「…テーマから、考え直す?ううん、どんなテーマにしたって、私の腕じゃ…」
うつむいて目をつむる。
ため息ばかりが出るのを食い止めるように、すぅっと息を吸い込んでから、顔を上げてキャンバスに紙を添えた。
レンズ越しなら、何か別のものを思いつくかもしれない。
そう考えて、いつもの置き場所からカメラケースを持ち上げる。
丁寧にケースを外して、現れたミラーレスをそっとかまえた。
脇をしめて、画面を覗きこむ。
A4の紙に描かれた月と湖。
湖のかたわらにはこちらに背を向けて体を横たえた狼がいる。
だけど…。
「月と湖の縮尺がおかしい。狼だってフォルムが変だし、影の位置が不自然だ。そもそも湖に近すぎる…」
はぁ、と大きなため息がもれた。
逆立ちして見たっておかしいのはわかってる。
でもきれいに描ける腕があったら、昨日の時点で下書きを修正してた。
こんなのに色を塗ったっておかしくなるだけだし、そもそも私、色塗りだって上手くできる自信がないよ。
「写真なら上手く撮れるのになー…」
ぼふん、とカメラを持ったままベッドに倒れこんだ。
試しにカメラを覗きこんで天井の写真を撮れば、さっきの絵よりよほど見栄えのいい仕上がりとなる。
風景写真を撮る人になろうかな。
「暑い…」
茹だるような気温にぼやいて、また小さくため息を吐き、絵翔が昨日見せてくれた写真を思い返した。
そもそも、絵翔だって写真を撮るのは下手じゃんか。
そこは適材適所でいいじゃん。なんでいじわるするのよ。
本人には言えない不満を心の中で吐き出して、悪態をつくことでフラストレーションを解消する。
床に差した月明かり、私だったらより幻想的に写真に収めたのに。
見たままを写真にすることがどれだけ難しいか、さらに魅力を深めるのがどれだけ神業か、絵翔は知ってるの!?
「…月明かり…」
ぽそりと呟くと、頭に閃きが降りてくる。
私にとってカメラは、絵翔の絵を収めるためのものだったけど…。
これなら、私にも描ける!
バッと起き上がって、にんまり笑みを浮かべた。
そうと決まれば、早速研究しなきゃ。
一度きりのチャンス、失敗は許されないんだから。
Side:絵翔
俺には、絵を描く才能がある。
コンクールに出せば賞を貰えるし、幼なじみの歌月理がやっているSNSでも、反響はいいらしい。
まぁ、描いた絵を褒められるのは素直にうれしい。
でも俺は褒められるために絵を描くわけじゃない。
楽しいから描いてるんだ。
…それが。
「くそっ…こんなの違う、俺が描きたいのは、もっと…!」
勢い任せに、今日1日かけて途中まで描いた絵を、バツ印で上書きして没にする。
最近、筆が乗らない。
調子が悪くなり始めたのは、ちょうど1週間前、土曜日だった。
歌月理に気づかれたくなくて、1人で描きたいからと家に上げなくなっても、焦りがつのるばかり。
まだ誰にも気づかれてない。
でも、一時的な不調はどんどん悪化して、筆を持つことすら億劫になって。
無理やり絵を描いても、駄作しか生まれなかった。
このまま、俺は二度と絵が描けなくなるのか?
そう思うと、ゾッとする。
歌月理の期待に満ちた目からも逃げたくて。
「どうしてなんだ…」
筆もパレットも置いて、くしゃっと髪を掴む。
頭を抱える。
ため息だけが絞り出される。
絵を描くことが、苦痛だ。
新作を期待する周りの目に、吐き気がもよおす。
今の自分にがっかりして、今まで俺の絵を賞賛していた人が離れていくことが恐ろしい。
見せられない。なら、隠し通す。
でも、調子が戻る日は来るのか…?
ティロン♪
「…歌月理…?」
ベッドの上に置きっ放しだったスマホを見て、手を伸ばす。
画面に表示された通知には、[私の芸術、描くから。家に来て]とシンプルなメッセージが書かれていた。
そういえば、一昨日、あいつに八つ当たりしたんだった。
時間を稼ぐために無理難題を吹っかけて…。
歌月理に絵なんか、描けるわけないのに。
「家に来てって…」
窓の外を見る。もう真っ暗だ。
閉め忘れたカーテンを閉めながら、[今から?]と一応聞き返しておく。
肯定の返事はすぐに来た。
俺は画材を片付けて、キャンバスを隠すように仕舞ってから、親に一言告げて歌月理の家に向かった。
****
俺の家から歌月理の家までは、歩いて5分もかからない。
適当に履いてきたサンダルを脱いで、本人に出迎えられながら歌月理の家に上がると、真っ暗な部屋に通された。
歌月理は壁伝いに部屋の奥へ向かう。
「電気つけるぞ」
「ダメ。真っ暗じゃないとできないから」
「はぁ?」
こんな暗い中でなにを描くって言うんだ。
それに、キャンバスは。
そう思ったあと、暗闇に目が慣れてきて、窓辺にイーゼルとキャンバスが置かれていることに気づいた。
窓はカーテンが開かれたまま。
月明かりを背にして描こうって言うのか?
「歌月理…」
呆れた声が出る。
こんな場所で描いた絵の出来なんてたかが知れてる。
「絵翔は黙って見てて」
カチャ、と音がして歌月理の体が浮いた。
いや、脚立に上ったんだ。
窓の横にあるから見えなかった。
俺の方からイーゼルの骨格が見えるってことは、キャンバスは窓に向いてるわけだけど。
脚立に上ったら、筆が届くわけないだろ。
一体なにがしたいんだと、腕を組んで近くの壁にもたれかかる。
歌月理は「よいしょ…」とつぶやいて、脚立の上でがさごそとなにかを始めた。
「よし」
脚立の一番上の段に座った歌月理は、揃えた膝に両肘を置いて、カメラを構えた。
芸術を描くって言っておいて、けっきょく写真を撮る気なのか?
っていうかその角度、パンツ見えるし。
暗いから見えないけど。
羞恥心ないのかよ。
「おい」
「しー。もう少しだから、待ってて」
「もう少しって…」
なにがだよ。
「一応聞くけど、なにを撮るつもりなんだ?」
「夜に映える光」
夜に映える光?月でも撮るつもりなのか?
そんなもの、と思いながらじっとカメラを構えている歌月理をながめると、不意に思い出した。
そういえば、床に差した月明かりを見せたんだっけ。
まさか、あれを撮るつもりなのか?キャンバスを背景に?
白いキャンバスに、月明かりが上手く映るわけないだろ。
待つだけ時間の無駄だけど、家に帰っても描けない絵と向き合うだけだから、俺は大人しく窓の外をながめていた。
中途半端に欠けた月が遠くに見える。
どれくらい無音の中で待っただろう。
暗闇の中で、月をながめて、無心になってきた頃、空にパッと光が咲いた。
パシャパシャパシャッ
ドォン、と音がする。
窓の外で明るく輝く光の花が、暗い室内をパッ、パッと照らした。
重くひびく花火の音と、乾いたシャッター音がぶつかるように鳴っている。
ドドォン、と赤い花が咲いて、パチパチとあちこちが明滅した。
次に上がるのは緑の花火。
オレンジとも黄色ともつかない大輪の花は、しだれ桜のように線を引いて消えていった。