普通の従業員だったならば、彼だったことにほっと肩をなでおろすだろう。
 けれど、私はそうじゃない。

 私、立花(たちばな)依恋(えれん)は立花財閥の人間。
 桜堂財閥との諍いの歴史から、互いに両財閥を敵視していると聞いた。
 だから、私がここにいることが桜堂家の人にバレてしまっては――。

 頭から血の気が引いてゆく。
 私は、失礼を承知でまた顔を伏せた。

「君、名前は?」

「『氷室(ひむろ)』と申します」

「……名は?」

「依恋、です……」

 びくびくしながら答えた。
 『氷室』は母の旧姓だ。
 ここで働くにあたり、私はずっとこの姓を名乗っている。

 彼は私のネームプレートを一瞥(いちべつ)する。
 『Himuro』の文字が書かれている。

「……君、後ほど支配人室へ来るように」

 総支配人はそう言って、私の前から去っていく。

 私は不安と焦りで粟立った背中を開放し、ぶるりと震えた。

 会いに行かなくてはならない。
 桜堂財閥の、御曹司に。

 それだけでバクバクと心臓が嫌な音を立てる。

 ――とにかく今は仕事に集中しないと。

 私は慌ててモップを握り直し、どうにか階段清掃を終わらせた。