あー、成程。無月院椿姫。寿々花さんの姉さんね。
道理で、何処かで見覚えがあると思ったよ。
姉なのに、寿々花さんとは顔、あんまり似てないな。
なーんだ。円城寺かと思ったら椿姫お嬢様かよ。
それならそうと、最初に言ってくれれば…。
…。
…って。
つ…椿姫お嬢様だと?
ようやく、目の前にいるのが誰なのか理解して。
俺は激しく動揺し、視線をぐるぐると彷徨わせた。
「つ、椿姫…お嬢さん?え、えぇっと…」
同じ親戚筋の相手とはいえ、俺みたいな下っ端分家の人間が、椿姫お嬢様と言葉を交わしたことは一度もない。
遠目からちらりと拝見するのが関の山。
そんな俺が、無月院本家の長女と相対するなんて。
しかも俺、さっきめちゃくちゃ横柄な態度でドア開けちゃった。
第一印象は最悪、と言ったところか。
案の定。
「ごめんなさい、突然訪ねてきてしまって…。やっぱり迷惑だったかしら」
申し訳なさそうに、椿姫お嬢様が尋ねた。
いや、違う。さっきのは、その…円城寺だと思ったから。
…本当済みません。
とりあえず、土下座で会話した方が良いだろうか。
今からでも、何とかリカバリーしないと。
「いえ、そんな。とんでもないです」
必死に、ぶんぶんと手を振る。
「そ、その…椿姫お嬢様が突然いらっしゃったので、つい驚いてしまって…」
「そうよね。ごめんなさい」
円城寺と言い、この椿姫お嬢様と言い。
身分の高い偉い人達というのは、アポ無しで他人の家を訪ねるのが常識なのか?
言ってくれよ。来るなら来ると。事前に。
「不意に休みが取れたものだから、一時帰国したの。あと数日したら、また戻らなきゃいけないのだけど」
とのこと。
帰国…戻る…。
そういえば椿姫お嬢様は、円城寺みたいに海外留学してるんだっけ。
フランス留学だったか?優雅だよなぁ…。
「日本にいるうちに、妹の顔を見ておこうと思ってね。妹…寿々花はいるかしら?」
「あ、はい。います、家の中に…」
「そう。上がっても良いかしら」
「ど…どうぞ。…その、散らかってますけど…」
俺は、椿姫お嬢様を玄関に迎え入れた。
やべー…。こんなお偉い人が訪ねてくるなら、家の中もっと掃除しておけば良かった…。
スイカの種とか、落ちてたらどうしよう。
「それじゃ、お邪魔します」
玄関に入ってきた椿姫お嬢様は、靴を脱いで丁寧に揃えていた。
…何をしていても、品のある所作。
何なら、ゴミ拾いをしていても後光が差してんじゃねぇの。
「あなたのことは、いつも妹から聞いているわ」
「えっ…は、はい」
椿姫お嬢様に話しかけられて、俺はどぎまぎしながら頷いた。
マジで?
俺は椿姫お嬢様のことなんて、ほとんど知らないのに。
椿姫お嬢様は俺のことを知ってるって、何だか不公平じゃないか?
「あの」無月院家のご息女が…。下っ端分家の俺を…。
つーか寿々花さん、椿姫お嬢様に俺のことを何て説明してるんだろう。
…まさか、包み隠さず話してるんじゃないだろうな?
漬け物を自分でつけるくらい貧乏性で、未だにお古のジャージ着て寝てるんだよ、とか?
いや待て。お古のジャージを着て寝てるのは寿々花さんも一緒だから。人のこと言えないだろ。
頼むから、良い印象を持たれるような話をしていてくれよ。
…しかし、あの寿々花お嬢さんに、そのような気遣いを望めるはずもなく。
「まだ若いのに、とってもお料理が上手なんだそうね」
畜生。やっぱり余計なこと言ってる。
「そ、そんな…大袈裟です。素人に毛が生えたようなものですよ」
「謙遜しなくて良いのよ。三ツ星レストランのシェフが作った料理より美味しいって、妹が言ってたわ」
余計なこと言い過ぎだろ。
あの寿々花お嬢さんと来たら…!何でもかんでも大袈裟なんだよ。
俺、多分椿姫お嬢様に、「めちゃくちゃ料理出来る人」だと思われてる。
違うからな。嘘だから。濡れ衣だから、それ。
俺が料理上手に分類されるなら、全国の主婦の皆さん全員が三ツ星レストランのシェフになれるわ。
しかし、寿々花さんが椿姫お嬢様に吹き込んだのは、それだけではなく。
「それに、凄く優しい人だって」
…また話を盛ってるんじゃないだろうな。
「いつも一緒に遊んでくれるんだって、嬉しそうに教えてくれたわ」
「そ、そうですか…」
「でも、映画に誘ったらいつも断られる、って」
「…それは済みません」
「映画、お嫌いなの?」
違うんです。
映画が嫌いなんじゃない。寿々花さんと映画を見るのが嫌な訳でもない。
あんたのとこの妹が観るのは、いつもヤバい化け物が出てくるホラー映画だから。
観たらトラウマが増えるから、それで映画の誘いは断ってるんだよ。
我が家には、寿々花さんの誕生日の時、雛堂にもらった大量の中古ホラー映画DVDがある。
お陰で寿々花さんは、暇さえあれば自宅のテレビでホラー映画を鑑賞している。
「悠理君も一緒に観ようよー」って言われるけど、俺はそそくさとその場を退散し。
掃除とか洗濯とか買い物とか、とにかくテレビの画面は観ないようにしている。
え?ビビり?
うるせぇ。悪いかビビりで。
「え、えっと…。寿々花さん、あ、いえ…寿々花様は、奥にいるので…どうぞ」
「そう。ありがとう」
にこっ、と優しげに微笑む椿姫お嬢様。
小花衣先輩と言い、この人と言い…高貴なお嬢様の微笑みには、それだけで相手を従わせる力があるな。
椿姫お嬢様を、リビングに連れて行くと。
「寿々花さん、あんたにお客さんだぞ」
「…ほぇ?」
声をかけると、スイカジュースのグラスを傾けていた寿々花さんが、ひょいっと顔を上げた。
「ごきげんよう。久し振りね、寿々花」
「…」
久々の、姉妹の再会である。
寿々花さんは、突然現れた自分の姉にも驚くことなく。
相変わらず、ぽやんとした顔で椿姫お嬢様を見つめていた。
…今何考えてるんだろうな?
「何でここにいるのかなぁ」とか思ってそう。
「…何でここにいるの?」
きょとん、と首を傾げて尋ねる寿々花さん。
ほらな。やっぱり俺の思ってた通り。
「お休みが取れたから、一時帰国したのよ。あなたの顔も見ておこうと思って」
「…ふーん…」
「元気そうで良かったわ。変わりなく過ごしてる?」
「変わり…?変わったことはいっぱいあるよ。今は悠理君がいるから」
おい。
そこは、「うん。変わりなく過ごしてるよ」と答えるところだろ。
俺が、寿々花さんの環境を激変させたみたいじゃん。
まぁ…実際そうなのかもしれないけど。
「そうなのね」
にこっと微笑む椿姫お嬢様。さすがのお嬢様然とした貫禄である。
「そうだ、誕生日に送ったテーマパークのチケット、使ってもらったかしら?」
…そういえば。
先日の、一泊二日ハムスターリゾート旅行。
あのとき優待チケットを送ってくれたの、椿姫お嬢様なんだっけ。
妹の誕生日プレゼントに、ハムスターリゾートのホテル付き優待チケットを送ってくれるなんて。
太っ腹だよなぁ。さすが無月院家のお嬢様。
「ハムスターランドのこと?行ったよ」
「そう。楽しかった?」
「うん、楽しかったー」
「誰と一緒に行ったの?学校のお友達?」
あっ…やべ。
寿々花さん、頼むから椿姫お嬢様と話を合わせてくれ。
間違っても、今そこにいる召使いの男と一緒に行きました、なんて、
「ううん。悠理君と一緒に行ったよ」
…そういう機転を利かせてくれる人じゃないよなぁ。寿々花さんは。
分かってたよ。
白状するしかないってことだな。素直に…。
「あら。あなたが一緒に?寿々花と一緒に旅行に行ったの?」
「…本当済みません…」
おめーの為にチケット二枚分も送ったんじゃねーよ、って思ってるだろうな。
てっきり、学校の友人…同性の女友達と行ったものだと思っていただろうに。
まさか、貴重な優待チケットを俺が消費するなんて。
俺だってそのつもりはなかったんだよ。でもいつの間にか、俺が一緒に行くってことで外堀埋められててさぁ。
前日の夜まで、まさか自分が寿々花さんとハムスターリゾート旅行に行くなんて思ってなかったんだから。
「あなたの為にプレゼントした訳じゃないわ」とか、辛辣なことを言われる覚悟はしていた。
しかし椿姫お嬢様は、一瞬驚いた表情をしたものの、すぐにまた微笑を浮かべ。
「良いのよ。楽しんできてもらえたなら良かったわ」
と、答えた。
…果たして、内心ではどう思っているのやら。
つーか、そもそも。
…俺、今すげー邪魔だよな?
久し振りの姉妹の対面に、割り込んでんじゃねーっての。
すぐ去ろう。
あ、そうだその前に…。お茶、淹れるべきだよな?
どうしよう。お茶…。
うち、椿姫お嬢様みたいなかしこまったお客さんに出す、洒落たティーカップなんて置いてないぞ。
こういうときって、お茶…コーヒーとか紅茶を出すべきだよな?
でも、うちのコーヒーはただのインスタントコーヒーだし。
紅茶だって、普通のティーバッグのしかない。
…貧乏臭い家だって思われるだろうなぁ…。
今から買って…きても、もう遅いよな…。
つーか、そんな近所にお高い紅茶の茶葉を売る店なんてねーっての。
そして、根っからの貧乏性である俺は、お高い紅茶の淹れ方なんて知らない。
ついでに、お茶のお供になりそうな、気の利いたお茶菓子もない。
精々、買い溜めしていた市販のお菓子があるだけ。
改めて、自分の育ちの貧しさを思い知らされて、泣けてくる。
良いじゃないか。なぁ?別にこれくらい普通だよ。
椿姫お嬢様や寿々花さんと比べるから、凄く貧しいように思えるだけで。
この人達が異常なんだよ。
それはそれとして、例えティーバッグの紅茶でも良いから、飲み物は出さないといけない。
「えぇと…何か飲みますか?…って言っても、インスタントコーヒーと紅茶のティーバッグくらいしかないんですけど…」
この人、インスタントコーヒーなんか飲んだことあるのかな?
何処ぞの有名ブランドのコーヒー豆を自家焙煎して…みたいな、コーヒー専門店で飲むようなコーヒーしか飲んだことなさそう。
「あぁ、良いのよ。お気遣いなく」
「いや、でも…」
「これ美味しいよ。一緒に飲む?」
と、寿々花さんが口を挟んできた。
寿々花さんの言う、これ、とは勿論。
さっき俺が作った、自家製スイカジュース。
…あんたは、なんてものを自分の姉に勧めようとしてるんだ。
来客にスイカジュースって。しかも椿姫お嬢様みたいな人に。嘘だろ?
「さっきから気になってたわ、それ。何かしら。ベリージュース?アセロラドリンク?」
いいえ、スイカジュースです。
しかも自家製です。…とも言えず。
何だか、凄く貧乏臭い気がしないか?
それなのに寿々花さんは、全く恥じる様子もなく。
「スイカのジュースだよ。さっき悠理君が作ってくれたの」
むしろ、何故か自慢げにそう答えた。
あぁ…言っちゃった。
「スイカ…?スイカのジュース?」
「うん。悠理君の友達がスイカ持ってきてくれて。それを悠理君がジュースにしてくれたの。ね、悠理君」
「…そうだな…」
隠す気ゼロだな、あんたは。何でも。
どうしよう。円城寺みたいに、「スイカなんて貧乏人の子供の食べ物」とか言われたら。
…スイカに失礼だろ。
と、思ったが。
「そうだったの。美味しそうね、是非私にもいただけるかしら」
えっ、マジ?
このお嬢様、随分好奇心が旺盛だ。
高貴なお嬢様の飲み物じゃないだろうになぁ、と思いながら。
それでもリクエストされたので、俺は先程のスイカジュースをグラスに入れ、氷をいくつか入れてから。
「どうぞ…。…えっと、お口に合えば良いんですけど…」
「ありがとう」
椿姫お嬢様の前に、スイカジュースのグラスを置いた。
やっぱり貧乏臭くて飲めないわ、と言われるかと思ったが。
椿姫お嬢様は普通の顔をして、普通にスイカジュースに口をつけた。
…勇気あるなぁ…。
「ね、美味しいでしょ?」
「…ごくん。そうね。スイカの甘さが爽やかで、美味しいわ」
本当に?
本気でそう思ってます?お世辞じゃなくて?
常ににこにこしてるから、その顔の下の真意が読めない。
…あぁ、もう考えるのよそう。
いい加減、俺はこの場を去るよ。
「それじゃ、その…。姉妹水入らずで、ごゆっくり…」
「あれ?悠理君どっか行っちゃうの?」
ちょ、黙って立ち去らせてくれよ。
「じ、自分の部屋に戻ってるだけだよ」
しばらくしたら戻ってくるから。
「何か用事があったら呼んでください。それじゃ」
強引に話を終わらせ、くるりと踵を返し。
椿姫お嬢様と寿々花さんを置いて、俺は急いでリビングから出ていった。
…はぁ。やっと一息つける。
自分の部屋に逃げ帰ってきたものの。
…何だか落ち着かない。
何喋ってんだろうなぁ…今頃。
勿論、寿々花さんと椿姫お嬢様のことだ。
姉妹水入らずの会話を邪推するなんて、我ながら下衆なことしてるな。
でも、やっぱり気になるだろう?
俺には兄弟がいないから、久し振りに会った兄弟姉妹と、一般的にどんな会話をするものなのか分からない。
お互い、近況報告とかするんだろうか。
それとも、そういう堅苦しい話は無しで、普通に世間話に花を咲かせるのだろうか。
そもそも、寿々花さんと椿姫お嬢様姉妹が、どれほど仲が良いのか分からない。
姉妹仲が良ければ、自然と、そこそこ砕けた話をするだろう?
まぁ…こうして休みを利用して、わざわざ妹の家を訪ねてくるくらいだからな。
姉妹仲が悪いってことはないだろうが。
どんな話しをするんだろうなぁ…。女同士で。
よく言うじゃん?近所の奥さん方が井戸端会議で話すことと言ったら、亭主の悪口が相場と決まっている。
それと同じで、今頃寿々花さん達も、俺の悪口で盛り上がってんのかな…。
…ま、別に良いけど。
俺に直接言われるんじゃないから。良いよ別に。
元気にしてた?とか、学校はどう?とか話してるんだろうな。
当然、春から一緒に暮らし始めた俺のことも話題に上がってるはずだ。
果たして、どんな悪口で盛り上がっているのやら…。
どんな悪口でも良いけど、くれぐれも余計なことは言わないでくれよ。寿々花さん。
余計なことというのは、つまり…その、誤解を招きそうなことだよ。
いかにも言いそうだろ?寿々花さんは。
それだけはやめてくれよ…。あくまで普通に、一緒に暮らしてるだけだって言ってくれよ?
…。
…考え出すと落ち着かないから、出来るだけ考えないようにしよう。
…小一時間ほど経った後。
椿姫お嬢様がお帰りになると言うので、寿々花さんと一緒に玄関先まで見送った。
意外と早かったな。
もう一、二時間ゆっくり話していけば良いものを。
折角会いに来たんだから。
まだまだ積もる話もあるだろうに。…俺の悪口とか?
「もう良いんですか?折角姉妹二人きりで…」
と、俺は言ったのだが。
「えぇ。名残惜しいのだけど…残念ながら、あまりゆっくりも出来ないの。実家にも顔を出さないといけないし」
実家…と言えば、無月院本家のことか。
そうだな。…寿々花さんと違って、椿姫お嬢様は…。
「また会いに来るわ。元気でね、寿々花」
「うん。ばいばーい」
非常に軽いノリの挨拶である。
もっとないのか。あんたは。言うべきことが他に。
「それから、星見悠理さん。あなたも」
「は、はいっ?」
いきなり俺に話を振られて、びっくりした。
「ちょっと変わった子だけど、妹のことをくれぐれも宜しくね」
「は…はい…」
ちょっと…どころじゃない気もするが。
宜しくされてしまったから、宜しく面倒見るよ。
「…あぁ、そうだ。忘れるところだった…。お土産を持ってきてたのよ。ほら」
と言って、椿姫お嬢様はフランス土産の入った紙袋を、寿々花さんに手渡した。
「二人で食べて。フランスの有名なお店のマカロンと紅茶よ」
へー。お洒落。
そういや、円城寺もイギリス土産に紅茶を買ってきたよな…。
金持ちのお坊ちゃんお嬢さんは、お土産に紅茶を買うのがデフォなのだろうか。
それなのに俺と来たら、市販のティーバッグどころか、手作りのスイカジュースでおもてなしをしてしまった。
うーん。我ながらダサい。
「わーい、ありがとうお姉様。冷蔵庫に入れてこよーっと」
お土産の紙袋を受け取って、キッチンに戻っていく寿々花さん。
おいおい。見送りはどうしたよ、見送りは。
「…星見悠理さん」
「は、はい?」
突然椿姫お嬢様に名前を呼ばれて、ビクッとした。
さっきから俺、挙動不審過ぎるだろ。
これまで、ろくに身分の高い人と接してこなかったツケが…。
何だ。何を言われるんだ?
「うちの妹に、貧乏臭い生活をさせないでちょうだい」とか言って怒られるのだろうか。
それは素直に申し訳ない。
如何せん俺が貧乏性なものだから、ついこういう生活スタイルに…。
しかし、椿姫お嬢様は俺を責めようとしているのではなかった。
むしろ…。
「ありがとうね。いつも妹と仲良くしてくれて」
まるで、娘の友達に挨拶するかのよう。
「あなたと一緒に暮らすようになってから、あの子、いつもあなたの話ばかりして…。さっきも、ずっとあなたのことを話してたのよ」
…マジっすか?
俺の悪口で盛り上がってんのかなと邪推していたら、まさか本当にそうだったとは。
…いや、悪口かどうかは分からないけどさ。
「あなたと一緒に暮らすのが、楽しくて仕方ないんでしょうね」
「そ…そう、ですか」
俺…何も特別なことはしてないつもりなんだけど。
そう褒められると、むず痒いって言うか…。
別に大したことしてないのに、そんなに褒められて良いんだろうかって思う。
…どうやら椿姫お嬢様は、円城寺と違って。
身分違いの俺を、馬鹿にしたり見下したりはしないようだ。
少なくとも、そういう態度を表には出さない。
さすがの懐の深さと言ったところか。
「妹を笑顔にしてくれて、本当にありがとう。これからも一緒にいてあげてちょうだいね」
「は、はい…」
「…それにしても、妹があんまり褒めるから、私も気になってきたわ。あなたと一緒に暮らすの、きっととても楽しいんでしょうね」
うふふ、とばかりに微笑んで言う椿姫お嬢様。
…え?冗談だよな?
何かのフラグとかじゃないよな?
俺は椿姫お嬢様と一緒に暮らすのは御免だぞ。
椿姫お嬢様が嫌いって訳じゃない。
こんな身分の高い人と一緒に暮らしたら、四六時中気を遣わなきゃならないじゃないか。
…え?寿々花さんには気を遣わないで良いのかって?
寿々花さんは、まぁ…なんだ、もう慣れた。
今なら、寿々花さんが横に座ってても気にせず、コーラ飲みながら雑誌を読める。…くらいには、気を許している。
そういう意味では、お互い様ってことなのかもしれないな。
「あぁ、そうだ。これ、私の連絡先よ。一応渡しておくわね」
と言って、椿姫お嬢様は電話番号とメールアドレスが書かれた、名刺みたいなカードを手渡した。
椿姫お嬢様の連絡先だと?
こんなもの、俺がもらうのはあまりに畏れ多いのだが?
しかし、「要りません」と突き返すことも出来ず。
そんなことしたら、余計失礼だろ。
「ど、どうも…」
「何かあったら連絡してちょうだいね。向こうは時差があるから、返事が遅れるかもしれないけど」
…フランスって、時差何時間なんだ?
心配しなくても、俺が椿姫お嬢様に連絡することなんかないって。
…多分。
「それじゃあ、またね。妹をお願いね」
「は、はい…。えぇと、見送りを…」
「ここで良いわ。ありがとう」
…本当に良いのか?こんな玄関先で。
椿姫お嬢様は、にこやかに手を振って帰っていった。
…やれやれ。
…何だか今日は、妙に長い一日だった気がするよ。
明日こそは、インターホンが鳴っても全部無視しよう。
椿姫お嬢様を見送って、リビングに戻ると。
「悠理君、悠理君。お土産食べよー」
早速寿々花お嬢さんが、もらったばかりのフランス土産を開けようとしていた。
マカロンと…紅茶だっけ?
「良いけど…。ちょっと待ってくれ。準備するから」
「うん、分かったー」
…。
…いつも通り、けろっとしてんな。寿々花さん。
ついさっきまで、実の姉に会っていたというのに…。
「なぁ、寿々花さん」
「なーに?」
「良かったな。久々に姉さんに会えて。楽しかったか?」
そう尋ねると、寿々花さんはきょとんとして。
「…どうだろう?うーん。でも確かに、会うの久し振りだったなー。いつものお姉様だった」
…意外と淡白な返事だな。
椿姫お嬢様の方は、寿々花さんに会えて嬉しそうだったが…。
「椿姫お姉様は変わってなかったけど、私は変わったねって、何度も言われた」
「そうか」
「それはきっと悠理君のお陰だね。私、悠理君のこと大好きだから、一緒にいるだけで元気になるんだって言った」
へぇー。
やっぱり、案の定話を盛ってた訳だな?
あんたは、何でも大袈裟に言い過ぎなんだよ。
椿姫お嬢様にまで誤解されたらどうするんだ?
「…ちなみに、他にどんな話してたんだ?」
聞くまいと思ってたけど、やっぱり気になる。
俺の悪口で盛り上がってたのか?
「どんな…?うーん。誕生日の時のこと聞かれたから、悠理君とハムスターランドに行って楽しかったよ、とか。ピザが美味しかったとか、ジェットコースターで悠理君が腰を抜かしてたとか…」
そういう余計なことは言わなくて良いんだよ。
「悠理君がオムライスに旗を立ててくれたんだよ、とか。一緒に水族館に行ったんだよ、とか」
オムライスに国旗…はともかく。
水族館は…まさか深海魚水族館だとは、椿姫お嬢様も思ってなかっただろうな。
「最近は、一緒にお化け屋敷に行ったって言った。悠理君が喉ガラガラになるまで叫んでたんだよって」
だから、余計なことまで言わなくて良いんだって。
俺、多分椿姫お嬢様に、すげービビリだと思われてるだろうなぁ…。
「あと、皆で一緒にたこ焼きパーティーもしたんだよって」
あぁ。ごく最近の出来事だな。
「とにかく毎日楽しいんだって言った。悠理君のお陰だね」
「そうか…」
…悪口で盛り上がってた…ってことはなさそうだな。良かった。
逆に、褒めちぎられてむず痒いんだが。
果たして椿姫お嬢様は、妹の新たな婚約者と初めて会って、どのような感想を抱いたのやら…。
椿姫お嬢様はにこやかに微笑んでいるだけで、その笑顔の裏にある真意のほどは分からない。
でも、少しでも良い印象を与えられた…と思いたい。
…って、何考えてるんだか。俺は。
これじゃ、姑に認めてもらおうとしてる若い新妻みたいじゃないか。
認められようと認められまいと、婚約を決めたのは無月院本家のご当主様。
椿姫お嬢様と寿々花さんのお祖父さんなんだから。
俺にも寿々花さんにも、口を挟む権利はないっての。