◯週末のスーパーマーケット「ぜんきち」の店内。
四番レジカウンターの中。
カウンターの上には『他のレジへお願い致します』のカードが置いてある。
残念な表情を隠さないまま、撫子はぼんやりと自分の手の爪を眺めている。
撫子(てっきり、柊くんのそばにいられると思っていたのに)
(レジの使い方だって、柊くんに教わりたかったわ)
目の前でレジの使い方の説明をしてくれている、小柄でお団子ヘアの女性店員・三角 響子を見る。
三角「……ここまでわかりましたか?レジの使い方は難しくないし、すぐに実践してもらいますね」
撫子「……」
返事もせず残念そうに爪を眺める撫子に、三角はため息を吐く。
三角「じゃあ、このレジカウンターで接客してくださいね。私は後ろで見守っていますから」
三角は四番レジカウンターに置いていたカードを手に取り、片付ける。
撫子「え?」
三角は撫子の後ろに立ち、「いらっしゃいませー!」と、お客様に呼びかける。
全然説明を聞いていなかった撫子は戸惑う。
しかし六十代くらいの女性客が未精算のレジカゴ(緑色)に沢山の商品を入れて、四番レジにやって来た。
撫子はとりあえず、未精算のレジカゴから取り出した商品のバーコードを探し、レジに通す。
そしておどおどした様子で、精算済みのレジカゴ(赤色)にその商品を移す。
その一連の動作がゆっくりで、女性客が何か言いたそうにしている。
時間を費やして、未精算のレジカゴに最後に残っていた牛乳をレジに通し、精算済みのレジカゴに移すと、女性客の眉間にシワが寄った。
撫子(このあとはどうするのかしら!?)
思わず三角を振り返ると、困っているのか怒っているのかわからない表情で、撫子の隣に来た。
三角「失礼致しましたっ!」
三角は精算済みのレジカゴの中で、バナナの上に乗っている牛乳を移動させる。
三角「バナナは他のものと取り替えますので」
深々とお辞儀する三角。
レジ係ではない他の従業員に説明して、バナナを替えてもらっている。
撫子はわけもわからず、とりあえず女性客に頭を下げた。
◯店のバックヤード
三角に連れられて、バックヤードの隅に移動する撫子。
撫子「あの……?」
三角「宝来さん、あなた、何も説明を聞いてないですよね?」
撫子「……えっと、その……」
三角「さっき説明したでしょう?柔らかいものの上に重いものは置かない!冷たいものと温かいものは、カゴの中で分けて置く!」
撫子〈きょとんとした顔で〉「……そうだった、かしら?」
三角は「はぁっ」とこれみよがしにため息を吐く。
撫子「えっと、あなた……」
三角のエプロンに付けた名札を見ようとして、睨まれる撫子。
三角「さっき、自己紹介もしました。私は三角 響子です。大学二回生で、二十歳です!」
〈怖い顔をしている〉
撫子「そんなに怒らないでください、三角さん」
三角「怒りたくもなりますっ」
◯月曜日の放課後、私立R女子学園高等部。
昇降口で靴を履き替えている撫子と麗華。
麗華「まさか、あのままアルバイト先を見つけているなんて……」
撫子「本当にごめんなさい。カフェに置き去りにして……。反省しているのよ」
麗華「いいよ、なぁこちゃん。それより今日もアルバイトでしょ?公園の彼と仲良く、お仕事頑張ってね」
撫子は元気のない表情で、「じゃあ、遅れるといけないから」と、麗華と別れる。
◯スーパーマーケット「ぜんきち」のバックヤードの隅。
不安そうな顔で店内へ続くドアを見つめている撫子。
撫子(また失敗ばかりして、怒られるのかしら)
足音が近づいて来て振り返ると、柊だった。
撫子「あっ、あの、こんにちは」
柊「お疲れ様です」
撫子「わ、私、宝来 撫子です。私立R女子学園高等部の三年生です」
柊「あ……、オレは柊 紡です。県立M高校の三年生です」
撫子(紡っていう名前なのね?それに、私と同学年なのね!柊くんのことを少し知れたわ!)
撫子「……」〈何かを言いかけてやめる〉
柊「……?どうかしましたか?」
撫子「……いえ、あの、私……、失敗ばかりで恥ずかしいわ」
(本当は柊くんにもっといいところを見せたいのに)
柊は「あぁ」と思い当たったことがある顔をしてから、「でも、失敗なんて当たり前ですよ」と、何でもないように言う。
撫子「え?」
柊「だって、宝来さんはアルバイトを始めたばかりですし。これから仕事を覚えていけばいいんです」
撫子「……!」
(不思議。気持ちが軽くなったわ)
柊「あの、おせっかいなこと言いますけど」
撫子「はい?」
柊「メモを取るといいかも、です。失敗したことも、仕事仲間の見習いたいところも、メモにしておけば忘れません」
撫子「メモ……」
柊は頷く。
柊「同じ失敗を繰り返しませんし、見習いたいことも実践しやすくなります。そうすると自然と仕事を覚えていける気がするんです。オレはそうしています」
撫子「!!」
柊「あ、絶対メモしろってことじゃなくて……」
撫子〈目を輝かせて〉「いいえ!とても勉強になりました!!私、実践します、メモ!!」
柊は少し驚いた表情になってから、ニッコリ笑う。
そんな柊にドキッとする撫子。
柊「じゃあ、店内に行きましょうか」
歩き出した柊に、うっとりとする撫子。
撫子(あぁ、やっぱりいいな。柊くん)
◯レジカウンターの中。
三角と三番レジカウンターに入っている撫子。
撫子「あの、三角さん……」
三角「何か?」
撫子〈勢いよく頭を下げる〉「……ごめんなさい!!私、三角さんにひどい態度でした!」
三角「え?」
撫子「きちんと覚えます、レジ打ちの仕事!だから、これからもよろしくお願いします」
三角「……」
何も言わない三角に、頭を上げて三角を見る撫子。
三角「ひとつ、いいですか」
撫子「あ、はいっ」
三角「商品をバーコードに通す時、両手で商品を持って移動させると時間がとてもかかるんです。それは丁寧だけど、崩れやすいものや、壊れやすいものの時だけでいいんです」
撫子「……は、はいっ」
三角「未精算のレジカゴから片手で商品を取り、バーコードを通したら、もう片方の手に商品を持ち替えて精算済みのレジカゴに移す。慣れてきたら、精算済みに移す時にはもう、空いた手は未精算のカゴから次の商品を取る」
撫子「……なるほど、あっ、今の、メモにします!」
ポケットを探るけれど、書くものが見つからずアタフタする撫子。
三角が撫子にメモ帳とボールペンを差し出す。
三角「あげます、私はもう一つセットで持っているから」
撫子〈ニッコリ笑って〉「ありがとうございますっ!」
そんな撫子に、三角もニッコリ笑う。
◯その夜、早乙女家のリビング。
部屋着を着ている拓磨が大きなL字型のソファーに座り、赤いワインを飲んでいる。
ヴヴヴ。
スマートフォンに誰かから着信があり、拓磨は電話に出る。
拓磨「……は?アルバイト?宝来 撫子が?」
険しい顔になる。
拓磨「何をやってるんだ、仮にも早乙女家の婚約者が、アルバイト!?恥をかかせるつもりか、あのはねっかえり!」
スマートフォンを乱暴な手つきでソファーに叩きつける拓磨。
リビングの窓から見える夜空には、暗い雲に満月が隠れてしまい、不穏な雰囲気。
◯ニ週間が経った、スーパーマーケット「ぜんきち」の店内。
四番レジカウンターの中に立ち、せっせとレジ打ちに励む撫子。
おばあさん「こんにちは」
四番レジカウンターに未精算のレジカゴを置く、常連客のおばあさん。
撫子「いらっしゃいませ、こんにちは!」
レジを打ちつつ、おばあさんに挨拶を返す撫子。
おばあさん「少しは慣れてきた?あなた、最近頑張っているじゃない」
撫子「ありがとうございます。少し慣れてきた気もするんですけれど、レジを打つのがやっぱり遅くて……」
おばあさん「焦らず頑張りなさいな。遅くても、あなたの丁寧さはわかりますよ。まぁ、最初はお刺身の上に熱々のお惣菜を置かれて驚いたけれど」
撫子「……すみませんでした」
ふたりで顔を見合わせて笑う。
おばあさん「教育係の人も、もういないのね。ひとり立ちね」
撫子「頑張ります」
レジ打ちが済み、おばあさんにお辞儀をする撫子。
頭を上げると、柊が荷物台を布巾で丁寧に拭いているのが見えた。
三角にもらったメモ帳を取り出し、『手が空いた時は荷物台を拭いて清潔にする』と書き込む。
撫子(本当にすごいなぁ、柊くん)
(レジ打ちも速いし、でも丁寧な接客だし、周りのことも見ていて……)
荷物台を拭き終わった柊は、荷物台のそばで使用後の精算済みレジカゴをまとめ、各レジカウンターに配りに行っている。
撫子の四番レジカウンターにも来てくれる。
柊「宝来さん、レジカゴ、置いておきます」
撫子「ありがとうございます」
柊はニコッと笑って、自分の持ち場に戻る。
撫子(……ダメよ、撫子)
撫子は少し苦しそうに、自分の胸をおさえる。
撫子(好きになるのは、ダメ!)
そう思うと、余計に苦しい気持ちになる撫子。
撫子〈小声で〉「……ダメよ。私には婚約者が。クソしょーもない婚約者が……」
ひとりで繰り返し呟いている撫子の後ろに、三角が現れる。
三角「こんにゃく?こんにゃくがどうかされました?」
突然の言葉にビクッと驚いてから、振り返り、撫子は「三角さん……!いえ、なんでもないんです」と、誤魔化す。
三角「休憩に行ってください。交代です、宝来さん」
撫子「あ、お疲れ様です。ありがとうございます」
◯店のバックヤードにある、休憩室。
中に入ると、四つのテーブルが置いてあり、部屋の隅には飲料水の自動販売機がある。
窓際の奥のテーブルに、柊がいた。
読書をしている。
撫子は少し離れたところに腰掛けて、柊をそっと見つめる。
撫子(きれいな横顔)
(鼻筋が通っていて、まつ毛も長いのね)
(ちよっとゴツゴツしている細長い指もきれい……)
うっとり見ていると、柊と目が合ってしまった。
柊「……?宝来さん?」
撫子「あ、違う!いえ、違わないです!」
柊「ん?」
撫子「いえ、なんでもないんです」
〈少し赤くなる〉
柊は「あはっ」と笑い、本を閉じた。
撫子(本を閉じたってことは……、私とお話ししてくれるってことかしら?)
胸の奥から温かい気持ちと、ワクワクするような弾んだ気持ちが混ざり合って、撫子は(好きだなぁ)と、心から思ってしまう。
撫子(……もう、認めるしかないわ)
(好きなのよ)
(恋をしているんだわ、柊くんに)
脳裏で祖父である宗一の険しい顔がよぎる。
少し後ろめたく、暗い気持ちになった自分を見つけて、撫子はその気持ちを追い払うためにブンブンと首を振ってみる。
柊「どうしました?」
撫子〈ニッコリと笑って〉「なんでもないです」
柊〈同じように笑って〉「そうですか」
柊が腕時計を見る。
そのことが思いの外、撫子の中で淋しさを引き起こす。
撫子(ずっとこのままでいたい)
(柊くんとふたりでいたいわ)
柊「宝来さん、休憩時間っていつも何をしているんですか?」
撫子「たいていスマートフォンを見ています」
柊「あの、誰かに説明って受けました?休憩時間に外に出てもいいって」
撫子「え?いいえ。時間内なら外出しても良いんですか?」
柊「はい。店長、わりと大らかな人なので」
柊は楽しそうに笑う。
柊「知っていますか?ここの商店街、たい焼き専門店があるんですよ。美味しいのでオススメです。気が向いたら、行ってみてください」
そう言って、本をもう一度開こうとした柊を見て、思わず撫子は「あ、あのっ」と声をかける。
撫子「行きたいですっ、連れて行ってくれませんか?」
撫子(自分から誘うなんて、はしたないと思われるかしら)
(でも一緒に行きたいわ!)
(それくらい良いでしょ?)
柊は「あ、そっか」と何かを納得した様子で、「場所、わからないですよね?あ、じゃあ、良かったら今度行きますか?」と言う。
撫子「お腹、空いていらっしゃる!?」
柊「え?」
撫子「私、今がいいです!柊くんの休憩時間、まだ大丈夫なら、行きたいです!」
柊はちょっと驚いた顔をしていたけれど、すぐにニコッとして、「じゃあ、行きますか」と、席を立った。
◯商店街の中。
エプロンは付けているけれど、三角巾は外している柊と撫子は、並んで歩いている。
特に撫子は、足取りが軽くて気持ちも弾んでいる。
少し歩いた先の角を曲がると、『たい焼き専門店 たいこばぁばの店』という看板が見えた。
年季の入った看板とは裏腹に、お店の外観は新しく、店内にいる店員らしき人物も若そうな男性。
じっとその男性を見ていた撫子に気づき、柊が、「泰子って名前のおばあさんのお孫さんが、お店を継いだらしいですよ」と、教えてくれる。
店内に入ると、柊が「たい焼きの中身、選べます」と、壁に掛かっているメニューを指差す。
撫子(た、たい焼きなんてどのくらいぶりかしら)
(ずいぶん昔に羽鳥にねだって、買って来てもらったのよね)
(あれ以来、久しぶりに食べるわ)
撫子「私、こしあんのたい焼きがいいです」
柊「オレはつぶあんにします」
注文も受け取りも柊がしてくれる。
店内にあるイートインスペースで、柊と向かい合って座る撫子。
撫子が「あの、お金……」と、財布を取り出すと、柊は首を振って「食べてみてください」と笑って、お金を受け取らなかった。
撫子「いただきます」
たい焼きをひと口食べた撫子の表情が、みるみる内に輝き始める。
撫子「美味しいっ」
柊「でしょう?オレ、ここのたい焼き、好きなんです」
柊も「いただきます」と呟き、たい焼きをしっぽのほうから食べ始めた。
撫子「しっぽから食べるんですね」
柊「え?あー、なんか癖ですね。頭からガブリといけないっていうか」
撫子「私はガブリといってしまったわ」
柊「見ていて気持ちいいくらいです」
ふたりはクスクスと笑う。
◯スーパーマーケット「ぜんきち」の入り口。
柊と一緒に裏口から入ろうとしたところで、「撫子さん」と声をかけられる。
振り返ると、そこには拓磨の姿が。
撫子「えっ、なぜここに!?」
拓磨「僕が聞きたいですよ。何故あなたがアルバイトなんか……!しかも男と出かけていたようですし」
柊「?」
撫子(まずい……)
(非常にまずい状況だわ!)
(ど、どうしよう〜〜〜っ!?)
◯翌日の私立R女子学園高等部。
三年F組の教室で、再び机に突っ伏している撫子。
その席を振り返るように、麗華が前の席に座っている。
麗華「で?それからどうしたの!?アルバイト先に婚約者がやって来て、何があったの!?」
撫子〈突っ伏したまま〉「……逃げた」
麗華「え?」
バッと顔を上げて、「だから逃げちゃったのよ」と、撫子。
眉間に深いシワが刻まれている。
撫子「仮にも婚約者に『関係ないわ』って暴言吐いて、柊くんを強引に店内に押し込んで、私も店内に逃げちゃったの」
麗華「柊くんはどうしてたの?」
撫子「『大丈夫ですか?』とは聞かれたけれど、『大丈夫です、問題なし!』で押し通して、仕事に戻ったわ」
麗華「……婚約者は?」
撫子は暗い顔になって、「それが、それ以降姿を現さなかったのよ」と、呟く。
麗華「あら、それなら良かったじゃない」
撫子は首を振って、「いえ、不気味よ」と言う。
撫子「嵐の前の静けさっていうのかしら、不気味だわ」
麗華「……そうかなぁ?」
◯その日の放課後、スーパーマーケット「ぜんきち」の休憩室。
窓際の奥のテーブルに座っている撫子。
カレンダーアプリを開いたスマートフォンと、にらめっこをしている。
撫子(あと数ヶ月で高校を卒業しちゃうんだわ)
(このまま、あの早乙女 拓磨と結婚する未来を迎えるの?)
(……そんなの、嫌よ!)
眉間に深いシワを刻んで、撫子はスマートフォンから顔を上げる。
撫子「……おじいちゃまには、別の案で宝来堂を立て直す手立てを考えてもらうしかない!!」
自分の言葉に頷く撫子。
立ち上がり、ウロウロし始める。
撫子「そうよ、それにはおじいちゃまに、この結婚話を諦めてもらうことが大切よ!」
「何か、諦めてもらえる理由が欲しい……!」
顎に手を当てて考えつつ、まだウロウロしている。
その時、休憩室に柊が入ってくる。
びっくりして固まる撫子。
柊「お疲れ様です」
撫子「お、お疲れ様ですっ」
ふいに、柊をじっと見つめる撫子。
柊「?」
撫子〈ひらめいた顔で〉「……そうよ、柊くんよ」
柊「はい?」
撫子(他に好きな人がいるって伝えたら、諦めてくれるんじゃない?)
(さすがのおじいちゃまも、きっと折れてくれるわ)
(早乙女 拓磨だって、わかってくれるかも!)
柊「……あの、どうしましたか?」
撫子〈ニッコリ笑って〉「柊くんのおかげで良い案が浮かびました!ありがとう」
柊「?」
◯週末、宝来 宗一の住む家。
豪華な門構えの日本家屋。
門をくぐると見える庭も、立派な日本庭園。
家政婦の田邊という、五十代の女性に連れられて、撫子は宗一の待つ書斎に通された。
宗一は窓際に置かれたひとり掛けのソファーにどっかりと座っている。
手には杖を持っていて、ソファーのそばのサイドテーブルに置いてある紅茶が湯気を立てている。
撫子は入り口付近に立ったまま、お辞儀する。
撫子「おじいちゃま、ごきげんよう。お時間を割いていただいて嬉しいですわ」
宗一「構わないよ。それで?何か用なのか?」
撫子「……」
宗一「?」
撫子〈俯いて、両手をぎゅっとグーで握る〉
(言うのよ、撫子!)
(あれだけ練習したじゃない)
撫子「おじいちゃま、お話しがあるの」
宗一「何だ?」
撫子「……私、そのぉ……」
宗一「婚約のことか?」
撫子「えっ!?」
宗一はドンッと床に杖をついて、立ち上がる。
その動作にビクッとなる撫子。
思わず宗一の顔色を伺う。
宗一の表情は微笑んでいるものの、目が笑っていない。
宗一「言っただろう、撫子。お前にとってもこの結婚話は幸せなことなんだよ。何も言わずに、何も考えずに、お前は嫁ぎなさい」
撫子「……嫌よ」
再び俯き、本音を漏らしてしまう撫子。
グーにした両手が一度ほどけて、もう一度強く握られる。
撫子「おじいちゃまは考えたりしないの?私には既に、将来を約束している人がいる、とか」
宗一「……何?」
撫子「だから、約束しているとか、〈小声で〉していないとか、……とにかく、私にだって事情があるんです」
宗一「事情?」
宗一の表情から微笑みが消える。
じっと撫子を見つめていて、その表情は真顔。
宗一「撫子、お前の事情なんかどうでもいいんだ」
撫子「えっ?」〈顔を上げて、宗一を見る〉
宗一「しかし、もし仮に、お前に将来を約束している相手がいたとして、そいつがこの縁談を潰すようなことがあるなら」
撫子「……っ」〈ごくっと生唾を飲む〉
宗一「私が全力で、どんなことをしてでも、その相手を潰してやる」
宗一が不敵な笑みを浮かべ、撫子はゾッとする。
◯宝来 宗一の家の門の付近。
田邊が庭の木から落ちた葉を、竹箒で掃いている。
その横を、真っ青な顔で通る撫子。
田邊〈のんびりした口調で〉「あら、お嬢様。もうお帰りですか?」
撫子〈ゆっくり田邊を振り返り〉「……作戦は失敗したのよ、田邊さん」
田邊「作戦?……はて?」
◯その夜の二十二時を過ぎた頃。
宝来邸の撫子の部屋。
羽鳥に髪をとかしてもらっている撫子。
ドレッサーの前に座っている。
コンコンコン〈部屋の扉のノック音〉。
撫子「はい」
久光「姉さん、ちょっといい?」
撫子「いいわ、入って」
羽鳥が少し離れて、控える。
部屋に入って来た弟の久光は、まだ寝巻きを着ていなくて、週末にも関わらず高校の制服を着ている。
撫子「あら、久光。あなた、学校だったの?」
久光「部活だったから。その後、予備校に行ってたんだ」
撫子「わが弟ながら、真面目よね。高校一年生なのに、もう熱心に勉強してて」
久光〈少し笑って〉「オレは計画的に動くのが性に合ってるんだ」
久光は部屋の真ん中にある、テーブルに腰掛ける。
久光「……知ってる?宝来堂の経営のこと」
撫子〈表情が曇る〉「少しだけ。あまり上手くいっていないのよね」
久光「確実に傾いている。父さんも兄さんも、おじいちゃんのように経営の才能はないんだよ」
撫子「……」
久光「だからおじいちゃんは、焦っている。宝来堂は大手化粧品会社って言っても、他にも大手のライバル社はたくさんあるし」
撫子「そうね」
久光はふぅっとため息を吐いて、撫子をまっすぐ見る。
久光「でも、姉さんが犠牲になるなんて、オレは嫌だ」
撫子〈目を見開いて〉「!」
久光「早乙女さんと結婚したいの?」
撫子「したくないわ!あんな奴……」
〈きっぱりと即答する〉
久光は少し笑ってから、「結婚したい人と、結婚するべきだよ」と言う。
撫子の頭の中に、柊の顔が浮かぶ。
久光「会社のために姉さんの一生を捧げるなんて、間違っている」
撫子〈感動して〉「久光……。ありがとう」
久光「どうにか婚約破棄出来ないかな?」
撫子「それが、おじいちゃまがね……」
久光に、今日、宗一と話したことを話す撫子。
久光「……前途多難って、こういうことを言うんだね」
撫子「それに、アルバイト先に早乙女さんがいらしたの」
久光「えっ!?」
撫子もふぅっとため息を吐いて、「だけど私は屈しない。ねぇ、大事になっても構わない?」と、いたずらっぽく笑ってみせる。
その時、撫子のスマートフォンが振動する。
画面を見ると、早乙女 拓磨からのメッセージ。
拓磨《明日、お時間ください。話があります》
撫子は久光にその画面を見せて、「嵐がやって来そうよ」と、表情をこわばらせた。
◯翌日の昼休み、私立R女子学園高等部の中にある、カフェテリア。
麗華と一緒にランチを食べている撫子。
麗華はカフェ特製の明太子パスタを食べつつ、「じゃあ、今日の放課後に会うの?」と、心配そうな顔を撫子に向ける。
ホットサンドセットの中の、キャラメルバナナ・ホットサンドをかじりつつ、撫子は頷く。
撫子「でもあの人、お仕事で忙しいんですって。だから会うのは夜よ。我が家に来るらしいの」
麗華「なぁこちゃん、大変だね」
撫子〈再び頷く〉「マジで勘弁してほしいわ」
麗華「今日も夜までアルバイト?」
撫子「ううん。今日はシフト、入っていないの。のんびり過ごすつもりよ」
◯放課後、家のそばの「みどり公園」。
公園の奥の小さな丘で、私服姿〈ざっくりした短めのセーターと、ドット柄のロングスカート〉でお花畑を見つめている撫子。
撫子〈小声で〉「あ〜ぁ、憂鬱よ」
その時、足音が近づいて来る。
見てみると、柊だった。
学校帰りなのか、制服を着ている。
柊「あれ?宝来さん?」
撫子「柊くん!」
柊はにっこり笑って、撫子のそばに来る。
撫子「どうしてここに?」
柊「この公園のことは最近知ったんですけど、緑が多くて好きなんです。家からは少し遠いけれど、散歩とか学校帰りに寄り道で来たりしています」
撫子「そうだったの……!ねぇ、柊くん、覚えていますか?私達、以前もここで出会っているんですよ」
柊「あ……、やっぱり!宝来さんでしたか」
柊は笑顔を引っ込めて、心配そうな顔になる。
柊「あの時、オレはつい話しかけてしまいましたが、きっとひとりになりたかったですよね?ごめんなさい」
撫子〈慌てた様子で〉「そんな!嬉しかったです」
柊〈少しホッとする〉「それなら良いんですけど」
撫子と柊に沈黙が訪れる。
ふたりとも黙って、お花畑を見ている。
しばらくして撫子が、「どこか遠くに行けたならいいのに」と、呟く。
柊「え?」
撫子「あ、ごめんなさい!なんていうのかしら、非日常を味わいたい気分なんです」
(だって、このあとは婚約者と気の重い話し合いなんだもの)
柊「……じゃあ、どこか行きますか?」
撫子「え?」
柊はニッコリ笑う。
◯街にある美術館。
この街出身の現代美術家の、絵画展がやっている。
ファンタジックな絵の繊細なタッチに、撫子は目を奪われる。
柊〈小声〉「オレ、この人の絵、好きなんです」
撫子〈小声〉「キレイ……!」
柊〈小声〉「良かった」
〈嬉しそうに笑う〉
撫子は柊のその笑顔にときめく。
ついつい口から、「……好きです」と、本音が小さな声でこぼれてしまう撫子。
柊は聞き取れなかったらしく、「ん?」と、撫子の顔に自分の耳を近づける。
撫子「!」
思わず真っ赤になってしまう撫子。
それに気づいて、「あ、ごめん!」と離れる柊。
ふたりとも照れて、頬を赤らめる。
柊「あ、あの、宝来さん。まだ時間はありますか?」
撫子〈何度も頷きながら、少し大きな声で〉「ありますっ!」
周りから注目を浴びて、頭を下げる撫子と柊。
そしてふたりで顔を見合わせて、クスクス笑う。
◯街に流れる川沿いにある、土手。
柊と並んで土手に設置されている階段で立ったまま、夕焼け空を見ている撫子。
撫子〈夕焼け空を見ながら〉「本当に、日常からこっそり抜け出したみたいな夕焼け空……、キレイです」
柊「『こっそり抜け出した』って、なんかいいですね」
撫子「何だか、今、私達抜け出したんじゃないかしら。当たり前の世の中から、奇跡みたいな瞬間に」
柊〈嬉しそうに頷いて〉「じゃあ、オレ達だけの瞬間ですね」
柊の顔を見ると本当に嬉しそうで、そのことで心が温かく満たされた気持ちになる撫子。
撫子(どうしてなのかしら)
(柊くんといる時間は、永遠のような一瞬なのよ)
(だけど、そんな儚さも、トクトク流れる鼓動のリズムも)
(宝物みたいに感じるわ)
撫子「……ありがとう、柊くん。とても楽しく、貴重な時間になりました」
柊「オレも楽しかったです」
柊は笑って撫子と向き合い、「ありがとう」と言う。
撫子「!」
撫子はふいに泣きだしそうになる。
必死で笑顔を作る。
撫子(どうして私には婚約者がいるのかしら)
(好きになっちゃいけないのに、どうして柊くんのことをこんなにも想ってしまうのかしら)
柊はまた夕焼け空に目を向ける。
撫子も同じように空に視線を移す。
撫子(柊くん、あなたと結婚したいわ)
(叶わない願いだってわかっているのに……)
その時、背後のほうで車が「キキーッ」と、急停車する音がする。
思わず振り返ると、そこには撫子の兄、宝来 宗大の姿があった。
撫子「兄さん!」
柊「お兄さん?」
宗大はつかつかと歩いてきて、撫子を睨む。
宗大「撫子!何をやってるんだ!探したんだぞ!」
撫子〈少し不機嫌な声で〉「あら、約束の時間はまだでしょう!?」
宗大「それでも早く帰って、色々と準備しないといけないだろう!?拓磨さんがわざわざ来てくださるんだ!」
撫子から柊に視線を移して、きつく睨む宗大。
宗大「きみはどこの誰なんだ?うちの妹とは、どういう関係なんだ!?」
撫子「ちょっと!兄さん、失礼なこと言わないで!!」
柊「オレは柊といいます。宝来さんのバイト仲間で、……友達です」
撫子(柊くん……、ただのバイト仲間だけじゃなくて、私と友達って思ってくれるんだ?)
〈感動する〉
宗大は腕時計を見て、舌打ちをする。
宗大「撫子、もう帰るぞ。柊くん、今後一切うちの妹とは関わらないでくれ。こう見えて妹は、宝来堂にとって大切な存在なんだ」
柊「えっ?」
宗大「これから妹は婚約者と会う予定があってね。連れ回されては困るんだよ」
撫子「兄さん!!」
柊「婚約者?」
〈驚いた表情で、思わず撫子を見る〉
撫子(あぁ、終わったのね)
(私の恋は、たった今)
(散ったんだわ……)
◯土手からすぐの道路。
撫子の腕を引っ張り、車まで連れて行く宗大。
撫子は抵抗しているが、宗大の力には敵わない。
撫子「帰りたくないのよ!離して!」
宗大「何言ってるんだ!お前のわがままで、家族に迷惑をかけるなよ!!」
撫子「!!」
〈傷ついた表情をする〉
撫子(これって、わがままなの?)
(私は私の人生を大切にしたいだけだわ)
見かねた柊が、撫子を引っ張る宗大の腕を掴む。
柊「あの、事情はわかりませんが、そんな強引なことをしないであげてください」
宗大「……きみには関係ないんだ。事情も知らないくせに、引っ込んでいてくれよ」
撫子「ちょっと、兄さん!柊くんにさっきから失礼よ!!」
宗大「……とにかく帰るぞ、撫子!」
撫子をひょいと抱きかかえる宗大。
撫子「!?何するのよ!!やめて!!」
〈真っ赤になる〉
恥ずかしさからバタバタと抵抗するが、車の後部座席に放り込まれる撫子。
宗大は「家まで、急いでくれ」と、宝来家で雇っている運転手に伝えて、自分も車の後部座席に乗り込む。
撫子は体勢を整えて、車の窓を急いで開ける。
撫子「柊くん!」
柊「はい」
撫子「今日はごめんなさいっ、でも、楽しかったです!!ありがとう!!」
柊は撫子にニッコリと微笑んで、「またバイトで!」と、片手をあげる。
そんな柊に少しホッとする撫子。
車が走り出しても、窓から出来るだけ柊を見つめている撫子。
◯車の中。
宗大が不機嫌そうに、「シートベルトくらい、しめろよ」と、撫子に声をかける。
撫子「今、そうしようと思ったところよ!」
〈トゲトゲしく言い返す〉
ため息を吐いた宗大に、イライラが積もる撫子。
宗大「撫子、お前のためだよ」
撫子「……は?何が!?どこが!?」
宗大「彼氏なんか、何の意味もない。別れたほうがいい」
撫子「彼氏じゃないわ」
宗大「……それなら、尚更だよ。忘れたほうがいい」
撫子はイライラが頂点に達する。
撫子「何よ!!やめてよ!!私は、私の気持ちが大事よ!!あんな婚約者、好きじゃないのよ!!」
宗大も眉間にシワを深く刻んで、撫子を睨む。
宗大〈声を張って〉「だからっ!お前は馬鹿なんだよ!!」
撫子「はぁっ!?」
宗大「考えたらわかるだろ!!もう、お前の気持ちがどうこうじゃないんだよ!!」
撫子「!!」
宗大は深く「はぁ〜っ」と、ため息を吐く。
そんな宗大を呆然として見る撫子。
宗大「彼のことが他の家族や、早乙女家にバレてみろよ、潰されるのはお前の気持ちだけじゃない。彼……、柊くんが潰されるんだ!」
撫子は「そんな……っ!」と、言葉を切って、あることに思い当たる。
撫子(おじいちゃまも言ってたじゃない)
(『全力で潰してやる』って……)
撫子「……兄さん」
宗大「何だ?」
撫子「……もう、他に手立てはないの?」
宗大「……」
黙って、撫子の頭をポンッと撫でる宗大。
ウルウルと涙目になる撫子。
撫子(嫌よ)
(諦めたくないわ)
(でも……)
〈涙がポロポロ流れ落ちる〉
(どうすればいいのか、わからないわ)
◯宝来邸の応接間。
既にやって来ていて、ソファーに脚を組んで座っている拓磨。
撫子が応接間に入り、お辞儀をする。
拓磨「今日の約束のこと、忘れていたんですか?」
撫子「いいえ」
拓磨「それなら、僕との約束は最優先に考えてください」
露骨に嫌な顔をする撫子。
拓磨「素直な人ですね」
撫子「褒め言葉だと受け取っておきます」
拓磨〈嫌味に笑った顔で〉「自信過剰なところ、嫌いじゃないですよ」
撫子〈ますます眉根を寄せて〉「嫌味は嫌いです」
拓磨「はっはっはっ、思ったより賢い人で安心しました」
撫子(あ゛ぁーーーっ!!!キラーーーーイッ!!!)
拓磨は脚を組み直し、膝のところで両手を組んで置く。
拓磨「あなたに話があるんですよ」
撫子「……」
〈不機嫌なまま、腕を組む〉
拓磨「単刀直入に言います。アルバイトを辞めなさい」
撫子「!」
拓磨は顔色を変えずに続ける。
拓磨「あなたは早乙女家に入るんだ。そんな人間がアルバイト?……はっ、ふざけるにも程がある」
撫子「ど、どうして!?別にいいでしょう?」
拓磨「困るんですよ、早乙女コンツェルンの品位に関わる」
撫子「ひ、品位……」
拓磨「そんなにお金が欲しいなら、僕がいくらかお小遣いを渡しますよ。未来の妻になら、それくらいどうってことない」
撫子「い、嫌よ!!馬鹿にしないで!!」
拓磨の表情が険しくなる。
その表情にビクッとする撫子。
拓磨「馬鹿にしているのは、あなたのほうだ。アルバイトなんかして、我が家を貶めていることに気づかないのか!」
撫子「どうしてそんなに責められるのか、私にはわかりません!」
拓磨「……話にならないっ!」
〈やれやれ、という感じで首を横に振り、おでこに手を当てている〉
撫子は両手を握りしめて、俯く。
撫子(この人のこういうところ、マジで大嫌いよ)
(どうしてそんな物言いなの!?)
(自分だけが正しいと思っているのかしら)
撫子「……胸くそ悪いわ」
〈吐き捨てるように呟く〉
拓磨「何?」
撫子「アルバイトは辞めません。あなたの思い通りになるつもりなんか、これっぽっちもないのよ」
拓磨〈苛立った顔つき〉「……」
両者引き下がらず、睨み合う。
拓磨「……この間、一緒にいた男が関係しているんですか?」
撫子「!?」
拓磨「子どものままごとのようだと、放っておくつもりだったけれど」
撫子「……彼は、関係ないですっ」
拓磨「そうですか?親しそうでしたよ?」
真っ青になる撫子。
撫子(柊くんが危険にさらされる……!)
撫子は深呼吸する。
そして、きっぱりとした口調で、「何を言ってるんですか?彼はただのバイト仲間よ」と言う。
撫子(嘘でも苦しいわ)
(こんなこと言いたくない)
撫子「あんな人、好きじゃない」
撫子の目に涙があふれる。
拓磨「!」
撫子はごしごしと涙を拭う。
拓磨「だったら、これ、彼に聞かせてもいいですよね?」
〈言いながら、スーツの胸ポケットから小型の録音レコーダーを取り出す〉
拓磨が再生ボタンを押す。
撫子の声で、『あんな人、好きじゃない』という言葉が再生される。
撫子「……あなた、思っていたよりクズね」
〈拓磨を睨みつける〉
拓磨「どうとでも思いなさい。僕だって、あなたのことなんか好きじゃない」
撫子「……!?だったら、婚約はなかったことに……!」
拓磨「あなたに興味はないけれど、宝来堂の技術や経営には興味があるんですよ」
撫子「……っ!!」
◯翌日の放課後、スーパーマーケット「ぜんきち」の休憩室のドアの前。
そっとドアを開いて、中をのぞく撫子。
撫子(柊くん、いるかしら)
(確か柊くんのバイト時間って、今日は私より少し遅めに始まるはず)
しかし休憩室には誰もいない。
残念な気持ちで、ドアを閉めて回れ右をすると、鼻先が何かにぶつかった。
撫子「わっ!?ご、ごめんなさいっ」
誰かにぶつかったとわかり謝る撫子が顔を上げると、「大丈夫ですか?」と、柊の声。
柊「オレこそごめんなさい」
撫子〈驚いた表情で〉「柊くんっ、あの、私……!」
柊がじっと撫子を見る。
撫子「?」
柊は「あ、ごめんなさい。宝来さん、鼻の頭が真っ赤になってます」と、笑顔になる。
撫子「えっ!?やだ、恥ずかしいっ」
〈両手で鼻を隠す〉
柊「あはははっ、可愛いのに」
撫子「……っ!!」
撫子〈柊の笑顔を見て、切ない顔になる撫子〉
(忘れられるはずない)
(理由にも、事情にも、縛られない気持ちだわ)
(好きよ、どうしても)
◯早乙女コンツェルンの本社の一室。
スマートフォンを耳に押し当てて、拓磨が窓辺に立っている。
拓磨「……あぁ、調べてほしいんだ」
少し間を置いて、「あぁ、そうだ」と、頷く拓磨。
拓磨「あのはねっかえりと同じバイト先にいる、同じくらいの年齢の男だ。どんな人間か、何から何まで全部、オレに報告してくれ」
◯数日経った、夜九時を回る頃。
スーパーマーケット「ぜんきち」の店の前。
店の営業が終わって、従業員達はみんな「お疲れです」と言い合い、それぞれの家へと帰って行く。
撫子は店の前で、夜空を見上げている。
三角「星がキレイに見えますね」
撫子「はい。……もう、冬が近づいてるんですね」
三角「あぁ、そうですね。もうこの上着じゃ寒い時があります」
〈自分の着ている上着を見下ろす〉
撫子(冬が来たら……、すぐに春がやって来ちゃう)
(そうしたら私……)
三角「宝来さん、電車ですか?バスですか?」
撫子「あ、私は車です」
三角「え?車?」
撫子「あの、家の者が迎えに来てくれるから」
三角「そうなんですね。私はバスなんです。それでは、失礼しますね。お疲れ様でした」
丁寧にお辞儀をして帰って行く三角に、撫子も「気をつけてお帰りください」と、頭を下げる。
店の前でしばらく夜空を見ていた撫子に、「星、好きなんですか?」と声をかけたのは、柊。
撫子は柊のほうを見て、「はい」と頷く。
撫子「空を見ることが好きなんです。中でも、星は見ていて飽きません。特別です」
柊「いいですね、そういう気持ち」
撫子「……え?」
柊「好きなものがあるって、かっこいいです」
撫子はまっすぐな柊の眼差しと言葉に、嬉しくて思わず涙目になる。
それを悟られたくなくて、夜空を見上げる。
撫子「柊くんは、何が好きなんですか?」
柊「オレですか?」
〈考える仕草をする〉
「うーん、こんなこと言うの、恥ずかしいんですけれど」
撫子「?」
柊「……好きなものは、あるにはあるんです。読書とか、絵とか……。でも特別にこれ!って言える『好き』はまだ見つけられなくて」
撫子「そうなんですか?」
柊「はい。だから、それを探すために大学に行く感じです。……かっこ悪いですよね?」
小さく頭を掻いて、俯く柊。
撫子は首を振り、「そんなことないです」と、キッパリとした口調で言う。
撫子「いいんです。特別があろうがなかろうが、大切なのは、自分の意志だと思います」
柊「意志……」
撫子「自分の人生を、自分の力で決めることが出来るのは、きっと何よりも大変でつらくて、でも尊いことなんだと思うんです」
柊「……」
撫子「……あ、ごめんなさい。知ったふうなことを言ってしまいました」
柊「いえ、全然。オレ、今ちょっと感動しています」
柊がニッコリ笑ってくれて、ホッとする撫子。
◯その週末の、宝来家。
昼下がりで、気温が下がり、寒さを感じた頃。
一階にある図書室に入る撫子。
撫子(確か……、この辺りにあったはず)
背伸びして、本棚に手を伸ばす撫子。
手が届かず苦労していると、後ろから手が伸びて、目的の本を取ってくれる。
久光「はい、これ。星座の本」
撫子「久光……!ありがとう、取りにくくて苦労していたところよ」
久光「いつの間にか姉さんより、ずいぶん身長が高くなったよ」
撫子「そうね、小さかったのにね」
久光「まだ伸びるかな?期待しておこう」
おどけた口調で言った久光に、クスクス笑う撫子。
撫子「好きなの、星」
久光「うん。そうだよね?」
撫子「あら?知っていたの?」
久光はニコニコ笑顔で、「知っているよ」と言い、「そんなの、家族みんなが承知だよ」と、付け加える。
撫子「……私、大学に行きたかったわ。天文学は難しいけれど、行きたい大学には天文サークルがあって……」
久光「……」
撫子「だけど、受験も出来ないなんて」
久光「姉さん……、父さんや母さんに話してみたら?婚約の話をなかったことに出来ないかって」
撫子「無駄よ。父さんも母さんも、おじいちゃまには逆らえない」
久光「それでも言ってみなくちゃ。行動に起こさないと、現実には決してならないんだから」
久光が撫子に星座の本を手渡す。
本を受け取って、考え込む撫子。
◯その夜、宝来家のリビングルーム。
撫子の父親の宗久と母親のゆりが、ソファーに座ってワインを飲んでいる。
部屋の隅には羽鳥が立って控えている。
撫子がリビングルームの入り口で、「パパ、ママ、ちょっといい?」と、声をかけてふたりのそばまで近寄る。
宗久「何だ?」
撫子〈深呼吸をしてから、決心した顔つきになる〉
「早乙女 拓磨さんとの結婚の話、どうにか破談に出来ない?」
ゆり「えぇっ!?何を言っているのよ、撫子」
撫子「どうしても嫌なのよ」
ゆり「なぜ嫌なの?」
撫子「『なぜ』って……、性に合わないっていうか、あの人のことが嫌いなの」
宗久もゆりも困った顔を見合わせる。
宗久〈撫子を見て、妙に優しい顔つきになる〉
「嫌いっていうことは、少なからず彼に興味があるっていうことだよ」
ゆり「そうよ。興味がないなら無関心ってよく言うもの。嫌いって思えるってことは、パパの言うように興味があるんだから、いつか好きになる可能性だってあるわ」
撫子〈眉間にシワを寄せる〉
「何を言っているの?」
ゆりが立ち上がり、撫子の肩に手を触れる。
ゆり「ちょっと来なさい。ママと話しましょう?」
ゆりは撫子を連れて、リビングルームから近い、ゆりの自室へ行く。
ゆり〈チェストに置いている、豪華な装飾の施された箱からタバコを取り出す〉
「ねぇ、撫子。ママだってあなたの気持ちはわかるわ」
撫子〈入り口から部屋には入らないで、ドアのところで立っている〉「……」
ゆり「ママもパパとはお見合い結婚だったもの。親が勝手に決めてきたのよ。あなたと似ているでしょう?」
撫子「……」
ゆり「ママもパパとは最初、合わないって思い込んでいたわ。でも一緒に過ごす時間が、ふたりの関係性を変えてくれた」
手に持っているタバコに火をつけて、吸い始めるゆり。
ゆり「あなただってきっとそう。今は嫌いでも、いつか許せる。いつか好きになれる。それが人間よ。情があるもの」
撫子の身がのシワは深く刻まれたまま。
◯月曜日の放課後、スーパーマーケット「ぜんきち」の店の前。
アルバイトが終わり、空を見上げている撫子。
柊「お疲れ様です」
撫子「あ、柊くん!お疲れ様です」
しばらく黙って、空を見ているふたり。
撫子「……婚約者がいるの」
柊「……」
撫子「結婚したくないんですけど、家族のことを思うと、結婚したほうがいいのかも……しれないです」
柊「この間、お兄さんが言っていた話ですよね?」
空から柊に視線を移す撫子。
柊はまだ空を見ている。
撫子「どうして私、宝来家に生まれてしまったのかしら」
柊「……」
撫子「もっと自由に恋愛して、好きな人と結婚できる家の子になりたかったです」
撫子(こんな弱音みたいな、つまらない愚痴)
(本当は柊くんに話したくなんかないのに)
(……でも)
(聞いてほしくなったの)
柊「そんなこと、言わないでください」
撫子「……」
柊「宝来さんが宝来さんじゃなかったら、オレ達、もしかしたら出会えてないかも」
撫子「え?」
柊「公園ではじめて会ったことも、こうして『ぜんきち』で一緒にアルバイトしていることも、宝来さんが宝来さんだから叶ったことなのかなって思います」
撫子「……」
柊「オレ、宝来さんと会えて良かったし、友達になれて嬉しいんです」
撫子(柊くん……)
柊「……何言ってるんだろう?すみません、なんか意味不明ですね」
撫子「ううん、嬉しいです」
柊が空から撫子に視線を移し、目が合うふたり。
ニコニコ笑ってくれる柊に、撫子は(好きだなぁ)と思う。
撫子(柊くんと出会えたことは)
(人生で意味のあることにしたい)
(私は、私の力で)
(変えていかなくちゃ)
撫子「行動に起こして、現実にします」
ひとり呟いた宣言に、柊は「?」と不思議そうな顔。
その時、スマートフォンにメッセージが届く。
拓磨《今週末、食事会をしましょう》
《僕との結婚に向けて、話し合うことはたくさんあります》
《変な気を起こすなら、あの録音を彼に聴かせますから》
撫子はスマートフォンを静かに鞄に戻して、再び空を見る。
撫子〈ひとりごとで呟くように〉
「絶対に屈しないっ!」
◯週末の夜。食事会に行くために、撫子は自室から出て来る。
廊下では宗一が待っていて、不機嫌そうな表情。
宗一「いいか、撫子。拓磨さんに失礼のないようにな」
撫子「……約束はできません」
宗一「これは約束じゃない。絶対なんだ。命令だと思ってくれてかまわない」
撫子も不機嫌な顔になって、宗一を睨む。
◯街で有名な旅亭。
どっしりとした店構えで、いかにも老舗だと思わせる佇まい。
門をくぐり、店の玄関までの小道の脇には等間隔で提灯の灯りがぽつぽつと辺りを照らしている。
宗一「撫子、お前は何も言わずにただ頷いていればいいからな」
撫子「……」
◯通された部屋は、庭に面した角部屋の和室。
既に来ていた拓磨が立ち上がり、宗一に向かってお辞儀する。
拓磨「こんばんは。お越しいただき、感謝致します」
宗一「お招きいただき、ありがとうございます。撫子も楽しみにしていました」
撫子「……」
〈ぶすっとしていて、そっぽを向いている〉
拓磨〈撫子を見て、表情ひとつ変えずに〉
「そんなにふくれっ面だと、せっかくの美人が台無しですよ」
撫子〈拓磨を睨んで〉「大きなお世話です」
宗一「撫子!」
拓磨「はははっ!別に構いません。さぁ、食べましょう」
拓磨が座椅子に座り、向かい合うように宗一も腰をおろす。
その時、宗一は杖を座椅子の隣に置く。
宗一の隣に撫子も座る。
拓磨「撫子さん、我が家の結婚式は代々、神前結婚式なんです。花嫁衣装など、早々に決めてもらいたいんですよ」
撫子「は?」
拓磨「懇意にしている反物屋があるんです。近々、あなたをお連れしたいんですよ」
宗一「良かったじゃないか、撫子。是非、よろしくお願いしますよ。拓磨さん」
撫子「……」
撫子(タイムリミットは迫ってきているのね)
(本当の気持ち、きちんと言わなくちゃ)
(この話が現実になってしまうわ)
撫子「あ、あの」
宗一「……撫子、お前はいいから、黙っていなさい」
〈たしなめるように、チラッと撫子に視線を送る〉
拓磨「何ですか?是非聞きたいです」
〈挑発するような目で、撫子を見る〉
撫子はふぅっと息を吐き、ふたりを交互に見つめる。
撫子「この結婚話、なかったことにしていただきたいわ」
宗一はカッと目を見開いて、「撫子!」と大声を出す。
撫子〈その大声にビクッとしてしまうけれど、自分を奮い立たせるようにひざの上で両手を握って〉
「婚約破棄したいんですっ!」
宗一「何を今更っ!撫子っ、わがままはよしなさい!」
撫子「今更?おじいちゃまには話したはずよ。ここにいる拓磨さんにも、伝えたわ!!ふたりとも聞く耳を持ってくれなかったけれど!」
宗一「……っ!!」
撫子「それにわがままだなんて言わせない!はじめから言っていたはずよ、私は大学に行きたいって!受験したいって!」
テーブルの上にある、湯呑みに入った緑茶をひと口飲む拓磨。
その湯呑みをカンッと音を立てて、乱暴にテーブルに置く。
撫子「……っ!」
〈驚いて、ビクッと肩を震わす〉
拓磨「ほんっとうに、あなたにはガッカリですよ。撫子さん」
撫子「あら、奇遇ですね」
〈拓磨をまっすぐに見つめる〉
「私だってガッカリしています、あなたに!!」
宗一「撫子っ!!」
拓磨「良いんですよ、僕が悪いんです」
撫子「は?」
拓磨「ほんの少しでも、あなたに期待した僕が悪い。……もう少し、賢い人間だと思っていましたよ」
撫子「はぁっ!?」
撫子を睨むように見つめてから、宗一に向き直る拓磨。
拓磨「宝来さん、僕には二つ、許せないことがあるんです」
宗一「……っ」
拓磨〈ニッコリ微笑んで、指を折りつつ〉
「手に入らないこと、見下されること」
宗一は真っ青な顔になる。
そして撫子を見て、「この馬鹿者っ!」と、怒鳴り出す。
撫子は目を見開いて、宗一を見る。
宗一「お、お前はっ!何もわかっちゃいないんだ!!何が婚約破棄だ!何が大学だっ!!」
撫子「……っ!」
宗一「私の言う通りにしていれば、いつか絶対に感謝することになる!なぜかわかるか?」
宗一は怒りで顔が真っ赤になっている。
宗一「それがお前にとっての幸せだからだ!!お前にとっての、最大の幸運だからだ!!」
撫子の眉間にシワが深く刻まれる。
撫子「そうは思わない。決めつけないでほしいわ!」
宗一「そうは思わない?お前の考えなんて、どうでもいいんだっ!!」
撫子「本気で言っているの!?」
宗一「もうお前は黙っていなさいっ!!」
宗一と睨み合う撫子。
そんな撫子をじっと見つめて、拓磨は「はははっ」と笑い始める。
撫子「!?」
拓磨「ははははははっ!!何なんだ、これは茶番か?」
宗一と撫子が拓磨を見る。
拓磨は本当に可笑しそうに笑っている。
宗一「……あの、拓磨さん?」
拓磨は「ふぅっ」と息を吐く。
拓磨「……邪魔なんだよなぁ、柊 紡が」
撫子は全身の毛が逆立つように、ぞわっとする。
宗一「柊?」
拓磨「はい。その男が原因なんですよ。そもそも、宝来さんはご存知ですか?撫子さんがアルバイトをしていることを」
宗一「えっ?」
撫子「……っ!!」
拓磨「そのアルバイト先にいる柊と、仲が良いんですよね?一緒に休憩時間を過ごして、バイト終わりに星空を眺める仲なんだそうですよ」
宗一「!?」
撫子をねっとりと睨む宗一。
宗一「以前言っていたお前の事情というのは、その男か」
〈低く、静かに言う〉
撫子「ち、違うっ!違いますっ!!」
撫子(いけない!!)
(柊くんへの気持ちがバレたら)
(柊くんが、潰される!!)
拓磨「……撫子さん」
〈ニヤリと笑う〉
拓磨を見る撫子。
その冷たい笑顔にゾッとする。
拓磨「どうなるか、あなたはわかっていますよね?」
撫子は真っ青な顔で、ぶるっと震える。
◯数日後、私立R女子学園高等学部。
放課後の、三年F組の教室。
麗華と窓辺に立ち、窓から見える校庭のグラウンドを見つめている撫子。
ラクロス部の部員達が準備運動をしている。
撫子〈悔しそうな表情と声で〉「……もう私が折れるしかないわ。アルバイトを辞めて、受験を断念して、あいつと……、結婚……っ!!」
麗華「そんな、早まらないで!何か良い解決策を考えなくちゃ」
撫子「でも、柊くんに何かあったら……。私、申し訳なさすぎて、何度死んでも死にきれない」
麗華「……それだけ好きなんだね」
撫子は黙って頷く。
◯スーパーマーケット「ぜんきち」がある、商店街。
アーケードの中を歩いている撫子。
撫子(考え事したいから、車に乗らずに歩いて来たけれど)
(……そう簡単に解決策なんて浮かばないのね)
柊「宝来さん」
撫子〈振り向いて〉「柊くん」
柊「こんにちは」
〈元気がない〉
撫子は柊が私服姿なことに気づく。
撫子(珍しいわ。いつも学校帰りで制服姿なのに……。それに何だか、元気がない感じ)
撫子「あの、何かあったんですか?」
柊は少しためらったあと、「実は……」と俯く。
柊「父親が何故か急に、解雇されたらしくて」
撫子「えっ!?」
柊「いや、あの、オレもあんまり詳しくはわからないんですけれど……」
撫子「……っ」
(ま、まさか……!?)
柊「家族間で大騒ぎで、今日は学校も早退したんです。でも、シフト入ってるから、とりあえずバイトには行って来いって言われて」
撫子(まさか、これって……)
柊「あ、ごめんなさい。あの、忘れてください」
撫子「いいえ、謝らないといけないのは、私のほうなんです」
柊「えっ?」
商店街の一角、人通りの少ない場所に移動するふたり。
撫子が「実は昨日……」と話し始めた時、スーツ姿でサングラスをかけた複数人の男達がふたりを取り囲む。
撫子、柊「!?」
柊は撫子を庇うように一歩前に出て、自分の背中に撫子を隠す。
撫子(柊くんっ!)
男1「柊 紡だな?」
柊「……っ!?」
男1「これ以上調子に乗らないほうがいい」
男2「もう撫子お嬢様と関わるな」
柊は驚いた目で、撫子を見る。
撫子(おじいちゃまか、早乙女 拓磨のどちらかの使いの者なんだわ!)
柊は男達をまっすぐ見て、「あの、どういうことなんですか?」と尋ねる。
男3「どういうことなのか、お前にはわかっているはずだ」
柊「?」
男3「まずは父親からだった」
柊「!!」
男3「撫子お嬢様とこれ以上関わると、父親と同じように、痛い目に遭うぞ」
黙っていた男4が、撫子の腕を強引に掴む。
男4「さぁ、お嬢様。一緒に来てください」
撫子「嫌よっ!離して!離しなさい!!」
柊が男4と撫子の間に入り、男4を睨む。
柊「乱暴なことはしないでください」
男4「……君にはどうしようもないことなんだ。ただ黙って身を引くことすら出来ないのか?」
柊「!?」
男4が撫子をぐいっと引っ張る。
柊はポケットからスマートフォンを取り出し、男4に向けてそれをかざした。
パシャッ!
男4「!?」
柊「写真に撮りました。これを持って、警察に行きます。それが嫌なら、宝来さんを離してください!」
スーツ姿の男達は顔を見合わせ、頷く。
男4が撫子を離す。
柊「宝来さん、大丈夫ですか?」
撫子「私は大丈夫ですっ、柊くんは!?」
柊は笑顔で頷く。
男4「気をつけろ、俺達は見ているからな」
男達は去って行く。
撫子「ごめんなさい、柊くん。全部、私のせいです」
撫子(おじいちゃまと早乙女 拓磨のどちらかはわからないけれど)
(ここまでやるなんて……)
撫子の顔から血の気が引く。
撫子(私ひとりでは、もう太刀打ちできない)
撫子「柊くん、私……、アルバイトを辞めます」
柊「えっ?」
撫子「それから柊くんのお父様がまた働けるように、頑張ってみます。きっと私が行動を改めることで、解決できると思うの」
柊「……」
撫子「本当にごめんなさい、許してください」
撫子は深々と頭を下げる。
柊「辞めちゃうんですか?」
撫子「はい」
柊「宝来さんはそれでいいんですか?」
撫子「……」
撫子の視界が揺らぐ。
みるみるうちに涙が目に溢れている。
撫子(ダメよ)
(柊くんにお別れを言いなさい、撫子!)
柊はニッコリ笑って、「大丈夫です」と言う。
柊「大丈夫だから、謝らないで。何か他に解決策があるかもしれないですよ」
撫子の頭を優しく撫でる柊。
撫子の目から涙がこぼれ落ちる。
柊「一緒に頑張りましょう」
撫子は涙を流しながら、無言で何度も頷く。
撫子(……守りたい)
(他の誰でもない、柊くんを)
(私は全力で守るわ)
撫子「柊くん」
柊「はい」
撫子「私、頑張りますから」
そう言った撫子の両頬を、柊の両手がみょーんと伸ばす。
柊の表情は、ほんの少し怒っているように見える。
撫子「ふぇっ?」
柊「約束してくれませんか?」
撫子「ふぁにほぉ?(何を?)」
柊「宝来さん、ひとりで抱え込まないでください」
撫子「!!」
柊「ひとりより、ふたりです」
柊は再び笑顔になって、頬から手を離す。
柊「一緒に頑張りましょうね」
温かい気持ちになって、また泣きそうになる撫子。
ぐっとお腹に力をこめて笑顔を見せる。
撫子「心強いですっ」
◯スーパーマーケット「ぜんきち」の前。
柊と共に裏口に回ると、その出入り口にゴミが散乱している。
撫子「えっ、な、何!?」
柊「これは!?」
散乱したゴミのすぐそばに破れたゴミ袋と、倒れたゴミ箱が置いてある。
撫子「ひどい、誰かが故意にやったんだわ」
柊「……とにかく、掃除用具を持って来ます」
柊が店の奥に入って行く。
その時、撫子のスマートフォンに着信がある。
画面を見ると、拓磨からの電話だった。
撫子「もしもし」
拓磨『気をつけたほうがいいですよ。彼がつらい目に遭わないように、あなた自身が変わってください』
撫子「……っ!」
拓磨『僕にも、あなたのおじいさまにも、彼を潰すことなんて簡単なんです』
そこで一方的に電話が切れる。
「ツーツー」と聞こえてくるスマートフォンに向かって、撫子はすぅっと息を吸う。
撫子〈大声で〉「覚えてなさいよっ!!あんたなんか、怖くないんだからっ!!!」
スマートフォンを乱暴な手つきで鞄に片付けるけれど、撫子の背中は恐怖心から少し震えていた。
◯数日後のスーパーマーケット「ぜんきち」の休憩室。
撫子は入り口近くのテーブルに座っている三角に手招きされた。
近寄ると、三角の他にふたり、女性従業員がいる。
鮮魚係の山村と、日配係の黒部だった。
山村「宝来さん、大丈夫だった?」
撫子「えっ?何がですか?」
山村「私が店に来る時にね、あなたのことを色々聞いてくる人がいたの」
撫子「えっ?」
(それって、またあのスーツの男の誰か?)
山村「よく知りませんって言い通したけれど、ちょっと心配でね」
山村はラップに包まったおにぎりを取り出し、もぐもぐと食べ始める。
左手薬指には結婚指輪が光っている。
黒部「私も似たような感じだったの。宝来さんについて何か気になることはないですか?って聞かれたのよ、スーツ姿の屈強な感じの男に」
撫子(やっぱり……、あの人達の誰かなんだわ)
三角(心配顔で)「何かしたんですか?宝来さん」
撫子「……いえ、まだ、何も」
三角「?……『まだ』って?」
黒部は三角の肩に手を置き、首を振る。
黒部「何かあるんだろうけど、でも言えないことなのよ、きっと」
三角「え?」
黒部「宝来さんって、ほら、お嬢様じゃない?」
撫子「えっ?」
(誰にも宝来堂の家の者だとは言ってないのに)
撫子の丸くなった目を見て、黒部は笑顔になる。
黒部「わかるよー!アルバイト先にあんな大きな車で送迎されてるの見たら、お金持ちの家なんだなって」
山村「なんでアルバイトしてるの?って思ってたけどね。宝来堂のお嬢様が」
撫子「どうして宝来堂って……」
山村「え?だって、あなたの名字でお金持ちの家の子って考えたら、宝来堂でしょう?」
撫子「……」
三角「なるほど、単純明快ですね」
山村「褒めてくれてる?」
三角〈真剣な眼差しで〉「褒めてます、褒めちぎっています」
撫子以外、クスクス笑う。
撫子は不安な表情で「ご迷惑をおかけして、すみません」と、頭を下げる。
黒部は撫子に笑顔を向ける。
黒部「私達は大丈夫だよ!宝来さんが危険な目に遭わないように、あったことを伝えたかっただけ」
◯アルバイトが終わって、店から出る撫子。
裏口には、また新たにゴミが散乱している。
撫子「!!」
撫子は掃除用具を持ってきて、散らかっているゴミを片付け始める。
撫子(……負けない)
(こんな嫌がらせに、負けたくないっ!)
片付け終わり、掃除用具を戻しに行くと、店の奥から柊がやって来た。
柊「宝来さん、お疲れ様です」
撫子〈不安な表情で〉「……柊くん!何もない?怪しい人に何かされたりしていませんか?」
柊〈心配顔になる)「オレは大丈夫ですけど、宝来さんは?何かあったんですか?」
撫子は首を振り、「何もないなら良かったです」と、胸を撫で下ろす。
◯スーパーマーケット「ぜんきち」から柊と出て来た撫子。
澄んだ夜空に星が見えて、吐く息も白い。
柊「星、すっごく見えますね」
柊と夜空を見上げていると、コツコツと足音がする。
スーツ姿の男がふたり、近づいて来る。
撫子「柊くん、逃げて」
柊「そんなこと出来ません」
撫子「わたしは大丈夫だからっ!」
男1「……忠告しましたよ、撫子お嬢様」
撫子「!」
男2「なのに、あなたはまた、そんな奴といるんですか」
撫子「あなた達よね?店に嫌がらせしているのは」
男達は顔を見合わせて、黙っている。
撫子「私のことも嗅ぎ回っているようだけど、迷惑だわ。あなた達のボスに伝えて」
男1「?」
撫子「どうせなら堂々と文句を言いに来いって」
男2「後悔しますよ」
撫子「怖くないわっ!……いい?回りくどいことは嫌いよ。私と直接勝負しなさいって、あのクソ婚約者に伝えてちょうだい」
男達は再び顔を見合わせる。
男1「あなたは勘違いをしている」
柊「どういうことですか?」
男2「俺達のボスは、あなたのおじいさまです。撫子お嬢様」
撫子「……っ!!!」
◯その夜、宗一の屋敷の門の前。
インターホンを何度も何度も押して、押しまくる撫子。
田邊〈インターホン越しに苛立った声で〉「そんなに何度も何度も押さなくてもっ!!今、出ますよっ!!!」
門を開けにやって来た田邊は、「こんな時間に何ですか?」と、撫子に尋ねる。
撫子「決闘よ!!!」
勇ましく言い捨てた撫子は、ズカズカと屋敷の奥へ進む。
◯リビングの扉を勢いよくバァンっと開ける撫子。
ソファーに座っていた宗一が、大きく目を見開いてドアのほうを振り返る。
宗一「何事だ!?」
撫子「何事もクソもないわっ!!!」
宗一「なんだっ!その下品な物言いは!!」
撫子は眉間のシワを深くして、鼻息も荒い。
撫子「怒り狂っているからよ!!!」
宗一「落ち着きなさい、撫子!!」
撫子「落ち着け!?よく言えるわね!!」
持っていた鞄を床に叩きつける撫子。
バンっと派手な音がリビングに響く。
撫子「柊くんは関係ないのよ!『ぜんきち』にだって、そこの従業員の方々だって、関係ないわ!!」
宗一「……」
撫子「何も言えないの!?おじいちゃま!!」
宗一の表情が悲しそうに歪む。
宗一「仕方がないだろう!!お前がそんなふうなんだからっ!!」
撫子「はぁ!?私がどんなふうなのよ!!」
宗一「……調べたよ。お前が好きな男のことを」
撫子〈カッと赤くなる撫子〉「……っ!!」
宗一はソファーから立ち上がり、撫子のほうへ近づく。
宗一「お前はあの男に真っ直ぐ過ぎる。もう、あの男しか見えていないじゃないか」
撫子「……」
宗一「それじゃあ、ダメなんだよ。撫子、宝来堂のためにはならない」
撫子「やめて」
宗一「あの男さえいなくなれば、拓磨さんを見てくれるんだろう?」
撫子「おじいちゃま、やめて」
宗一「……言ったじゃないか。全力で潰すって」
撫子の前に来て、じっと撫子を見つめる宗一。
その目は、悲しい色をしている。
撫子「戦うわ」
宗一「え?」
撫子「私は柊くんのために戦うわ」
撫子は宗一をキッと睨み、鞄を持って部屋を後にする。
◯翌日の夕方、スーパーマーケット「ぜんきち」の前。
またゴミが散乱していて、それを店長が片付けている。
店長「あ、宝来さん」
撫子「店長、手伝います」
ふたりでゴミを片付ける。
店長「なんでかなぁ?最近多いんですよ、こういうの」
撫子「……すみません」
店長「ん?なぜ宝来さんが謝りますか?」
撫子「店長や従業員のみなさんに、お話しておきたいことがあります」
◯「ぜんきち」の休憩室。
店長と、複数人の従業員が撫子の前に集まった。
撫子「お時間割いていただき、感謝致します」
店長「何かあったんですか?」
撫子「実は……」
撫子は自分の家のこと、意志に関係なく婚約したこと、最近続いている嫌がらせは、自分に向けてされていることだと話した。
撫子「……私、婚約破棄を目指して動きますっ」
店長と従業員「……」
撫子「だからこの嫌がらせは続くと思うんですけれど、でも……、そんな私に協力してくれませんか!!」
撫子が手を挙げると、目をぱちくりしていた店長が、「もちろん」と、手を挙げた。
すると従業員の人達もみんな、「協力しますっ!」と、手を挙げてくれる。