「だから悠理君、お願い。私に、悠理君のレポートを書かせて」
寿々花さんに、拝むようにして頼まれてしまった。
「…」
ストーカー行為に、弁解の余地はないが。
寿々花さんに悪意はない。むしろ、真面目に勤勉に、彼女なりに真剣に課題に取り組もうとしていたのだ。
レポートの提出期限は来週。しかも、驚異のレポート用紙20枚分。
さぞや大変な課題だろう。
今週末にでも書き始めないと、もう間に合わないはずだ。
…また、外堀を埋めてきたな。
ここで俺が断ったら、寿々花さんのここまでの色々な努力がパー。
おまけに、期限までにレポートを提出することも出来ず。
成績を落とす、ひいては生物の単位を落とすことにも繋がりかねない。
それは、学校1の秀才である寿々花さんの評価に、大きな傷をつけることである。
そんなの、寿々花さんも、俺も、望むところではない。
よってここは、俺が首を縦に振ることで、寿々花さんの課題を手助け…、
…する訳ねーだろ。ふざけんな。
「却下だ」
「がーんっ!」
それとこれとは話が別だ。さっき言ったろうが。
え?鬼?
そこは許すところだろう、って?
ふざけんな。
じゃあ、あんたが丸一日小型カメラを仕掛けられて、盗聴器までつけられて。
家の中でも、四六時中付き纏われて観察記録をつけられてみろよ。
ノイローゼになるぞ。
それだけでも不快感マックスなのに、ましてやそれを文章に起こして。
20枚分のレポートにされ、生物の先生に見られるんだぞ?
自分の一日の活動記録、言動の全て。
寝返りを打った回数から、授業中にあくびをした回数まで。全部だぞ。
冗談じゃない。
そんなレポートを、この世に誕生させてたまるか。
それで寿々花さんがレポートを提出出来なくても、それは俺の知ったことではない。
己の愚かさを恨んでくれ。
「そ、そんな…。悠理君なら許してくれると思ったのに…」
絶望の表情になる寿々花さん。
そうか。信頼してくれてたんだな。ありがとう。
でも、なんか買い被ってたみたいだけど、俺はこんなもんだぞ。
「いくら俺でも、許せることと許せないことってもんがあるからな」
菩薩とか仏の類じゃないんで。俺。
嫌なことは嫌だし、駄目なものは駄目って言うぞ。普通に。
悪かったな。
「それじゃ…レポート、どうしよう…」
「…」
「来週が提出期限なのに…。今からテーマを変えるなんて…」
「…」
…意識的なのか無意識なのか知らないけど。
俺の罪悪感を煽ってくるの、やめてくれないか?
俺のせいじゃないから。いや、寿々花さんの当初の予定を崩したのは俺のせいだけど。
しかし、寿々花さんがレポートを完成させられなかったら、それは俺にも責任がある…ってことになる。
俺が邪魔したんだから。まぁ不可抗力というものだが。
だから…。
「テーマを変えるなら、俺に出来ること、何でも協力するよ」
ここは、俺が一肌脱ぐことにしよう。
寿々花さんの当初のレポート計画を白紙にした、その責任は取らないとな。
それに何より、寿々花さんが落ちこんでる姿は見たくない。
それが理由。一番の動機だ。
「…!悠理君、協力してくれるの?」
「あぁ。良いよ」
盗撮や盗聴には協力出来ないけど。
それ以外の、犯罪以外の協力なら何でもするよ。
幸い、今のところ男子部では、どの科目でも宿題は出てないし。
時間ならある。
「悠理君…。悠理君はやっぱり優しかった…」
「そ、そんな大袈裟な…。それより、早く新しいテーマを決めてくれ」
呑気にしてる時間はないからな。
急いで新しいテーマを決めて、その為に資料を集め、
「じゃあ、そうだな…。悠理君の人生遍歴、ってテーマで」
「ふざけんな。いい加減俺から離れろ」
そういう意味で言ってんじゃねーよ。
「何でいちいち俺なんだよ?他にもっとあるだろ」
「だって、好きな生き物について書くように言われたから…。私の一番好きな人って言ったら、悠理君なんだもん」
寿々花さんの中で俺って、「生き物」扱いなの?
違うんだよ、寿々花さん。確かに人間も生き物だけど、生物科目のテーマにするにはもっと…。
よし、こうなったらテーマは俺が決めてやる。
…と言っても、そんなに悩んでる時間もないもんな。
今すぐに…簡単に決められそうなテーマ…。
「…えーと…」
何かないか。何か。
俺は部屋の中をぐるりと見渡し、ヒントになりそうなものがないかを探した。
何でも良いんだ。この際俺以外だったら、もう何でも良い。
考えてる時間も惜しいから、何でも良いから早く決めなくては。
しかし、そんなに都合良く、家の中に自由研究のテーマになりそうなものなんて、
と、思ったその時。
「あっ…」
俺の目に入ったのは、ソファの上に放り出していたクッション。
そう、昨日雛堂からもらったばかりの、ハズレ福袋のお裾分け。
マイタケのクッションである。
これだ。
指をぱちんと鳴らしたい気分だった。
残念ながら俺は不器用だから、指パッチン出来ないけど。
「あれだ、寿々花さん。あれを研究テーマにしよう」
「ふぇ?あれって?」
「あれだよ、ほら。キノコのクッション」
キノコ。菌類も生き物のうちに入る…のか?
入るだろ?入るってことにしてくれ頼むから。
植物みたいなもんだし。良いだろ。
「クッション…?クッションは生き物じゃないよ、悠理君」
ずっこけるかと思った。
「違う、逆。クッションじゃなくてキノコに着目してくれ。キノコの研究レポートを書くんだよ」
「あ、成程。そういうことかー」
言わなくても理解してくれよ、それくらい。
「どうだ?良いと思わないか」
「うん、良いよー。悠理君が一緒に手伝ってくれるなら、何でも良い」
良かった。
じゃ、テーマはこれで決まりだな。
ガラクタを押し付けてきやがって、雛堂の奴、と思ってたけど。
意外なところで役に立ったな。
世の中、何がどんなきっかけで、どんな風に繋がるか分からないもんだ。
ともあれ、今回ばかりは助かった。
これで、研究テーマには困らない。
…とはいえ、俺達はまだスタートラインに立っただけだ。
テーマが決まっただけじゃ、どうにもならない。
ここからこのテーマについて、レポートを20枚も書かなければならないのだから。
本当に大変なのは、ここからだ。
…改めて、改めて考えてみる。
キノコについて。
…唐突に、日常生活で、インタビューみたいに。
キノコについて知っていることを挙げよ、と言われたら、なんて答える?
…やべぇ。俺、「食べたら美味しいです」くらいしか言えないと思う。
シイタケ…美味いよな。
…って、それじゃあレポートにはならないんだってば。
キノコの美味しさについてレポート20枚も語ってたら、それはもう生物の研究レポートじゃない。
ただの食レポじゃん。
他に…キノコについて知ってること…。
「…寿々花さん、キノコについて何か知ってる?」
「私、キノコ嫌い」
「…そうだった…」
身も蓋もない。
キノコ嫌いな人に、キノコについて知ってることを尋ねた俺が馬鹿だった。
つーか、キノコ嫌いだって言ってるのに、これを研究テーマにして良いのか?
またテーマを変えるか…?
いや、無駄だな。
今更またテーマを変えても、今と同じことをループするだけ。
結局知らないことだらけなんだから、レポートにするには、それなりに調べなきゃならない。
問題は、研究テーマをどうするかではなく。
如何にして、その研究テーマを調べるかだ。
…って、何で俺が他人の課題を、こんなに真剣に考えてるんだ?
既に寿々花さんの課題じゃなくて、俺の課題と化してる。
あぁ、もう気にするな。そんなことは。
「調べ物と言えば…やっぱり…図書館に行くしかないよな」
新校舎の、あの大きな図書館に行けば。
キノコについての本、なんてのも置いてあるんじゃね?多分。
そこで、ありったけキノコに関する資料を調べて…。
「でも、図書館で本を探して、読んでる暇があるかな?」
「あ、そうか…」
普通の調べ物ならそれで良いけど、今回は時間がないからな。
悠長に文献を探して、ましてやそれを熟読している時間はない。
一冊二冊なら、手分けすれば読めるかもしれないが。
それ以上になると、とても手に負えない。時間がない。
もっと手っ取り早い手段が必要だ。
え?急がば回れだろうがって?
急いで遠回りしても、ゆっくり真っ直ぐ走っても、時間外にゴール出来なかったら意味ないんだよ。
だったら、せめて出来るだけ急いだ方が良いだろ。
「こんな時の為に、文明の利器…ネットで調べる、という方法を取りたいところだが…」
「ねっと?」
「パソコンで調べるんだよ」
最終奥義、ウィキ●ディア丸写し。
でも、これは諸刃の剣である。
提出期限には間に合うと思うけど、後でバレた時に、それ以上に恐ろしいことになる。
よって、この方法は排除だな…。
他に、何か良い方法がないだろうか。
すると、寿々花さんが。
「ねぇねぇ、悠理君。本で調べるより、実際に目で見た方が早いんじゃないかな?」
と、提案した。
…実際に、目で見る?本で調べるんじゃなくて?
それは…まぁ。
「百聞は一見に如かず…って言うもんな…」
「でしょー?」
その理屈は理解出来る。
短い時間で乏しい文献を調べるよりも、実際に目で見て書いたレポートの方が、遥かに実りのある内容になるだろう。
でも…どうやって実物を見れば良い?
…スーパーでエリンギでも買ってこようか?
それとも、公園の木の根元を片っ端から確認して、野生のキノコを探すか?
どっちにしても、それで良いレポートが書けるとは思えないが…。
「具体的には…どんな方法を使うんだ?」
「そうだなー…。…うーん…。…あ、そうだ」
ん?
「前に、一緒に水族館に行ったでしょ?」
水族館?
…って、もしかして。
「深海魚水族館のことか…?」
「うん。面白いお魚さんがたくさんいたよねー」
面白いか?あれ。
未だにトラウマになりそうな、気色悪い生き物ばっかいたけど。
「今度は深海魚じゃなくて、あれの、キノコ水族館…じゃなくて、キノコ族館みたいなの、ないかな?」
何だと?
考えてみたこともなかったが…。
「…それを言うなら、キノコ博物館じゃね?」
「そうそう。そんな場所が近くにないかなー?」
いや、そんな都合良くある訳ねーだろ。
聞いたことあるか?キノコ博物館なんて。
「さすがに無理だろ…」
「世の中に絶対はないと思うよ?」
何?その自信。
まぁなんだ。あれだよ。
深海魚水族館だの、爬虫類の館だのが存在する世界だからな。
中には、キノコ博物館だってあってもおかしくないかもしれないけど…。
だからって、そんな都合良く…。
「…」
でも、寿々花さんは至って真剣なご様子。
…じゃあ、まぁ一応調べてみるか。
別にキノコ博物館じゃなくても…。植物園?みたいな場所があれば、そこにキノコも展示してあるかもしれないし。
調べるだけならタダだ。
俺はスマホを取り出して、ポチポチと調べ始めた。
えーと、あの施設の名前は確か…。
「『見聞広がるワールド』…『キノコ』…で検索して…」
「…どう?見つかった?」
いやいや。やっぱりそんなのある訳、
「…あったわ」
「わーい。やったー」
驚くなかれ。マジである。
検索画面のトップに、「見聞広がるワールド キノコ博物館ホームページ」ってのが出てきた。
嘘だろ。マジであるのかよ。
恐る恐る、ホームページをタップして開いてみた。
「へぇ…。すげぇ、この施設、先月開館したばっかりだってよ」
「わー。出来立てほやほやだね」
ホームページを見たところ。
『見聞広がるワールド、待望の新館オープン!皆様のご来館をお待ちしております』だってよ。
ホームページには、ありとあらゆるキノコの写真が掲載されていた。
すげー…。マジであった…。
キノコ博物館というだけあって、古今東西、たくさんの種類のキノコが展示してあるんだそうだ。
へぇー…。
しかも、まだ開館したばかり…。これは運命なのか?奇跡なのか?日頃の行いなのか?
とにかく凄い。今の俺達にとっては、喉から手が出るほどお誂え向きの施設である。
つーか、こんな言い方したら悪いけどさ。
…この施設、需要ってあんの?
「キノコの博物館?行こう!」って思う人が、全国にどれくらいいるのか。
余程キノコが大好きな人か、キノコ学者くらいしか興味ねぇんじゃないの。
まぁ、同じくらい需要のなさそうな深海魚水族館にも、一定の需要があるみたいだし。
この「見聞広がるワールド」関連の施設、爬虫類や深海魚に続き、キノコ博物館まで開館するくらいだから。
多分、それなりに儲かってるんだろう。とても儲かってるとは思えないが。
変な施設ばっか。
でも、この変な施設だからこそ、需要があるんだろう。
普通の動物園や水族館じゃ、何処にでもあるって言うか…見飽きてるって言うか…定番過ぎてつまらないって言うか。
一風変わった、目新しい施設の方が興味を惹かれる…ってことなんだろう。
…ともあれ。
「今の俺達にとっては、願ったり叶ったりだな…」
「でも、その施設って何処にあるの?」
「あ、そうだ。場所…」
飛行機の距離だったら、さすがに無理だぞ。
新幹線の距離くらいだったら、この際、プチ旅行感覚で行くけど。
出来れば近場で…と思いながら、ホームページのアクセスをタップ。
えぇと、この住所なら…。
「遠い?…飛行機?飛行機で行く?」
「いや…。…結構近いぞ」
「おー。凄い偶然だねー」
偶然で済ませて良い問題か?これが。
さすがに、爬虫類の館や深海魚水族館ほど近くではないが。
これくらいの距離なら、飛行機どころか、新幹線も必要ない。
電車で充分行ける距離。
こんなに都合の良いことってある?
なんつーか、今年一年分の運を使い果たしてる気がする。
俺達、二人しておみくじ「凶」と「大凶」だったのに。
今年始まったばかりで、早速この強運。
な?おみくじなんて当てにならないだろ?
こういうことがあるからさぁ。
じゃあ、まぁ、なんだ。
こうなったらもう、運命がお膳立てしてくれてるようなもんだ。
「…行くか。今週末、早速」
「やったー。行こー」
いざ、開館したばかりの『見聞広がるワールド キノコ博物館』へ。
星見悠理の行動活動記録より、余程生物のレポートらしいじゃないか。
迎えた週末。
今日は生憎、大晦日の時を彷彿とさせる、特別に寒い日だった。
雪でも降りそうな、重く分厚い灰色の雲が空を覆っている。
テンション上がらない天気だなぁ。
こんな日は家にこもって、コタツでみかんでも食べながらゆっくり過ごしたいものだ。
が、そういう訳にはいかない。
今週中に寿々花さんの生物の課題レポートを仕上げなくては、提出日に間に合わない。
今となっては最早、あのレポート課題は寿々花さんのものだけではない。
俺の課題でもあるのだ。
…何でこうなったんだろうな?もう意味分かんねぇよ。
考えまい。考えたら負けだ。
それなのに、寿々花さんと来たら呑気なもので。
「悠理君とー♪お出掛けー♪」
嬉しそうに、自作の歌を口ずさんでいらっしゃる。
お出掛けって言っても、行き先、キノコ博物館だからな?
全然楽しそうに思えない。
「悠理くーん。支度出来たよ、行こー」
「おぉ。じゃあ出発…って、何でそのコート着てんだよあんたは」
「ふぇ?」
あろうことか寿々花さんは、また「女番長」コートを着用していた。
まだ持ってたのかそれ。正月に新しいコート、買いに行っただろうが。そっちを着ろよ。
気に入ってるのか。まさかそれ気に入ってるのか?
でも、俺は女番長の隣を歩くのは嫌だからな。
「着替えてこい。新しい方に」
「やっぱり?どっちにしようかなーと思ったんだけど、折角悠理君が選んでくれたコート、着るの勿体なくて」
着ない方が勿体ないだろ。
「でも悠理君がそう言うなら、着替えてくるー」
はい、行ってらっしゃい。
着替えて戻ってきた寿々花さんは、この間俺が選んだ、可愛らしいリボン付きのコートだった。
うん、やっぱりそっちの方が良いって。
「どう?悠理君。似合う?」
「あぁ…似合ってるよ」
さっきの女番長より、そっちの方がずっと良いって。
つーか、あの女番長コートはもう捨てなさい。
「やったー。悠理君に可愛いって言われちゃったー」
くるくるして喜んでいらっしゃる。
喜んでるところ悪いけど、似合うとは言ったが、可愛いとは言ってない。
そりゃ可愛いかと聞かれたら、可愛いけども。
ったく、相変わらず幼稚園児みたいな…。
ちゃんと引率しないとな。責任持って。
「ほら。電車、乗り遅れるぞ。早く行くぞ」
「うん。いってきまーす」
はいはい、行ってきます。
いざ、キノコ博物館に出発。
電車に乗る為に、まずは駅に向かう。
平日ほどじゃないと思っていたが、土曜日でも、さすがに朝の混み合う時間はやはり、乗客が多かった。
座るところ、あるかな?
『見聞広がるワールド キノコ博物館』の場所は、ここから電車で一時間近くかかる。
一時間立ちっぱなしは、さすがに足が痛くなるかも。
俺は別に良いんだけど。旧校舎まで毎日、急な登り坂を歩いて、足腰鍛えられてるから。
問題は、一緒にいる寿々花さん。
「電車ー♪がったんごっとん〜」
電車だけで、この喜びようよ。
マジで幼稚園児。
立たせておいたら、危うくその場にすっ転びかねない。
寿々花さんだけでも、座るところがあれば…。
混み合う車内を、きょろきょろと見渡すと。
「おっ…。あそこ、空いてるぞ」
丁度窓際の席が、一人分だけ空いていた。
「寿々花さん、あそこ座れよ」
「ほぇ?でも悠理君が座れないよ」
「俺は良いんだよ」
隣で。吊り革持って立ってるから。
寿々花さんは座っててくれないと、いつ転ぶか分かったもんじゃない。
「でも、それじゃ悠理君が疲れちゃうよ」
「大丈夫、大丈夫。良いから座ってくれ」
「うん、分かった。ありがとー」
ちょこん、と着席する寿々花さん。
よし。これで一安心。
寿々花さんが着席するのをまっていたかのように、電車が動き出した。
「わー。動いてる動いてる。速いねー」
電車乗ったの生まれて初めてですか?ってくらいはしゃいでる。
初めてじゃねーだろ。電車の中では静かにしなさい。
飲食、おしゃべりは控えめに。電車のルールだろ。
「寿々花さん、声は小さくな」
「はっ、そうか…。そうだった。じゃあ…」
寿々花さんは大袈裟なくらい険しい顔で、口を真一文字に結び。
両手を素早く動かして、手話で話しかけてきた。
成程、考えたな。手話で喋れば、周囲の乗客に迷惑はかからない。
寿々花さんなりの気遣いなんだろうな。うん。
でもごめんな。
俺、手話全ッ然分からないんだわ。
一生懸命、何かを伝えてくれようとしてるのは分かるんだけど。
さっぱり伝わってない。
分かんねーよ、手話なんて。
「…」
一生懸命手話で話をしようとしているのに、俺が全く無反応なものだから、寿々花さんも困り顔。
本当申し訳ない。
「…悠理君、私とおしゃべりしたくないの?」
「違うよ。手話が分からないだけだ」
むしろ、何であんたは手話知ってるんだ?
英語もフランス語もペラペラ、イタリア語もそこそこ喋れる、更に手話まで会得しているとは。
無駄なポテンシャルの高さを発揮していく。
「あのな、お口チャックしろとまでは言ってないから。小さい声でなら喋って良いんだぞ」
周りの迷惑にならない程度にな。
「で、さっき手話でなんて言ってたんだ?」
「あのね、途中で交代しよって」
交代?
「ずっと立ちっぱなしだと、足が疲れるでしょ?だから、半分まで行ったら交代して座ろうねって言ってたの。それなら、悠理君も疲れないよ」
今の、そんなこと言ってたのか。手話で。
器用な人だなぁ…。
「はいはい、分かった。ありがとうな。じゃ、途中で交代で」
「うん、そうしよー」
とは言ったものの、交代するつもり無いけど。
ずっと座っとけ。
…が、幸いなことに。
それから15分後くらいに、丁度寿々花さんの隣に座っていた人が降りて、席が空いたので、そこに座った。
これって、結果オーライって奴?
寿々花さんの、手話の才能に感心しながら電車に乗り。
一時間かけて、キノコ博物館の最寄り駅に到着。
土曜日なだけあって、私服姿の若い買い物客が大勢。
多分、これからショッピングや映画館などに出掛けるのだろう。
俺達くらいのもんだよ。これからキノコ見に行こうとしてんのは。
「悠理君、ここからどうやって行くの?歩くの?バスで行く?」
「えーと…。バスで行けるけど、歩いていけなくもない。片道30分くらいだって」
片道30分…。往復だと一時間だから、結構疲れそうだな。
既に一時間、電車に乗ってきた訳だし…。
「疲れるだろ。バスで行くか?」
「ううん、悠理君と一緒ならいつまででも、何処まででも一緒に歩いていけるよ、私」
何?その自信。
よく分からないけど、歩いていくってことで良いんだな?
よし、分かった。
じゃあ、とりあえず行きは歩こうか。
帰りは、疲れてたらバスに乗れば良いや。その時考えよう。
「えーと、アプリで道案内を…。…駅北口から真っ直ぐ…だから、こっちだな。よし、行くぞ」
「おー!」
謎に張り切る寿々花さんと共に、キノコ博物館に向かって歩き始めた。
迷わず辿り着けると良いんだが。如何せん、土地勘がない場所だから。
…しかし、そんな俺の心配は杞憂に終わり。
30分後、俺達は無事に『見聞広がるワールド キノコ博物館』に到着した。