アンハッピー・ウエディング〜後編〜

椿姫お嬢様を見送って、リビングに戻ると。

「悠理君、悠理君。お土産食べよー」

早速寿々花お嬢さんが、もらったばかりのフランス土産を開けようとしていた。

マカロンと…紅茶だっけ?

「良いけど…。ちょっと待ってくれ。準備するから」

「うん、分かったー」

…。

…いつも通り、けろっとしてんな。寿々花さん。

ついさっきまで、実の姉に会っていたというのに…。

「なぁ、寿々花さん」

「なーに?」

「良かったな。久々に姉さんに会えて。楽しかったか?」

そう尋ねると、寿々花さんはきょとんとして。

「…どうだろう?うーん。でも確かに、会うの久し振りだったなー。いつものお姉様だった」

…意外と淡白な返事だな。

椿姫お嬢様の方は、寿々花さんに会えて嬉しそうだったが…。

「椿姫お姉様は変わってなかったけど、私は変わったねって、何度も言われた」

「そうか」

「それはきっと悠理君のお陰だね。私、悠理君のこと大好きだから、一緒にいるだけで元気になるんだって言った」

へぇー。

やっぱり、案の定話を盛ってた訳だな?

あんたは、何でも大袈裟に言い過ぎなんだよ。

椿姫お嬢様にまで誤解されたらどうするんだ?

「…ちなみに、他にどんな話してたんだ?」

聞くまいと思ってたけど、やっぱり気になる。

俺の悪口で盛り上がってたのか?

「どんな…?うーん。誕生日の時のこと聞かれたから、悠理君とハムスターランドに行って楽しかったよ、とか。ピザが美味しかったとか、ジェットコースターで悠理君が腰を抜かしてたとか…」

そういう余計なことは言わなくて良いんだよ。

「悠理君がオムライスに旗を立ててくれたんだよ、とか。一緒に水族館に行ったんだよ、とか」

オムライスに国旗…はともかく。

水族館は…まさか深海魚水族館だとは、椿姫お嬢様も思ってなかっただろうな。

「最近は、一緒にお化け屋敷に行ったって言った。悠理君が喉ガラガラになるまで叫んでたんだよって」

だから、余計なことまで言わなくて良いんだって。

俺、多分椿姫お嬢様に、すげービビリだと思われてるだろうなぁ…。

「あと、皆で一緒にたこ焼きパーティーもしたんだよって」

あぁ。ごく最近の出来事だな。

「とにかく毎日楽しいんだって言った。悠理君のお陰だね」

「そうか…」

…悪口で盛り上がってた…ってことはなさそうだな。良かった。

逆に、褒めちぎられてむず痒いんだが。

果たして椿姫お嬢様は、妹の新たな婚約者と初めて会って、どのような感想を抱いたのやら…。

椿姫お嬢様はにこやかに微笑んでいるだけで、その笑顔の裏にある真意のほどは分からない。

でも、少しでも良い印象を与えられた…と思いたい。

…って、何考えてるんだか。俺は。

これじゃ、姑に認めてもらおうとしてる若い新妻みたいじゃないか。

認められようと認められまいと、婚約を決めたのは無月院本家のご当主様。

椿姫お嬢様と寿々花さんのお祖父さんなんだから。

俺にも寿々花さんにも、口を挟む権利はないっての。
「また会いに来るって言ってたよ。日本に帰ってきたら」

「あぁ…言ってたな」

いつになることやら。

円城寺は二度と来なくて良いけど、椿姫お嬢様ならいつでもウェルカム。

「それまでに、またたくさん思い出話を作っておかなきゃ」

思い出…ねぇ。

果たして、次に椿姫お嬢様が日本に帰ってきて、寿々花さんに会うまでに。

一体どんな思い出が、新たに作られるのとになるのだろうか。

いやはや、俺には想像も出来ないな。

「マカロン食べよー、悠理君。マカロン」

「はいはい」

寿々花さんに、お土産のマカロンを勧められた。

結構お高いお菓子だよな。マカロンって。一つ何百円?

しかも、本場フランスのマカロンなんて、一生に一度食べられるかどうか。

人生で初めて食べたフランス土産のマカロンは、それはもうびっくりするくらい美味しかった。

椿姫お嬢様、御馳走様。
椿姫お嬢様が訪ねてきた翌日。

夏休み最終日は、前日とは打って変わって、家の中で静かに過ごした。

誰も訪ねてこなかったしな。

明日から学校が始まるから、身体を慣らす為に、机に向かって自主勉強に勤しんだよ。

そうしてたら、後に雛堂からメールが一通届いた。

大した内容じゃなかったよ。

『宿題が終わりません(*´ω`*)』って。たった一文だけのメール。

知るかよ、って思った。

そんなほっこり笑顔の顔文字使ってメール送る暇があったら、少しでも宿題を進めろっての。

最終日まで、宿題を後回しにしていたツケが回ってきたということだな。

アホな雛堂には、充分反省してもらうとして。

こうして、長かった夏休みが終わり。




翌日から、いよいよ新学期を迎えた。




9月の最初の日、俺達の学生生活が再び幕を開けた訳だが。

…幸先の悪いことを言って良いか?

ぶっちゃけ、今すぐ帰りたい。

新学期始まったばかりなのに情けない、と思っただろう?

俺だってそう思うよ。

まだ夏休み気分が抜けてないのか、と言われたら確かにそうかもしれない。

でも、俺が「帰りたい」って思うのは、俺が怠けてるからじゃないぞ。

もっと別の、環境的な理由がある。

…と、言うのも。

「暑い。あっづい!何だよここは。灼熱地獄か…!?」

「…言うな、雛堂」

言ったら、余計暑くなるだろ。

何も言うな。

「だらしないですね、この程度で音を上げるとは。全くこれだから人間は…」

やれやれ、と両手を上げて呆れる乙無。

あんたも何も言うな。

そして、俺の前に立つんじゃねぇ。

二学期始まったっていうのに、あんたは何でまだ長袖シャツなんだよ。

目の前でそんな暑苦しい格好を見せられたら、見てるだけで体感温度が上がる。

暑い。ただもう、ひたすらに暑い。

俺達だけじゃなくて、クラスメイト皆がそう思っている。

口々に聞こえてくるもん。

「暑い」、「死にそう」、「熱中症になる」って。

分かるよ、その気持ち。

朝から雲一つないカンカン照りで、アスファルトに反射した強い日差しが、ジリジリと肌に焼け付くようだ。

何もせずにじっとしているだけでも、全身がじっとりと汗ばんでくる。

…あっつい。マジで死にそう。

大袈裟だ、って思うか?

だったら、ここに来てみろよ。

死ぬほど暑いからさ。マジで、命の危険を感じるくらい暑いから。

何せ、この教室。…と言うか、この校舎。

「今時、エアコンもない学校なんて有り得るかよ…!?ここ、本当に現代日本か…!?」

…雛堂、言うなって。

言ったら余計惨めになるだろ。

聖青薔薇学園男子部に入学して、はや半年。

女子部との圧倒的な格差に、男女差別だと腹を立てたことは何度もあるが。

今回は、その中でも特別際立ってるな。

まさか、教室の中でエアコンが使えないなんて。

有り得ねぇだろ。新校舎では廊下の隅々までエアコンが利いているというのに。

旧校舎には、教室にさえエアコンがない。

旧校舎の冷房設備と言ったら、精々申し訳程度に、ちっこい扇風機が備わってるだけ。

しかもその扇風機、三年生の教室にしかないんだってさ。

俺達一年生と二年生の教室にはない。

従って俺達は、窓を全開に開いて、外から吹き込んでくる風で暑さを凌ぐしかなかった。

…無風だけどな。今。

そりゃ暑くて死にそうにもなるだろ。当たり前だ。

昨日まで家の中で、エアコンをつけて快適に過ごしていただけに。

突然の灼熱地獄が、余計身に堪える。

砂漠にでも連れてこられた気分だよ。暑くて死にそう。
何より、腹が立つのは。

「自分らがこんな暑い思いしてるっていうのに、職員室と校長室はしっかり冷暖房完備してるそうじゃねぇか。ズルくね?」

「…言うな…」

俺達が暑さで死にそうになっている今も。

職員室と校長室だけは、ちゃんとエアコンついてるらしいぞ。

どう思う?これ。

同じ旧校舎にいるんだから。先生達も生徒達と同じ思いを共有しろよ。

先生達は職員室に帰れば涼しいもんだから、生徒がいくら「暑い」と訴えても、大袈裟だとか、そのくらい我慢しろ、だとか。

まるで、生徒が聞き分けのない我儘を言っているかのように、軽くあしらわれてしまう。

我儘じゃねぇよ。アホか。

この灼熱地獄の教室の中で、一日俺達と一緒に過ごしてみろよ。

嫌と言うほど分かるだろうさ。

「いっそ、反乱起こすか?学年中、いや、学校中の生徒を組織して、一斉蜂起しようぜ。革命だ。世界変革の前夜だ!」

と、何やら意味不明なことを口にする雛堂。

暑さで頭おかしくなってんだよ、雛堂も。

気持ちは分かる。俺だって暑さのあまり、いっそ本気で職員室占拠しようかと考えてるくらいだもん。

やろうぜ、マジで。皆で反乱起こそう。

皆が力を合わせれば、勝てるんじゃね?

何なら俺が革命軍のリーダーやっても良いよ。

なんて真面目に考えてるくらいだから、暑さは人に理性を失わせる力がある。

「…エアコンそのものは備わってるんですけどね」

理性を失う俺達を見て、乙無がそう呟いた。

…そうなんだよ。だから、余計腹が立つの。

俺達の視線の先には、教室に天井にへばりつくようにして設置されたエアコン。

あるにはあるんだよ、エアコン。ちゃんとさ。

だから俺達も、一学期の時点では、こんなに暑い思いをさせられるとは思ってなかった。

ちゃんと各教室にエアコンが備わってるんだから、夏になったらこれが動くものと思っていた。

普通思うだろ?エアコンそのものは設置されてるんだから。

まさか、これがただの壊れた骨董品だとは、誰も思わないだろ?

そう、壊れてるんだよこれ。

まんまと騙された。一学期の俺達。

あまりの暑さに、クラス委員が「エアコンは何度になったらつけるんですか?」と担任教師に尋ねたところ。

「この校舎は古いので、職員室と校長室以外のエアコンは故障していて動きません」と無情に言われたときの、俺達の気持ちよ。

思わず皆、時が止まったようにポカンとしてしまった。

…壊れたんなら、修理くらいしろって。

新校舎の女子生徒を、入学オリエンテーションで京都旅行に連れて行く金があるんだったら。

遠足で豪華客船日帰りクルーズに行く金があるんだったら。

旧校舎のエアコンの修理費くらい、ポンと出せるだろうが。

ちゃっかり、職員室と校長室のエアコンだけはさっさと直してる癖して。

これが、故障したのが新校舎のエアコンだったら、すぐさま修理を呼ぶ癖して。

野郎共は、多少暑くても我慢しろ、ってか?

やっぱり、職員室じゃなくて、新校舎に攻め入らないか?

金持ちのお嬢様方にも、エアコンのない灼熱の教室がどんなものか、身を以て体験してもらおうぜ。
…などと、愚痴ってみても何も始まらなかった。

暑さのせいで、気分が荒みそう。

一日中旧校舎の、灼熱地獄の教室で過ごし。

一刻も早く家に帰って、思う存分エアコンのもとでアイスコーヒーを飲みたいと思っていたのに。

残念ながら、今日は真っ直ぐ帰宅出来ない。

不幸なことに、今日は水曜日。

そう、新校舎の中庭で、園芸委員のお仕事をしなければならない日である。

畜生。こんな日に限って。

しかも、悔しいことに。

旧校舎では、廊下でも教室でも階段でも、とにかく職員室と校長室以外、死にそうなほど暑いっていうのに。

新校舎に一歩足を踏み入れた途端、早速、涼しい冷気を感じた。

「生き返る」っていうのは、こういう瞬間のことを言うんだろうな。

旧校舎に比べたら、ここは別世界だよ。

涼しっ…!玄関に入っただけでこれだよ。

ここの冷気、ちょっと旧校舎に持って帰って良いか?

本気でそう思うくらい、旧校舎と新校舎の格差は凄まじかった。

おまけに、中庭。

中庭なら外だから、新校舎と言えども暑いだろうと思っていたら。

中庭にもつるバラのテラス屋根がついていて、日差しが遮られており。

意外と、思ったよりは涼しい。

中庭でさえ、旧校舎の教室より涼しいとは。

あまりの格差に、何だか呆れと怒りを通り越して、悲しみさえ感じてきた。

おまけに。

「ごきげんよう、悠理さん」

「…どうも…」

こんな真夏の暑さの中、エアコンという文明の利器に手厚く守られ。

その珠のような肌に、汗のひと粒も浮かんでいない小花衣先輩の姿を見ると。

俺達が感じている苦しみって、一体何なんだろうと思わされるよな。

「二学期も宜しくね。お花の世話、一緒に頑張りましょう」

「…はい…」

「…あら?悠理さん、何だかお疲れのようだけど…大丈夫かしら?」

大丈夫じゃないです。

暑いんだよ。一日中、暑くて死にそうだったの。

「夏バテ?それとも、夏休みにお出掛けして疲れたのかしら」

「いや、その…そんなことは…」

「そうだ、お出掛けと言えば…。これ、夏休みに海外旅行に行ったお土産よ」 

相変わらずの、にこやかな微笑みを浮かべて。

小花衣先輩は、海外旅行のお土産を差し出してきた。

あぁ…そういや、旅行行くって言ってたっけ…。

新校舎の生徒は、夏休みは基本、旅行や留学に行くのが普通らしい。

うちの寿々花お嬢さんくらいだよ。夏休みに、近所のデパートのお化け屋敷に出掛けてるのは。

「どうも…ありがとうございます」

「いいえ、気にしないで。とっても楽しい旅行だったから、幸せのお裾分けよ」

…なんか、この夏だけで色んな人に外国のお土産をもらった気がするな。

円城寺から始まり、椿姫お嬢様と…今、こうして小花衣先輩からももらった。

そういや寿々花さんも、遠足のお土産に外国のインスタントラーメンを買ってきてたしな。

金持ちってのは、外国産のお土産を買うのが好きなのかもしれない。

「さて、それじゃ今日も元気に、お花のお世話をしましょうか。まずは水やりから」

「はい…」

小花衣先輩に促され、俺はホースの蛇口を捻った。

…早いところ済ませて早く帰って、そして早く思いっきり涼もう。
園芸委員の仕事を無事に終え、帰宅後。

「はぁ〜っ…。死ぬかと思った…」

生き返るよ、マジで。

本当。死にかけていたところに、ようやく一条の光が差し込んだ気分。

大袈裟じゃないぞ。真剣にそう思ってるから。 

リビングの冷房の温度を思いっきり下げ、大きなグラスにたっぷり氷を入れ。

冷蔵庫でキンキンに冷やしたアイスコーヒーを、グラスいっぱいに注ぐ。

ついでに、冷凍庫から買い置きの棒アイスを取り出す。

マジで、もうね。今日口に入れたものの中で一番、断トツぶっちぎりで一番美味いわ。

暑く、渇いた身体に染み渡る。

思いっきり涼んで、文明の利器エアコンを満喫していると。

「あ、悠理君お帰り…」

「おぉ、寿々花さん…。ただいま」

俺が帰ってきた音を聞きつけたらしく、リビングに寿々花さんがやって来た。

そして、リビングをきょろきょろと見渡して、一言。

「…何だか、この部屋寒い」

…あ、ごめん…。

「さっき冷房の温度、めちゃくちゃ下げたんだよ…。死ぬほど暑かったもんだから」

俺は丁度良いけど、ずっと冷房の中にいた寿々花さんにとっては、寒いかも。

「冷たいもの食べ過ぎじゃない?」

片手に氷たっぷりのアイスコーヒー、もう片方の手に棒アイスを握った俺を見て、寿々花さんがそう言った。

…つい。暑かったもんだから。

「マジで暑かったんだよ…。旧校舎の教室、灼熱地獄だからな。エアコン壊れてて」
 
新校舎にいる寿々花さんにとっては、全然関係のない話かもしれないけど。

旧校舎の生徒は、一日死にそうな目に遭ってたんだぜ。それを忘れないでくれ。

「ちなみに、今晩のメニューは冷やし中華だからな」

「わー。冷たいものばっかりだ。悠理君、本当に暑かったんだね」

暑いよ。

あんまり暑いから、つい冷たいものが食べたくなってさ。

良くないなぁとは思いつつも、どうしても身体が冷たいものを欲してしまう。





…思えば、こういうことの積み重ねが良くなかったのだろう。
二学期が始まって、丁度一週間が経った頃のこと。

「…ん…?」

その日の朝、俺はぼんやりとした頭で目を覚ました。

…なんか、妙に身体が重い気がする。

頭や腕や脚に、ずっしりと重りをつけられたような…。

…。

…って。

「…やっべ、遅刻…!」

ぼんやり天井を見上げていた俺は、急いで飛び起きた。

途端に、ズキッとこめかみの辺りが傷んだ。

その痛みに顔をしかめながらも、俺はベッドサイドの時計に目をやった。
 
案の定、寝坊。

いつもより一時間は寝過ごしていた。

ヤバい。急がなくては。

急いで支度してダッシュで学校に向かえば、授業には間に合いそうだったが。

今日は、お弁当を作っている時間はなさそうだ。

あぁもう、何をやってるんだか。

普段は体内時計で自然と起きるから、つい目覚まし時計をセットするのを忘れていた。

って、そんなことしてる場合じゃねーや。

「寿々花さん、寿々花さん!朝だぞ、早く起きろ!」

俺は急いで飛び起き、寿々花さんを起こしに寝室に飛び込んだ。

案の定寿々花さんは、気持ち良さそうに寝息を立てていた。

「起きろって、早く!遅刻するぞ!」

「むにゃむにゃ…。悠理君ったら、電子レンジのおばけとそんなに仲良くなって…」

「どういう夢を見てるんだよ…!?良いから、早く起きろ!」

俺とおばけを仲良くさせるな。冗談じゃねぇ。

「むにゃ…んん…?」

俺に揺すり起こされて、寿々花さんはようやく寝惚け眼を開いた。

「あれ…?ここにも悠理君がいる…?」

「やっと起きたか。早く支度しろ。寝坊…」

「夢の中でも悠理君に会えて、現実でも会えた。何だか嬉しいねー」

喜んでる場合じゃねぇっての。

嬉しいねー、じゃないんだよ。

状況分かってるか?状況。遅刻寸前なの。

「でも、悠理君。何だか今日、声が変だよ…?それに、何だか顔が赤いような…」

「それは焦ってるからだろ?そんなことは良いから、早く着替えて支度してくれ。悪いけど、今日弁当作れそうにない」

学校のカフェテリアか、ベーカリーででも買って食べてくれ。

「そっかー。仕方ないね。分かったー」

こくり、と素直に頷く寿々花さん。

よし、それで良い。

あと、他にやるべきことは…。毎朝、学校に行く前に洗濯をしていたのだが。

残念ながら、今日はそんなことをしている余裕はなさそうだな。

何なら、ゆっくり朝飯食べてる時間もないや。

焦ってるせいか、食欲も全然ないし。良いか。

寿々花さんの分だけ、簡単に朝食を用意しよう。

「悠理君、着替えたー」

制服に着替えた寿々花さんが、ダイニングルームに降りてきた。

「あぁ。簡単だけど、朝飯用意したから食べてくれ」

「…?悠理君は食べないの?」

「俺は良いや。食べ終わったら、食器置いといてくれ」

「そっか…。…それは良いとして、悠理君、今日具合悪いんじゃない…?」

は?

「そりゃ悪いよ。遅刻寸前なんだから当たり前だろ」

何を当然のことを。

うっかり寝過ごしたが為に、こんなに焦ることに。

俺としたことが、大変情けない。
家を出てから、猛ダッシュで学校に向かい。

「はぁ…はぁ…。…間に合った…」

始業開始のベルが鳴る前に、何とか教室に滑り込んだ。

危ないところだった。…紙一重だったぞ。

「お、星見の兄さんが来た」

「あまりに遅いから、今日はお休みかと思いました」

教室に駆け込んできた俺を見て、雛堂と乙無が言った。

「珍しいなー。星見の兄さんが遅刻ギリギリとは。寝坊でもしたか?」

図星だよ。うるせぇ。

「ほぼ毎日、遅刻ギリギリ登校のあんたに言われたくねぇっての…」

「確かに。そりゃちげーねぇ」

「…それより悠理さん、大丈夫ですか?やけに顔が赤いですけど」

と、乙無。

あ?顔が赤い?

「この暑さの中走ってきたんだから、そりゃ赤くもなるだろ」

まだ朝だというのに、既にこの暑さ。

そこを走ってきたのだから、真っ赤な顔になってもおかしくないだろ。

しかし、乙無は。

「いや、そういう意味ではなく…」

と、言おうとしたが。
 
そこで、始業開始のチャイムが鳴り響いた。

おっと。喋ってる暇はない。席につかないと。

話を中断して、俺は自分の席に座り、学生鞄を机に置いた。

椅子に腰を下ろした瞬間に、頭がふらっとした。

…やべ。

走ってきたからかな…酸欠を起こしてるのかも。

ともあれ、学校に間に合って良かった。

寿々花さんも、間に合ってると良いのだが…。