神津北公園通りの喫茶店アイリスの入り口にある樫の木一枚板のドア。その大きめのノブに手をかければ、ギィという重い音のあとにスルリと扉は開いた。
その途端、芳しいコーヒーの香りが溢れ出す。
いつものアイリスに加わった『本日の珈琲』の香り、今日は……カネフォラ種。コンゴのミノヴァとかかな。飲み口はソフトなのに、あとから特有の香ばしい香りが鼻に抜ける。
このアイリスに通うようになって随分コーヒー豆に詳しくなった。味の違いがわかるとマスターが喜ぶから。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
渋みの中にどこか軽やかな声が響く。通い始めてもう半年くらいかな。
私がアイリスに通うのはぶっちゃけマスター狙いだ。狙いといっても告白しようとかマスターとどうこうなりたいというのでは全然なくて、なんというか純粋に萌えというか推しとかそういうやつだ。応援したいというのでもないのだけど、なんというか純粋にその存在が尊いと思って通っていた。
マスターの笹川さんはとても映画っぽい。60過ぎのいかにもな喫茶店マスター。ふわりとなでつけた髪ときれいに整えられたあごひげ。それから優しそうな丸眼鏡、白いシャツに黒のやわらかい生地のベスト。映画の中にしかいなさそうな人物が目の前にいる。
店内も昔懐かしい喫茶店の重量感のある木彫家具と、少し大きめの革張りソファ、それにガレのような花の形のランプがどこか薄暗い店内をぼんやりと照らして、たまに耳に届くくらいにゆったりとしたジャズが流れている。
まさにセピア色の映画の中から抜け出してきたようなこのフルセットがとても萌えるのだ。ヤバい。
「本日の珈琲はミノヴァですが、吉岡さんは苦手でしたか」
「もう少し酸味が弱いが好きです」
「ではいつもと同じコロンビアでよろしいですね」
私がカウンターに座るとマスターがやわらかく微笑む。至福。
マスターがコーヒーをドリップする姿は現実離れして優雅で、くるくると注がれるお湯とそこからこぽこぽと白い泡と一緒に浮き上がるコーヒーの粉から木の実のような香ばしさが広がっていく。この時間はなんていうか、とても贅沢だ。コーヒー一杯600円くらいするけれど、喫茶店のコーヒーの値段はこの雰囲気と香り込みの値段というのがよくわかる至高の時間である。
目の前にサーブされたコーヒーのふくよかさと、目の前のマスターが目の保養。マスターは私がそんなことを思っているとはつゆ知らないだろう。
「今日も試されますか?」
「お願いいたします」
ゆっくりとコーヒーを飲んでから一息ついて話しかければ、マスターはぺこりと頭を下げた。
見ているだけで十分だと思っていたのに先月くらいから近寄れてしまった。
マスターがラテアートの練習を始めた、のを目撃したからだ。
その日も自分はカウンターに座っていて、他に客がいなかったのにマスターはがさごそと冷蔵庫からミルクを取り出し何か用意をしはじめた。何をしているんだろうとその内側を眺めていたら、カフェラテにスチムミルクを注ぎながらくねくねと動かしている。明るい茶色の表面に白いミルクでなんだかよくわからないごちゃごちゃとした白い塊ができていた。
ラテ……アート?
疑問符がつくような、白い何か。
真面目な顔をしながらミルクを動かす姿に……なんというかとても萌えた。萌え死んだ。
そしてふぅ、というため息を付いて、白い模様を何もなかったかのようにスプーンでぐるぐるかき回して、自分で飲むことにしたようだ。
なんというか、物凄く、萌える。
それからは私の行動は一直線だった。
ラテアートを作るマスターが見たい。なんとしても見たい。本当は失敗する姿もときめくのだけど、失敗してそこで終わってしまったら、もうこんな萌え狂う光景がみれなくなってしまうではないか。
正直なところ、私はコーヒーはブラックしか駄目だ。コーヒーに入るミルクというものがどうも苦手だ。せっかくの馥郁たる香りがミルクのべっとりした臭いで台無しになるような気がして。
とりまネットでラテアートに必要なものを調べ、なけなしの予算でエスプレッソマシンとミルクピッチャーとラテボウルを購入した。エスプレッソマシンはまぁ……エスプレッソは好きだから自分でも使うことはあるだろう。けれどもこのミルクピッチャーというものは他に採用できる使用方法はあるのだろうか。
まぁ、でも必要なものだろうし、おそらく何かには、使えるよね。
そんなわけで、自宅に急遽友人を呼びだし、ひたすらラテアートを造りまくった。ラテ自体は正直好きではなかったので、友人がカプカプになるまで飲ませた。目的は絵を書くことだから味なんてどうだっていい。
いったい何杯のラテを飲ませたのだろう。少なくともリッター単位にはなっている。貴重な友人の犠牲もあって、友人がノックアウトするころ、ようやくきれいなハート型の絵がかけるようになった。
ふぅ。
喜び勇んでその翌日、またアイリスを訪れた。
一昨日と同じ午後3時頃、マスターはいそいそとラテアートの用意を始め、また同じように失敗をしていた。萌え死ぬ。そして前日恐ろしい量の失敗を作り出した私にはマスターの何が駄目かがわかった。
「あの、マスター、ラテアート作られているんですよね」
その途端、芳しいコーヒーの香りが溢れ出す。
いつものアイリスに加わった『本日の珈琲』の香り、今日は……カネフォラ種。コンゴのミノヴァとかかな。飲み口はソフトなのに、あとから特有の香ばしい香りが鼻に抜ける。
このアイリスに通うようになって随分コーヒー豆に詳しくなった。味の違いがわかるとマスターが喜ぶから。
「いらっしゃいませ」
「こんにちは」
渋みの中にどこか軽やかな声が響く。通い始めてもう半年くらいかな。
私がアイリスに通うのはぶっちゃけマスター狙いだ。狙いといっても告白しようとかマスターとどうこうなりたいというのでは全然なくて、なんというか純粋に萌えというか推しとかそういうやつだ。応援したいというのでもないのだけど、なんというか純粋にその存在が尊いと思って通っていた。
マスターの笹川さんはとても映画っぽい。60過ぎのいかにもな喫茶店マスター。ふわりとなでつけた髪ときれいに整えられたあごひげ。それから優しそうな丸眼鏡、白いシャツに黒のやわらかい生地のベスト。映画の中にしかいなさそうな人物が目の前にいる。
店内も昔懐かしい喫茶店の重量感のある木彫家具と、少し大きめの革張りソファ、それにガレのような花の形のランプがどこか薄暗い店内をぼんやりと照らして、たまに耳に届くくらいにゆったりとしたジャズが流れている。
まさにセピア色の映画の中から抜け出してきたようなこのフルセットがとても萌えるのだ。ヤバい。
「本日の珈琲はミノヴァですが、吉岡さんは苦手でしたか」
「もう少し酸味が弱いが好きです」
「ではいつもと同じコロンビアでよろしいですね」
私がカウンターに座るとマスターがやわらかく微笑む。至福。
マスターがコーヒーをドリップする姿は現実離れして優雅で、くるくると注がれるお湯とそこからこぽこぽと白い泡と一緒に浮き上がるコーヒーの粉から木の実のような香ばしさが広がっていく。この時間はなんていうか、とても贅沢だ。コーヒー一杯600円くらいするけれど、喫茶店のコーヒーの値段はこの雰囲気と香り込みの値段というのがよくわかる至高の時間である。
目の前にサーブされたコーヒーのふくよかさと、目の前のマスターが目の保養。マスターは私がそんなことを思っているとはつゆ知らないだろう。
「今日も試されますか?」
「お願いいたします」
ゆっくりとコーヒーを飲んでから一息ついて話しかければ、マスターはぺこりと頭を下げた。
見ているだけで十分だと思っていたのに先月くらいから近寄れてしまった。
マスターがラテアートの練習を始めた、のを目撃したからだ。
その日も自分はカウンターに座っていて、他に客がいなかったのにマスターはがさごそと冷蔵庫からミルクを取り出し何か用意をしはじめた。何をしているんだろうとその内側を眺めていたら、カフェラテにスチムミルクを注ぎながらくねくねと動かしている。明るい茶色の表面に白いミルクでなんだかよくわからないごちゃごちゃとした白い塊ができていた。
ラテ……アート?
疑問符がつくような、白い何か。
真面目な顔をしながらミルクを動かす姿に……なんというかとても萌えた。萌え死んだ。
そしてふぅ、というため息を付いて、白い模様を何もなかったかのようにスプーンでぐるぐるかき回して、自分で飲むことにしたようだ。
なんというか、物凄く、萌える。
それからは私の行動は一直線だった。
ラテアートを作るマスターが見たい。なんとしても見たい。本当は失敗する姿もときめくのだけど、失敗してそこで終わってしまったら、もうこんな萌え狂う光景がみれなくなってしまうではないか。
正直なところ、私はコーヒーはブラックしか駄目だ。コーヒーに入るミルクというものがどうも苦手だ。せっかくの馥郁たる香りがミルクのべっとりした臭いで台無しになるような気がして。
とりまネットでラテアートに必要なものを調べ、なけなしの予算でエスプレッソマシンとミルクピッチャーとラテボウルを購入した。エスプレッソマシンはまぁ……エスプレッソは好きだから自分でも使うことはあるだろう。けれどもこのミルクピッチャーというものは他に採用できる使用方法はあるのだろうか。
まぁ、でも必要なものだろうし、おそらく何かには、使えるよね。
そんなわけで、自宅に急遽友人を呼びだし、ひたすらラテアートを造りまくった。ラテ自体は正直好きではなかったので、友人がカプカプになるまで飲ませた。目的は絵を書くことだから味なんてどうだっていい。
いったい何杯のラテを飲ませたのだろう。少なくともリッター単位にはなっている。貴重な友人の犠牲もあって、友人がノックアウトするころ、ようやくきれいなハート型の絵がかけるようになった。
ふぅ。
喜び勇んでその翌日、またアイリスを訪れた。
一昨日と同じ午後3時頃、マスターはいそいそとラテアートの用意を始め、また同じように失敗をしていた。萌え死ぬ。そして前日恐ろしい量の失敗を作り出した私にはマスターの何が駄目かがわかった。
「あの、マスター、ラテアート作られているんですよね」