アンハッピー・ウエディング〜後編〜

…えー。

此処から先は、諸事情によりお見せ出来ません。

…。

…。

…チビっ子達が、ギャン泣きで出てきた理由が分かったよ。

恥と体面がなかったら、俺だって泣き出したかったっての。

でもかろうじて、寿々花さんと繋いだ手は離さなかったぞ。

俺の唯一のプライドだけは守り切った。

ただ、その他のプライドは守れなかった。

「はー。面白かったねー、悠理君」

「…」

「あれ?悠理君大丈夫?何だか青い顔してるよ」

「…そうだな…」

そりゃ、真っ青にもなるだろ。

死ぬかと思った。

比喩じゃなくて本当に、心臓止まって死ぬかと思った瞬間が何度もあった。

聞いてねぇよ、こんな恐ろしいお化け屋敷だったなんて。

何度悲鳴を上げたか分からない。喉カラッカラで痛いんだけど。

思い出しただけで身の毛がよだつ。

男である俺が、こんなに情けない姿を晒しているのに。

「おばけがいっぱいだったね。楽しかったー」

寿々花さんは目をキラキラさせて、余裕の表情。

…あんたは、何かに怯えるとか怖がるとか、そういうことはあるのか?

楽しかった、だってよ。聞いてるか?円城寺。

俺は頭の中で、寿々花さんの元婚約者のことを思い出した。

うちの寿々花さんは、高尚なオペラじゃなくて、化け物が出てくるお化け屋敷の方が良いんだってさ。

だから寿々花さんを満足させたかったら、あんたもこうやって、恐怖のお化け屋敷に付き合うんだな。

俺はやり遂げたぞ。相当ダメージは深かったが、しかし寿々花さんを楽しませ、満足させることが出来た。

相当ダメージは深かったがな。

…すると。

「お?出口だ。終わったな」

「短いように見えて、意外と長かったですね。まるで人生のようです」

後攻組の雛堂と乙無が、出口から出てきた。

おぉ、あんたら…。存在忘れてたよ。無事だったか?

俺みたいにげっそりした様子はないから、二人は俺より余裕だったみたいだな。

「あんたら…怖くなかったのか?」

「僕は全く。全部子供騙しです。人間の罪の方が余程恐ろしいですね」

乙無は余裕。

一方の雛堂はというと。

「いや、普通に怖かったんだけどさ…。逐一前の方から星見の兄さんの悲鳴が聞こえてきて、『あーこの辺に何がいるんだな』って分かっちゃって…」

「…」

「なんか、純粋に楽しめなかった気がするよ」

…そうか。

ごめんな、俺のせいで。

順番、逆にすれば良かったな。

まさかこんな恐ろしい場所だとも知らず…。

「悠理君、青くなっちゃってる」

「星見の兄さんのダメージが深刻だな」

「声、ガラガラになってますけど大丈夫ですか?」

それどころか腰が抜けてるよ。

情けなっ…。ほんっと、情けなっ…。

恐怖よりも、自分の情けなさに涙が出そう。
四人でお化け屋敷に入って、腰抜かして半泣きになってるの、俺だけかよ。

本当情けない。 

ここは嘘でも良いから、虚勢を張っておきたかった。

が、そのような気力もなく。

休憩と、叫び過ぎてがガラガラになった喉を癒やす為に、俺達はデパートのカフェに立ち寄った。

「悠理君、大丈夫?私のオレンジジュース飲む?」

「…大丈夫…」

冷たいアイスコーヒーで喉を潤す。

叫びまくった喉に、アイスコーヒーが滲みるよ。 

あー情けない。

こういう言い方するのは失礼だけどさ。

女性の悲鳴は、まだ聞くに堪えられる。

しかし、男の悲鳴ほど情けなく、聞くに堪えないものはないと思うんだよ。

ましてや、女性である寿々花さんは全く怯えてなくて、何が出てきても「わー」って棒読みで呟いてるだけなのに。

隣で俺だけガチ悲鳴って、そんな情けないことある?

それなのに、寿々花さんは情けない俺を笑うことはなく。

「悠理君、元気出して。私のパフェ食べて良いよ」

むしろ気を遣って、パフェを勧めてくれた。

ありがとうな。

でも、優しくされるとむしろ、自分の情けなさが身に滲みるんだわ。

「笑い飛ばして良いんだぞ。この腰抜け、って…」

いっそ、そうしてくれた方が気持ちが楽まである。

しかし。

「何で?悠理君、ちゃんと腰ついてるよ」

いや、そういうことじゃなくてな…。

「大丈夫だって、星見の兄さん。半泣きで腰抜かしてるの、兄さんだけじゃないじゃん」

「他の客は泣き喚いたり、腰が砕けて立てなくなってる人もいましたからね。それに比べたら、悠理さんはまだマシでは?」

「そうそう。叫びまくってたけど、何とか逃げずにゴール出来たもんな」

雛堂と乙無にも慰められた。

友人達の優しさが心に滲みるようだ。

「それに、自分も結構ビビったぞ。特に、あの手術台に寝そべってた…」

「あぁぁ、もう言うな。思い出させるな」

トラウマになるだろ。

何とか思い出さないように、必死に気を逸らしてるんだよ。俺は。

「あと、霊安室のアレもヤバかっ…」

「言うなって言ってるだろ、馬鹿」

あれは夢に出てくるレベル。

誰だよ、あんな演出考えた奴。絶対ろくな趣味してないって。

「いやー、楽しかったな。お化け屋敷に行って、帰りにこうしてカフェでアイス食べてさー」

と、雛堂はご満悦。

良い気なもんだ。お陰で、俺はトラウマを増やしたっていうのに。

「しかも、何だかんだ女子と一緒に過ごせたし。夏っぽいこと最高だな!」

「その女子は悠理さんのフィアンセだから、完全に脈なしなんですけどね」

という、乙無のツッコミはスルー。

「…?みゃくなし?死んでるの?」

「…こいつらの言うことは、適当にスルーして良いんだぞ、寿々花さん」

まともに相手しなくて良いから。お人好しだなあんたは。
こうして、俺のトラウマを増やしながら「夏っぽいこと」を体験し。





そろそろ、夏休みも終盤に差し掛かった頃のこと。




「はー…。終わった終わった」

シャープペンシルを机に置いて、俺は安堵の溜め息をついた。

長かったよ。

でも、やり遂げたからな。セーフ。

「?…何が終わったの?」

俺の傍で、おままごとセットを出して遊んでいた寿々花さんが、きょとんと首を傾げた。

よくぞ聞いてくれた。

「宿題だよ」

「宿題…?」

「そう、夏休みの宿題」

「宿題…」

何でそんなに反応薄いんだ、と思ったが。

そういや、女子部の生徒は夏休みの宿題なんてないんだっけ。

夏休みは、海外旅行や避暑地の別荘で過ごす生徒が多いからって。

全く、羨ましい話だよ。

「問題集やプリントの宿題は、さっさと終わらせたんだけどさ…。読書感想文と小論文っていう、面倒臭い奴が残ってたんだよ」

あと、英文読解な。

これらが面倒臭くて、ついつい後回しにしてしまってたんだよ。

本当は、もっと早くやるつもりだったんだぞ。

円城寺が寿々花さんをオペラに連れ出した日な。あの日に終わらせるつもりだったのに。

円城寺にムカついて、それどころじゃなくなって。

結局また後回しにして、今日に至る。

そろそろ、マジでやらなきゃいけないと思って。

今日、朝から机に向かって…何とか終わらせた。

やれやれ。

これで、夏休みの宿題全部終わり。

始める前はうんざりした気分だったけど、こうしてやり遂げると、達成感が半端じゃない。

「宿題頑張ったんだ?悠理君、偉いねー」

小さい子にするみたいに、寿々花さんは俺の頭をよしよし、と撫でてきた。

そりゃどうも。

「寿々花さんのクラスは、やっぱり今年も宿題はないのか?」

「え?うん」

良いなぁ。羨ましい。

夏休み、満喫し放題じゃん。

「夏期講習ならあるけど、それは希望者だけだし…」

とのこと。

夏期講習ね。学校でそんなの開かれてんの?

男子部の生徒には、全くお声がかからなかったんだけど?

「寿々花さんは、夏期講習行かなかったのか」

「うん」

まぁ、寿々花さんは夏期講習なんて受けなくても。

学年一、いや、学校一の成績を誇ってるからな。

「だって、飛行機乗りたくなかったから」

…飛行機?

夏期講習と飛行機と、何の関係があるんだ?

「…何処でやるんだ?その夏期講習」

「オーストラリア。聖青薔薇学園の姉妹校があるの」

それ、夏期講習じゃなくて短期留学じゃね?

国内でやれ。つーか学内でやれよ。

男子部に全くお声がかからない訳だよ。

「夏期講習をわざわざ海外で…。さすがお嬢様…」

たかが夏休みの補習授業だけで、オーストラリアまで行ってたまるか。

それなら俺は、自宅のリビングのテーブルで、冷たい麦茶でも飲みながら英文読解やってる方がマシだよ。
…しっかし、夏期講習でオーストラリアかぁ…。

で、他の女子生徒達は、海外旅行に行って?

その他の生徒も、国内の別荘で優雅に過ごすのが当たり前なんだろ?

それは凄いと思うよ。スケールデカくて。

いかにも、金持ちの夏の過ごし方って感じ。

園芸委員長である小花衣美園(こはない みその)先輩も、海外に行くって言ってたもんな。

今頃、何処でどうしていることやら。

…しかし。

「…なぁ、寿々花さん。あんたはこれで良いのか?」

「ほぇ?」

ほぇ、じゃなくて。

「他のクラスメイトは、皆、旅行したりオーストラリア留学したりしてるんだろ?」

「うん」

「寿々花さんは、何もやらなくて良いのか?」

新学期になったら、クラスメイトは皆、旅行や留学の思い出話に花を咲かせるんだろうに。

現状、うちの寿々花お嬢さんには、皆に話せるような思い出がない。

海外行ってないし。別荘なんてないし。

周囲が楽しそうに、充実した夏休みの思い出を語っている中で。

寿々花さんだけ、話に加われずに気まずい思いをするようなことになったら…。

凄く気の毒。

「今からでも遅くないから、どっか海外に行くとか…」

寿々花さん、英語ペラペラだし。英語圏の国なら困らないだろ。

「海外…?別に興味無いけど…」

しかし、寿々花さんはいまいち乗り気ではない。

「悠理君が一緒なら、何処に行っても良いよ」

あ、そう…。

じゃあ今すぐ飛行機のチケット取って、一緒にアメリカ旅行にでも行こうか、と言いたいところだったが。

「無理だな。俺、パスポート持ってない」

生まれてこの方、国内から一歩も出たことがない引きこもりの俺が。

パスポートなんて、お洒落なものを持っているはずもなく。

今から申請していたら、夏終わるっての。

「じゃあ、良いや。悠理君とおうちで過ごす」

「いや…そうは言うけどな、このままじゃ夏休みの思い出が…」

寿々花さん一人だけ、話の輪に入れずに気まずい思いをしているところを想像したら。

いたたまれないと言うか、可哀想と言うか…。

胸が締め付けられるような気持ちになる。

それなのに、寿々花さんは全く気にしていなくて。

「夏休みの思い出?いっぱいあるよ」

むしろ嬉しそうに、寿々花さんはそう言った。

…何?

海外旅行にも、別荘にも留学にも行ってないのに?

「悠理君と花火大会して、りんご飴食べて、それから悠理君のお誕生日会をやって、ケーキを一緒に食べて」

「お、おぉ…」

「それからそれから、たこ焼きパーティーもやったでしょ?この間はお化け屋敷にも行ったよ。ね、思い出いっぱいだ」

…確かに、言われてみれば。

相当アグレッシブって言うか…。色々やったな、今年の夏休みは。
寿々花さんが楽しそうで、それは何よりだけどさ。

でも、そういうことじゃないんだよ。

周囲の人間が、三ツ星レストランの料理の話をしているのに。

近所のコンビニで売ってる駄菓子が美味しくてー、なんて話をしたら顰蹙買うだろ?

そういうこと。

俺達男子部の生徒にとっては、充分思い出深い夏休みだったんだがな。

女子部の生徒にとっては、家での花火大会や誕生日会なんて、そんなつまらないものはなかろう。

「あんた…本当にそれで良いのか?」

「何が?凄く楽しかったよ。今までの夏休みで一番楽しかった。悠理君が居てくれたお陰だね」

あ、そう…。

そう言ってもらえると、俺は嬉しいけども…。

でも…本当にこのままで良いんだろうか?

「他の生徒は、海外旅行や留学に行って、貴重な体験をして一回りも二回りも成長してるんだろ?」

「ふぇ?」

「それなのに、うちの寿々花さんは何もしてない…。これって不味いんじゃないの?」

遊んでばっかの夏休みだっただろ。

別に、遊びまくっても全然問題ない成績だから、気にする必要はないのかもしれないけど。

でも、このまま遊び呆けて夏休みを終えても良いのだろうか。

「それじゃ、悠理君が私に宿題を出して良いよ」

と、寿々花さんが提案した。

…何だって?

俺が、寿々花さんに宿題を…?

「いや…。俺の方が遥かに成績低いのに、寿々花さんに宿題を出せる身分じゃねーよ」

「そんなの関係ないよ。悠理君の方が、私よりいっぱい色んなこと知ってるもん。りんご飴だって、たこ焼きだって作ってくれたでしょ?」

それは…。

それはそれだろ?俺に寿々花さんより得意なことがあるとしたら、料理くらいしかないからさ。

「悠理君、宿題頑張ってたから。私も宿題頑張る」

「…」

何故か、凄くやる気満々。

宿題…ねぇ。

寿々花さんに宿題…を、出すとしたら…そうだな。

折角寿々花さんがやる気を出してるんだし。

じゃあ、いっちょやってみるか。

「よし、分かった。じゃあやってみようぜ」

「うん!」

丁度俺の宿題も終わって、時間の余裕も出来たからな。

今度は、寿々花さんの「宿題」に付き合うことにしよう。
…って言っても、宿題ってどんなことすれば良いんだ?

寿々花さんは頭が良いから、普通の…学校の科目の宿題を出しても、張り合いがないよな…。

そもそも俺、二年生の範囲なんてまだ分からないし。

女子部と男子部じゃ、カリキュラムも違うもんな…。

「寿々花さんは、どんな宿題をやりたい?」

本人に宿題を決めてもらうなんて、なかなか滑稽だな。

でも、本人がやりたいことの方がやる気出るだろ?

すると、寿々花さんは目をキラキラさせてこう言った。

「私、悠理君の出来ることが出来るようになりたい」

…はい?

「…どういう意味だよ?」

「悠理がいつもやってること、私も出来るようになりたい。お掃除とかお料理とかお買い物とか、何でも」

…マジで?

そう来たか…。

成程、確かに今の寿々花さんに欠けているのは、学校の勉強ではなく。

そういう、一般人が普段の生活で当たり前にこなしていることだな。

何せ、目玉焼きを爆発させるような人だからな。

「悠理君が得意なこと、私も得意になりたい。出来るかな?」

それは努力と才能に…応相談ってことで。

「気持ちは分かるけど…。あんた、お嬢様だろ?」

「ほぇ?」

「お嬢様なのに、家事やお使いが出来ても…」

そういうことは召使いに、もっと言えば…俺に任せておけば良いものを。

「何で?悠理君がやってること、私もやってみたい」

あ、そう…。

本当、変わったお嬢様だよ。

「駄目かな?私には出来ないかな?」

「いや、そんなことは…」

努力すれば、大抵のことは何でも…。

…と、思ったけど。

人間には、向き不向きってものがある。

危うく家庭科室を爆破しかけたり、家庭科の先生を気絶させたりする寿々花さんが。

今からいくら頑張ったところで、残り一週間ちょっとしか残っていない夏休みの間に、料理の腕前が上がるとは思えない。

勇気と無謀を履き違えるなよ。

ましてや最近の我が家は、例のインスタントラーメンのせいで、異臭騒ぎを何度も起こしてるからな。

下手に寿々花さんをキッチンに立たせて、夏休みの終わりにキッチンを破壊されたら…。

さすがの俺もへこむ。

ってな訳だから…料理は無理だな。料理以外で何か…。

じゃあ、掃除をやってもらうか?庭の掃除とか風呂掃除とか…。

いや待て。早まるな。

思い出せ、俺の誕生日の時。

廊下と階段を掃除しようとした寿々花さんが、バケツを引っくり返し。

そのバケツが、俺の脳天に直撃してコブを作ったことを。

…あれは嫌な思い出だったよ。

あれの再来は勘弁。

ってことは…残る選択肢は一つ、だな。
俺は、冷蔵庫や戸棚の中に入っていた食材を、片っ端から取り出して床に置き。

ついでに、財布から硬貨とお札を何枚か取り出して、これも床に置いた。

そして寿々花さんと向かい合って、カーペットの上に座った。

「はい、寿々花さん。じゃあ、ツナ缶とスライスチーズはどれだ?」

「うーんと…。これと…これ?」

しばらく迷って、ツナ缶とスライスチーズを手に取る寿々花さん。

「そうだ。それが大体…300円と200円で、合わせていくらになる?」

「んー…。600円!」

「…500円な」

「あれー?」

算数だぞ、寿々花さん。算数。

やっぱり、思った通り。

このお嬢さん、数学の問題はスラスラ解けるのに、金の計算は出来ない。

そういや、春先に一緒に買い物に行ったときからそうだった。

この人、普段クレジットカードで買い物するもんだから。

現金の計算の仕方が、全然分かってないんだよ。

…おまけに。

「じゃあ次。ほうれん草と鮭…サーモンはどれだ?」

「んーと…。これ?」

「…それは小松菜」

「こっちがサーモン?」

「それはサバだよ」

「あれー」

ほうれん草と小松菜の区別がつかないのは、まぁ仕方ない。許容範囲だ。

両方緑色で、葉物野菜だもんな。

レタスとキャベツの区別も同様。

でも、サーモンとサバの区別くらいはつけてくれよ。

色が違うだろ、全然。

「見分けるの大変だね。難しいんだね」

と、寿々花さん。

「悠理君は、たくさんの売り物の中から食材を見分けてお買い物してるんだね。凄い、偉いなぁ」

…褒めてくれるのは嬉しいが。

主婦なら誰でも、普通にやってることだからな。

「それに、こんなちっちゃいコインみたいなお金を一枚ずつ数えて、計算するなんて」

寿々花さんは100円玉を摘んで、そう言った。

…小学生でも数えられるけどな。100円くらい。

やっぱり、これは徹底的に訓練するべきだな。

学校の勉強より、ずっと寿々花さんに必要なことだ。

「でも、これが宿題だから。私、頑張るね」

「あぁ。頑張れ」

俺が考えた、寿々花さんの「夏休みの宿題」。

それは、クレジットカードを使わずに、現金を持って近所のスーパーにお使いに行く、というものだった。

所謂、初めてのお使いって奴だな。

小学生みたいだって?

俺もそう思うけど、今の寿々花さんには何より必要なことだと思うよ。

いくら、欲しいものは召使いが買ってきてくれるからって。

買い物くらい、自分で出来た方が良いに決まってるだろ?

最近はどの店も、クレジットカードや電子決済に対応しているレジが主流になってきている。

でも、春に行ったケーキ屋みたいに、個人経営の小さな店では、未だに現金しか取り扱ってないところもあるし…。

アナログ人間かもしれないけどさ、やっぱり現金の方が便利なときって、あると思うんだよ。

そんなときの為に、お金の計算の仕方は知っておいた方が良いと思う。

そういう訳で、寿々花さんにお使いを仕込んでいる訳だ。
いきなり「これとこれ買ってこい」と言っても、多分無理だと思って。

失敗して自信を失ったら、また玄関先に蹲って落ち込むかもしれないだろ?

だから、まずは家の中で徹底的に練習。

寿々花さんの好きなおままごと感覚で、「これください。いくらですか?」「○円になります」みたいな。

さながら、お店屋さんごっこだな。

良い歳した男子高校生がやるには、少々気恥ずかしい訓練だった。

しかし、このお店屋さんごっこみたいな訓練が、寿々花さんは気に入ったようで。

自分から進んで、ノリノリで付き合ってくれた。

「それじゃあ次…。味噌と牛乳と醤油はどれだ?」

「えーっと…。これがお味噌で、これが牛乳で…それからお醤油はこれ」

おぉ、スムーズに見分けられるようになってるな。

食材の数を増やしても、対応してきてる。

3日ほど毎日練習して、かなり出来るようになってきた。

寿々花さんが手に持ってるの、醤油じゃなくて焼きそばソースなんだけど。

それはまぁ、見なかったことにして。

「味噌が300円、牛乳が200円、ソース…じゃなくて、醤油が300円として、合わせていくらになる?」

「ん〜…。800円」

正解。

算数は分かるようになったな。

「じゃあ、払ってくれ。800円」

「うん。800…ってことは、100円玉が1枚、2枚…」

1枚ずつ、100円玉を数える寿々花さん。

「…7枚、8枚…9枚!はい、数えたよ」

数えた100円玉を、俺に手渡してきた。

…何で9枚?1枚多いんだけど。

まぁいっか。1枚足りないよりマシ。

「よし。なかなか出来るようになってきたじゃないか」

「本当?私、お使いちゃんと出来るかな?」

「あぁ。良い調子だと思うぞ」

「やったー」

やっぱり、本人がやる気満々っていうのが一番だよな。

宿題にせよ試験勉強にせよ、本人にやる気がなかったら、いくらダラダラと机に向かっても無駄だから。

「やりたくないなぁ」と思いながらいくら勉強しても、頭に入らないもんだよ。

その点、寿々花さんは無邪気なくらいやる気満々でさ。

そのお陰で、それはもうみるみる知識を蓄えていってるんだわ。

飽きっぽいように見えて、全然「飽きた」とか、「もうやめる」とか言わないしな。

こういうところ、寿々花さんの長所だと思うよ。素直に。

凄く真剣に頑張ってくれるから、俺としても教え甲斐がある。

…よし。これなら。

「そろそろ、本番に挑戦してみても良いかもな」

「…!本番?お使いに行くの?」

「あぁ。どうだ?」

家の中での訓練は、もう充分だろう。

そろそろ、実践の場に移るべきかと思うのだが…。

「不安だけど…でも、私頑張る」

よし、よく言った。

さすがうちの寿々花さん。

な?素直で良い奴だろ?