。このままベッドの上で過ごすんだって、そう思っていたんだ」

 お父様は、僕の言葉を悲痛な面持ちで聞いていた。
 その気持ちは、なんとなくわからない訳ではない。子供がこんなことを言うのは、きっと親にとって辛いことなのだろう。
 だけど、僕はそれを語らなければならない。お父様の心を溶かすためには、それが必要なのだ。

「それでも、僕は生きたいと思うようになったんだ。前を進みたくなったんだ。ルネリアのおかげで……彼女の言葉で、僕は変わったんだ」
「ルネリアが……」
「今でも、僕は体が弱い。でも、もう後ろを向いたりはしないよ。リハビリを頑張って、健康になってルネリアの笑顔を見たい。皆の笑顔が見たい。それが今の僕の生きる希望なんだ」
「エルーズ……」

 僕は、お父様に笑顔を見せた。
 その笑顔は、彼に力を与えられているだろうか。
 そんなことを少し気にしながら、僕は次の言葉を考える。今のお父様に最適な言葉が何かをゆっくりと熟考する。

「お父様、僕は元気になりたいと思っているんだ。生きたいと思っているんだ。だから……健康に生まれてきたあなたが、僕をずっと見てきたあなたが、そんな安易な方法に頼るなんて、間違ってもしないで欲しい」
「……」

 僕は、お父様の目をはっきりと見ていた。
 彼は、とても悲しい目をしている。それは、何を悲しんでいるのだろうか。
 そう思った直後、お父様の表情が変わった。真剣なその顔には、しっかりとした意思が宿っている。
 凛々しいその表情を見ていると、もう大丈夫なように思える。なぜなら、それ程の力が、その表情には宿っているからだ。

「エルーズ……すまない。そして、ありがとう」

 お父様は、僕に短くそう言ってきた。
 それに対して、僕は笑みを浮かべる。その確実な言葉に、僕はやっと心から安心できたのだ。